2026年7月13日月曜日

135 彫刻刀

人体にとって、血液は酸素やビタミンを運び、調節し、無くてはならない重要な役割を果たすことはいうまでもない。

人生においては、その役目を好奇心が果たすのではないだろうか。

好奇心があるからこそ、知恵が湧き出し工夫もするし、トライも出来、幸せも湧き出る。

小学校時代、貧しくてクレヨンが買えなかったが、じっとしていられなかった。

普請場(ふしんば)を回り釘を見つけてくる。

五寸釘は最高で、硬い木に打ちつけ、頭を火にくべ、トンカチで叩き、砥石で研ぐと色々な形の彫刻刀ができる。

カエルやハト、面や仏像など彫りまくる。

デイゴの木は枯れると硬いが、生の状態は柔らかい。

石膏代わりに使えるのだ。メガネの木なるものがあるが、その木を切って自分の骨格に合わせ、自作の水中メガネ、ゴーグルを作る。

三角や四角いガラスを根気よく削って(こそげて)丸くし、ヤラブの木の根に傷を付けると、蝋状の樹液が出る。

それをガラスの隙間へ詰める。

子供は骨格が毎年変わるので作り替えるのである。

ちなみに最初は竹で作ったが具合が悪いのでユナーの木で作った、水中メガネ発祥はこの島だと古老が言っていたが、定かでない。

最初は生芋で作ったそうだが、かろうじて一日しか使えなかったといっていた。

光男はかすかなチャンスを確実に生かしてきた、といえるのではないだろうか。

高校は叔父、叔母の家をたらい回しにされながらも、お世話になってやっと卒業する。

当然就職するところを上京のチャンスを得る。

会社選び、周りは金に目がくらみ、条件のいい会社へいくが、光男はテレビ界を選ぶ。

しばらくは鳴かず飛ばずの窓際族を決め込む。

沖縄が本土復帰をし、パスポートを焼き捨てると光男は豹変したが、そこには訳があった。


134 簿記

 石垣島の高校に理系コースはなく、光男は商業コースで簿記やそろばんを習い、上京後たった二年間夜学の理系専門コースを出、局入り。

昼間は重労働のため、勉強もままならない。

入社時、専門知識は同期の連中に比べれば雲泥の差で、かなり出遅れていたため、情報最先端のシステムは驚きの連続。

しかし好奇心の固まりの光男にとって最高の場でした。

父の言った、思った通りやればいい、これは生涯光男の座右の銘となった。

進路や会社選び、仕事の上、結婚など、誰にも相談することなく、存分に思った通りを貫いた。

おそらく、このブログを見ている人で光男より恵まれない境遇にある人は皆無でしょう。

かすかなチャンスを確実に生かす。

後へは引けない境遇が功を奏したといえるでしょう。

そう、島育ちの子供は15歳で親の傘下を出、親離れする。

親の庇護から外れるという事は、辛酸を舐める事になるが、この人生の第一関門をどう乗り切るかがその先を大きく左右する。

二十代、それは人生のチャージをする時期です。

たけしも鳴かず飛ばずの二十代があったし、テリーも書いた通りで、光男も同期にズルズル置いてけぼり。

ちょっとしたチャンスで豹変していったのである。

経験からして、人生で一番大事なのは好奇心ではないかと思います。

よく夢を諦めない、なんて言われますが、むしろ何でもかんでも好奇心をもってあの手この手でトライし続ける事が大事だ。

死ぬまで好奇心を絶やすな。

光男がメディア先進国アメリカをギャフンといわせたい。そして出来たと自負。

クイズやワイドショーなどスタジオ中心時、ロケの映像を全国のお茶の間へ流せばどんな変化があるのかテレビがどう変わるのか、好奇心の延長線だった。

ランプで育った光男は入社早々局の心臓部テレシネマスター職場へ配属。

そこは送信システム、膨大な送出機材、放送直前の素材管理、30局のローカル局制御、後に衛星回線制御システムなど情報の最先端。

高校は地元に理系がないため商業コース出で、目を見張るどころではない。

しかし寸暇を惜しんでラックの裏へ潜り込む。スタジオのラック裏、中継車のラック裏などすべて解明。旺盛な好奇心を満たす絶好の場であった。

後に光男は中継車を自作、その中継車で生放送までやってのける。

情報番組、渡辺浩弐司会「正義の味方」は光男自作中継車生放送番組であった。

キー局はネット問題、巨額のスポンサー費等を考えると、VTRやローカル番組は別とし、まず自作機の使用は認めないであろう。

キー局の歴史に自作中継車生放送番組の項目があれば、たった一人光男の名前が載るであろう。

一時、ダンプ松本などの女子プロレスがはやった時期があったが、その時も裏方として光男の存在があった。

内容的には中継車を持ち込む状態だったが、そうなると会場等で制約を受ける。

光男は映像システムをコンポーネント化しその都度ホールの隅で組み上げ、バラすシステムを作り上げたのである。

システムエラーで番組に穴が開けば膨大なペナルティーを要求される。

今なら簡単に出来るが、当時は大きなリスクを伴う手法を実行できる人はいなかった。

女子プロレス番組を見た人なら、当時他の番組にはないリアリティに富んだ番組であった。

番組制作費をかなり安く出来たのも当然だった。

133 高校

当然石垣島での下宿、高校を出ることなどあり得ないことだ。

石垣島にいる父の弟、叔父が乗り込み、生まれた子が栄養が行き届かず三人も他界して、やっと出来た男の子だ。

せめて高校くらいは出さないとあまりにもかわいそうだよ、と迫るが父は貝になるしかない。

とうとう光男を叔父が引き取り、高校を出すことになり、一年遅れて高校入学。

しかし二年も終わる頃、叔父と叔母の言い争いが光男の耳に入る。

叔父はご用聞きの便利屋家業。五人もの子沢山が、自分の子供すら育てられないくせに他人の子供まで預かる甲斐性なし。

と叔父母の言い争い。

二年終了で中退を決意し島に戻る。

今度は別の叔母さんが、もう少しだ、もったいない。

私が預かると申し出、やっとの思いで卒業。

当然地元で働き親や周りに恩返しをすべきだが、どうしてもあの五コマ漫画の映画が見られるテレビが忘れられない。

父に上京を打ち明けると「思った通りやればいい」と絞り出すように言ったのである。

わずかばかりの、戻るに戻れない金。

親や古里を捨て、本土玉砕を覚悟した特攻精神の原点。這いずっても引かない脳内プログラミングが出来てしまったのである。

光男はいつもあのカールブッセの「山の彼方の空遠く・幸い人の住むという」を口ずさんでいたが、光男にとって、それは山ではなく海だった。

人口数百人の島から五万人の大都会、映画館のある石垣島。

そして高校三年間、光男の脳内夢酵母は爆発的な発酵現象を起こし、沖縄本島を飛び越し、遙か海の彼方の空遠く、幸い住むと人の言う。

東京があるという。

紙芝居ではない、映画が出るという魔法の箱、テレビがあるという。

舳先へ立つ光男の視界に、巨大な東京、己の人生を存分にぶつけられる大舞台へたどり着いたのである。

人口数百人の島から五年後、一千万人の東京、そして放送界入り、全国のお茶の間、一億人を視野に活躍できる場を確保できたのである。

後は「これしかない!」

やるしかない、だった。


2026年7月11日土曜日

132 おいしい画どす

 ところがこの男、とんでもないことをしでかすのであった。

野球中継の技術総責任者は、中継車の中でカメラやVTR、音声や照明等に指示を出し、画像を瞬時に切り替えるテクニカルディレクター(TD)である。

このTDは12台のカメラ、6台のスローなど18画面、音響や照明など、インターカムで繋がっており、適宜指示を出し、かなり経験を積んだ15年、20年選手が通常は座る。

まさかの出来事だが、このB君、5年を待たずしてTDの席へ座っていたのである。

当然大ベテランは自分がTD席へ座る番。10年早い、と怒鳴りつけ、足を引っ張りそうなものだが、どういう訳かB君にはトチらせたくない。

という雰囲気を持ってフォローしたくなる性格だ。

大先輩、三カメさんいただきました、あんがとさん。

およよ五カメさん監督キープ、おいしい画どす。OK。なんて京弁丸だし。

怒号飛び交う車内の雰囲気が、がらりと変わっていたのだ。

TD経験のある大御所から「B君は君が面接採用した光男組だろう。どこを見込んで採用した?」と聞かれたが、こちらが質問したいところです、と答えた。」

もちろん甲子園経験A君も同期に負けじと、現在でも切磋琢磨中である。

今宵も後輩たちの成長ぶりをテレビで楽しみ、晩酌する光男であった。

光男中学卒業時、小児麻痺の妹は7歳、どん底生活だった。その日の食べ物すら確保できない状況。

忘れようにも忘れられない食べ物、それはカタツムリだ。

食べ物も底をつき何もない。雨が降ると石垣の合間から小さなカタツムリが這い出る。それを沸かして食べるのである。

勿論醤油や味噌もない。

ぬるぬるし、殻ごとジャリジャリ食べるのである。

母は痩せこけ栄養失調状態だが、必死に光男の命を繋いだのである。

フランス料理、カタツムリが高級料理らしいが、光男にとってはゾッとする食べ物、生涯口にすることはない。


131 映像技術における下克上

放送業界、歴史の最重要なVTR問題に立ち上がった人は一人もいなかった。アメリカへ立ちはだかった人はいなかった。

当時民放から見ると、国家予算にも匹敵する巨額の開発予算を行使していたNHKですら、このオメガ方式には関与する猶予はなかった。

技術資料館にはオメガ方式、これに由来する物証は一案たりともないでしょう。

このオメガ方式、電子編集こそがNASA開発のVR-3000を駆逐し、日本が先進国アメリカを一気に抜き去り、映像王国にのし上がった瞬間である。

光男は3年で方式問題、編集問題をクリアし、5年後にはアメリカ大リーグがお手本にするスローVTRを多用した番組を作り上げたのだ。

全国のお茶の間が明るくなったことはいうまでもない。

チャンネルや電波の系列など、小さすぎる、コタツでテレビを楽しむ全国の人々を常に意識しろ、が口癖。

光男の上司は慶応大卒の切れ者と言われた人物だったが、光男のことは、タイニン(大人)タイニンと呼び、全幅の信頼をおいていた。

未来の番組作りを託せる社員を採用しよう、と光男は新人採用に乗り出す。

サッカー番組の台頭は著しいものがあったが、当面野球は続くだろう、と考え野球番組メンバー採用を優先させ、筆記試験、書類選考から面接へと進んだ。

その中に甲子園出場者がいたので当確にしたA君、もう一人どうしても拍子抜けするB君がいた。

京都出身で、名前も公家が使う名前、応答が京都弁でくる。

スポーツ系でもなく文系でもない。

なに系にもあてはまらないが、ドラマのカメラマンでもやらせば使えるかな、と採用を決める。

新人は2年間、ドラマや音楽、報道取材やワイドショーなど、あらゆる番組の下働きをさせ、顔つなぎや適性を見極め、本人の希望も採り入れ、方向付けをし先輩に預け育てる。

一年が経った頃、つかみどころのないB君をどのジャンルへ当てるか悩んでいた。

しゃべりや対応のしかた、ふにゃふにゃに見え、どうやっていいのか、リンダ節、こまっちゃうな~と歌いたくなる心境。

しかし本人から野球をやらせて欲しいと言ってきたので、とりあえずやらせてみることにした。


130 ソニー社長さんよ

 ソニーは昔、ホームビデオのVHSとベータ方式の規格争いで大敗し、放送用VTRもかなり立ち遅れており、VTR事業撤退かと言われたが、光男の出現で一気に逆転。

なお放送用VTRでは独占体制。

開発担当部長だったM氏は後に副社長まで駆け上がっていったのである。

そこでまたまた光男のズッコケが出てしまうのである。

光男は何時も会社の近く、すぐ戻れる一キロ圏内の焼き鳥屋で後輩たちと番組談義をしていた。

ソニーM氏から会食をしたい、との連絡。

夕方営業マンが迎えに来、連れていかれたのがホテルニューオータニ最上階の、当時最高級のフランス料理店だった。

髭の剃り跡が青く、格闘家風のがっしりした体格、ニタリ顔が似合わない、チョコんと乗った白い帽子がこれまた似合わない男がうやうやしく迎え入れた。

光男が主賓だと分かっているのだろう。

横でメニューをさかんに進める。

これがまた訳の分からない言葉である。

焼き鳥屋に指定席を持っている光男、これほど上品な店、妙な外人に完璧に舞い上がってしまったのである。

とりあえず雰囲気を察したM氏が注文。

目の前に訳の分からない食べ物が並べられたのであるが、光男は一度もフォークを使ったことがない。

使い方を知らず手が出ないのである。

野蛮ではしたないな、と思ったが、M氏がパンを手でちぎっているので真似をした。

ビールだけは通じるので、パンをちぎり、ガボガボとビールを飲む。

泡盛で鍛え、横綱を自認する光男は雰囲気と変な外人に酔いつぶれてしまったのである。

たかがビールごときだが、雰囲気が人を酔わせる初体験をしみじみと味わった。

おそらくこの店で豪勢なフランス料理を注文し、パンだけで終わらせた客は光男だけではないだろうか。

あの青顎男は店員とこちらを指さしニタリニタリしている。

おまえフランス料理を食べる資格のない田舎者が、と言っているように見え、愛嬌なのだろうが、空きっ腹にニタリは腹が立つ。

癪なので方言で「ウワ、ファ~ナカ、バフォ~ン」(あなたが食べなければ私が食べる)と方言で言ってやった。

それにしても光男は食べ物でよくズッコケる。

ソニーの社員がこのブログ見ていたら、社長に伝えてくれ。

光男がニューオータニでのリベンジマッチ待っている、と。

当時ソニーはアメリカナイズナンバーワンと言われた企業で、他のメーカーの営業マンは飲み屋の接待。

場合によってはゴルフ接待など常識だったが、ソニー営業マンは喫茶店のコーヒー代とて、必ず宛名にソニー名がないと認められない、とぼやいていた。

接待がタブーな企業が名もなき光男を日本で一番高級なレストランでもてなす。

どれだけ利益をもたらしたのか計り知れないだろう。

当時のソニー社内事情、社風からしてあれほどの接待をした人は光男だけだろう。


2026年7月10日金曜日

129 テリー伊藤氏を生かす。

 問題は完璧にテリーに反発しているスタッフだ。

帰りに焼鳥屋へ立ち寄り、この番組は思い切った強化策をとる、と切り出すとM君は、怪訝な顔をしていた。

カメラ、音声、VTR課の課長がすべてスクラムを組みスタッフを出さないことになっている。

光男が部長命令を出したとしても社内事情は無理だと分かりきっている。

業界にはボツボツ、フリーでやっている人がいるはずだ。

彼らを動員しようと言うと、やったーと膝を叩いて納得。

さすが、と握手をしてきた。

ゴールデン番組なので日当は割り増し払いの触れ込みに、一気にスタッフ問題は解決した。

テリー伊藤氏はまだ初心者、ビートたけしとの間を取り持ち充分なるフォロー体制を取るように、とMカメラマンに指示。

軌道に乗っていったのです。

当時、雨傘番組だと手を抜き、二流カメラマンを当てるのが普通だが、キー局のゴールデンカメラマンを裏番組、当面の敵局に惜しげもなく当てる。

光男がいかにロケの映像を茶の間に届ける事を重視していたか分かるだろう。

またこの番組では各メーカーの試作機を次から次と取り寄せテスト。

ノウハウは後のオールロケ「ねるとん」番組へ繋いでいったのである。。

テリー伊藤氏は、光男がロケの統括としてバックに控えていたから、社会人初の大きな番組のディレクターが務め上げられたのだ。

ビートたけしもこのMカメラマンがいたから軌道に乗ったと言っても過言ではないだろう。

民放に勤める人なら誰もがあの巨額の予算とキャスティングで展開する大河ドラマを凌ぐ番組を作りたい、と思うがレギュラー番組では実現していない。

そう、光男とMカメラマンのコンビはいとも簡単にそれを実現したのである。

当時の日テレ、フジテレビ、両局の視聴率を合算するとレギュラー番組で常に大河ドラマを上回っていたのだ。

光男があの東大卒敏腕ディレクターと一歩も引かない覚悟で臨んだ裏には、この読みもあったことを書いておこう。

ビートたけしのスタジオ部分は日テレ局社員制作、完璧とは言えないが、ロケに頼る点も大であった、おまけの解釈。

日本テレビさん、ごめんなさい。


135 彫刻刀

人体にとって、血液は酸素やビタミンを運び、調節し、無くてはならない重要な役割を果たすことはいうまでもない。 人生においては、その役目を好奇心が果たすのではないだろうか。 好奇心があるからこそ、知恵が湧き出し工夫もするし、トライも出来、幸せも湧き出る。 小学校時代、貧しくてクレヨン...