正治じいは、大阪の漬物工場で、長い間働いていたが、ふらりと一人で、生まれ島へ戻ってきた。
結婚はしたことがあるのか、子供はいなかったのか、誰にも過去の話はしないという。
機嫌良さそうな顔で、どうやって手に入れたのか、泡盛の二合瓶を1本持って「光男、今日はオレのおごりだ!」と言ってふらりと入ってきた。
楽しいことがあったのか、いつもより、水の量が少なく、ほとんどストレートで、1本飲んでしまった。
「正治じい、この年で一人は惨めだよ、女はいなかったのか、どこぞに子供はいないのか」と聞くと、小さな目で睨み付けた後、どういうわけかポツリと過去の話をした。
漬物工場の近くにある、町内の縫製工場で働く可愛い子で、名前は良枝という。
良枝は母思いで、いつもセーターやマフラーを編んで、秋田の母に送っていたという。
二人は一緒になる約束をしていたそうだ。
そのうち良枝の母の具合が悪くなり、秋田へ帰ったとのこと。
正治じいは世帯を持つため、一生懸命働きに働いたが、そのうち島の自分の母の具合が悪くなったということで、呼び戻されたそうだ。
昔のことだ。今みたいに、飛行機が使えるわけでもない。一度果ての島へ帰ったら、二度と本土へ行くということは大変なことだ。
世帯を持つと約束した二人の関係はあまりにも遠く離れ、以後ぷっつり途絶えたという。
正治じいは、下手ながら、夜な夜な三線をつまびく。
そして歌うのは「籠の鳥」である。
良枝とのことは、誰にも話したことがない。初めて打ち明けたのだろう。
話の途中から、もうおいおい泣き出して、涙が止まらない。
80歳になった今でも良枝のことが忘れられず、夜な夜な「籠の鳥」を歌う。
会いに来たのに なぜ出て会わぬ。
僕の呼ぶ声 聞こえぬか。
今宵また南の小さな島の空に「籠の鳥」が響く。
声の限り、途切れ途切れに叫ぶ「籠の鳥」の歌は、物悲しい
そしてまた明日は港へ行き、若い娘を見つけては「どこから来たねー」と探し求める。
もう良枝は、こんな若さではないだろうに、正治じいには、色が白くて髪の毛を束ねていた、若い時の良枝との約束、面影をぽつりぽつり。
泣き崩れる正治じいの姿、そして、良枝が編んでくれたという、セーターを、今でも大事に、大事にしている。
正治じいは、もう長くはないだろう。
せめてひと目、秋田にいるという、良枝に会わせてやりたい。
良枝、一度でいいから、いや、生きているなら声だけでもいい。
命の限り、あなたを待ち続ける正治じいは、かわいそうだ。
正治じいの声が聞こえるか。
会いたさ、見たさに、怖さを忘れ。
会いに来たのに なぜ出て会わぬ。
僕の呼ぶ声 聞こえぬか~
搾り出すかすれ声は潮騒に沁みていく。