2025年7月16日水曜日

1050 障害者自立


しっかり自信をつけ、笑顔が戻った妹に、1番辛かったのは、何んだったんだと聞くと、体育の時間が1番辛かった。何度体育の時間がなくなればいい、と思ったことか、と小さな声での呟き。

島の広い運動場、友達が木登りをし、飛び回る姿、一人で見ているのは辛かった事だろう。

手術の傷跡が多く残る足を「よくも私の足、魚の腹わたを取るように、あっちこっち切り開いてくれたもんだ」と笑って言っていました。

東京での生活、銭湯へ行くしかありません。

傷跡の多く残る、麻痺した足を人前にさらす事は、辛かっただろうに・・・

耐えるしかなかったのです。

あれから何年か経った後、今度は、一級国家試験の更に上級、特級に挑戦するとの事で、ルートやパイ、微積分などの入り組んだ、ややこしい計算式を、どうしたら解けるのか教えて欲しい、と持ち込まれた。

特殊な電卓をプレゼントする。

問題は、どう考えても、大学卒業の学力を必要とした難問ばかりで、妹には不可能としか思えませんでした。

しかし、見事に合格、「電卓のおかげだった」と、お礼の連絡に、心から祝ってやりました。

あえて妹の事を記したのは、障害の有無に関係なく、平等に与えられた、この元気に打ち続ける鼓動がある限り、自身の置かれている立場や状況を正面から見つめ、

鼓動に負けない、強い心、唯一最良の道を選択して行けば、素晴らしい人生が送れるものと確信し、体の不自由な人達が、一人でも多く障害を乗り越え、社会の一員として胸を張り、堂々と生きて行って欲しい、と願うからである。

おそらく我が家は、福祉の光の届かない、日本南端の、最も貧しい家庭だったでしょう。

障害者と両親が、貧しさゆえ、2千キロという壁を乗り越えられず、会う事叶わぬ状況下、幸せを求め続けた、家族の絆、障害者の励みになれば、と・・・

最近、自分で決断し、実行する妹の姿を見る時、「この妹に幸多かれ・・」と祈る毎日。

妹は生涯、片足補装具で生きるしかありません。

補装具でも仕方ない、しっかり自分の人生を歩んで欲しい・・・

決っして忘れない、あの時の笑顔を。

「兄ちゃん! 私、給料袋、二つ貰えるように成ったのよ・・・」

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