2026年4月16日木曜日

1008 別れの杯

 空路が開かれた今では想像出来ませんが、当時、上京するには黒島から朝一便の船で石垣島迄行き、夕方石垣を出港し翌日の昼頃那覇港着、夕方那覇港を出、東京の晴海埠頭まで3泊4日、便数も週2便しかなく更にパスポート持参での上京。

もし危篤の知らせがあったとしても、帰郷するには最低一週間は必要。

ニキビだらけのあどけない顔の少年ながら、決して死に水は取れないだろうと、覚悟しました。

両親を前に生き別れの杯を交わさせてくれと頼み、別れの杯を交わしての旅立ちと成りました。

杯を交わす時、父は決して目を合わせまい、としていました。

拗ねているように視線を外し、何かを必死で耐えている様子。

多分、視線が合えば、上京は取りやめなさい、と口から出るのを耐えていたのでしょう。

両親にとって一番辛い時だったのかも知れません。

ひかる少年は、心から寂しがる両親の横顔を見せつけられ、白髪の様子や禿げ具合、シワの数までしっかりと瞼に焼き付け、刻々と迫る別れが辛く、この世で一番長い夜を過ごしました。

当時、石垣島の港は遠浅の為、沖縄本島行きの大型船が港に入れません。

7、8隻の橋渡船が沖の本船まで荷物や人を運び、最後に見送り人を運びます。

本船は一度目の汽笛でゆっくりと走り出し、見送り船は別れを惜しむかのように、周りを追走。

覚悟の上とはいえ、親との生き別れは、これが最後で2度と会う事が出来ないのかと思うと、あまりにも切なく、身を引き裂かれる程辛いものがあります。

妹は棒切れを突いてピコタン,ピコタン追いかけ「兄ちゃん、行かないで・・」と泣きじゃくる。

「兄ちゃん必ず帰るから」と諭し心を鬼にする。


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