2026年7月13日月曜日

134 簿記

 石垣島の高校に理系コースはなく、光男は商業コースで簿記やそろばんを習い、上京後たった二年間夜学の理系専門コースを出、局入り。

昼間は重労働のため、勉強もままならない。

入社時、専門知識は同期の連中に比べれば雲泥の差で、かなり出遅れていたため、情報最先端のシステムは驚きの連続。

しかし好奇心の固まりの光男にとって最高の場でした。

父の言った、思った通りやればいい、これは生涯光男の座右の銘となった。

進路や会社選び、仕事の上、結婚など、誰にも相談することなく、存分に思った通りを貫いた。

おそらく、このブログを見ている人で光男より恵まれない境遇にある人は皆無でしょう。

かすかなチャンスを確実に生かす。

後へは引けない境遇が功を奏したといえるでしょう。

そう、島育ちの子供は15歳で親の傘下を出、親離れする。

親の庇護から外れるという事は、辛酸を舐める事になるが、この人生の第一関門をどう乗り切るかがその先を大きく左右する。

二十代、それは人生のチャージをする時期です。

たけしも鳴かず飛ばずの二十代があったし、テリーも書いた通りで、光男も同期にズルズル置いてけぼり。

ちょっとしたチャンスで豹変していったのである。

経験からして、人生で一番大事なのは好奇心ではないかと思います。

よく夢を諦めない、なんて言われますが、むしろ何でもかんでも好奇心をもってあの手この手でトライし続ける事が大事だ。

死ぬまで好奇心を絶やすな。

光男がメディア先進国アメリカをギャフンといわせたい。そして出来たと自負。

クイズやワイドショーなどスタジオ中心時、ロケの映像を全国のお茶の間へ流せばどんな変化があるのかテレビがどう変わるのか、好奇心の延長線だった。

ランプで育った光男は入社早々局の心臓部テレシネマスター職場へ配属。

そこは送信システム、膨大な送出機材、放送直前の素材管理、30局のローカル局制御、後に衛星回線制御システムなど情報の最先端。

高校は地元に理系がないため商業コース出で、目を見張るどころではない。

しかし寸暇を惜しんでラックの裏へ潜り込む。スタジオのラック裏、中継車のラック裏などすべて解明。旺盛な好奇心を満たす絶好の場であった。

後に光男は中継車を自作、その中継車で生放送までやってのける。

情報番組、渡辺浩弐司会「正義の味方」は光男自作中継車生放送番組であった。

キー局はネット問題、巨額のスポンサー費等を考えると、VTRやローカル番組は別とし、まず自作機の使用は認めないであろう。

キー局の歴史に自作中継車生放送番組の項目があれば、たった一人光男の名前が載るであろう。

一時、ダンプ松本などの女子プロレスがはやった時期があったが、その時も裏方として光男の存在があった。

内容的には中継車を持ち込む状態だったが、そうなると会場等で制約を受ける。

光男は映像システムをコンポーネント化しその都度ホールの隅で組み上げ、バラすシステムを作り上げたのである。

システムエラーで番組に穴が開けば膨大なペナルティーを要求される。

今なら簡単に出来るが、当時は大きなリスクを伴う手法を実行できる人はいなかった。

女子プロレス番組を見た人なら、当時他の番組にはないリアリティに富んだ番組であった。

番組制作費をかなり安く出来たのも当然だった。

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