2025年7月16日水曜日

1051 オバタリアン

 

現在、不愉快な言動ではあるが、オバタリアンが定着しています。

電車がホームに近づくと、周りをキョロキョロ、ソワソワ見、前の席が空くならともかく、所かまわず、空席を取らないと、人生が大損するかの如く、席を立つ人とぶつかり会いながらでも、席を確保する姿。

降りる流れに平気で逆らう姿。

娘時代は、そうでも無かったはずなのに、自分さえ良ければいいのか、と聞きたくなり、切符を買う時、乗り物に乗り込む時も品のない素行に度々会い、やはりオバタリアンだと認めざるを得ない場面に出会うのは事実である。

何も先んじたからとて、長生き出来る訳ではなし。

飛び抜けて幸せとも言えないだろう。

綺麗な衣装を纏い、化粧をしたとしても台無しで、悲しい限りだ。

おそらく、バーゲンやスーパーの限定品売り出し等で、早い者勝ちの行動が、何時の間にか身に染み付いているのであろう。

大売り出しは、直接財布に影響が出るのでやむを得ませんが、他での押しのけ、へし分け出る行動は今日限り止めて貰いたい。

娘が母親の行動を見て育ち、子孫末代まで引き継がれて行くのか、と思うと、空恐ろしくなります。

道徳や人生を教えるのは、親の努め。なまったれ親が事あるごとに学校を責めますが、学校は全ての子供を同一教科書で同じように教えます。

己の子の個性を一番知っている親が、その個性を後押しすることで、立派な人間に成るのです。

「子供は、親の背中を見て育つ!」

このままでは、どんな大人が出来上がるのだろうか。

因果応報は、巡り巡って来る。

苦労して育てあげた子供達に将来、オバタリアンと呼ばれ、平気でシルバーシートを占領する、大勢の娘さんが出来たのでは、皆さんが、結果的に辛い思いをするのでは無いだろうか。

娘よ! 貴方は、素敵な女性になれる!

決っして悪い点は、真似する事なかれ!

一歩引く、貴方の心美しい・・・

そして、女性は世の宝。

女性無しに世の中成り立たず、男女雇用機会均等法も出来、議員や管理職等、女性は、世の中を動かす大きな力となっています。

そして、所狭しと活躍する、素敵な女性が、大勢見られるようになって来たのも事実です。日本は、美を重んじる国柄。

昔の男尊女卑の悪習慣のせいなのか、素敵な女性に対する呼び方が見つかりません。

例えばアメリカでは、ナイスレディー、と呼ばれると、上品で素晴らしい女性、と言う事で、呼ばれた方も誇りに受け止めます。

辞書には、貴婦人、麗婦人という呼び方はありますが、普段、素直に呼ぶには、ゴロ合いが、あまり良くありません。

素敵な日本女性を表現する、大事な言葉が、近代化から、取り残されているように思われます。

これで良いのだろうか?

女性の社会進出が著しい昨今、公式な場所やパーティー等で、素敵な女性に乾杯、と言う気持ちを表現出来る、総称が必要ではないだろうか。

女性議員は、すぐにでも実現すべきで、実現の暁には、第1号の総称で呼ばれる事でしょう。

 1054 冷凍人間?

 

テレビ界就職直後の昭和40年、晴海に新設された、零下30度という、冷凍倉庫取材に遭遇。

当時は冷蔵庫自体の普及率は低く、冷凍室付の冷蔵庫は未発売。

冷凍という言葉すらほとんど使われていませんでした。

冷凍倉庫自体も初めての開業で、大きな話題として取り上げられたのだ。

常夏の地で育ったひかるには、零下30度という世界は、かつて今まで生きて来た中では、とても考えられず、即座にコチコチの冷凍人間にされてしまう事しか頭に浮かんで来ません。

いよいよ本番になり、意地悪にも女性レポーターは奥の方へと入って行きます。

仕事なので、やらなければ、という意識はあるのですが、冷凍人間への拒否反応で足が竦み、何時でも逃げ出せるよう、入り口のノブに、しがみ付いているだけ。

本番が終ると、表へ飛び出すと同時に座り込み、二度とこのような仕事はやりたくない、と思いました。

周りからは、「テレビより、お前の恐怖に慄く顔が、一番面白かった」とからかわれ、今だに語り種。

氷や雪など、無縁の世界で育った人間が、冷凍倉庫へ入れ、と言われると冗談抜きに、どうしても浮かんで来るのは冷凍人間。

恐怖を感じ、拒否反応は間違いなく出て来ます。

もし皆さんが、これから乗る飛行機が間違いなく墜落する、と分かっていても乗らざるを得ない場合の事を想像すると、タラップを登る靴は、30キロにも感じるのではないだろうか。

ドアにしがみ付き、墜落寸前に飛び降りたい心境になるかと思います。

ひかるにとって、冷凍倉庫は、このような間違いなく死ぬのではないかと、恐怖を感じるところで、今だに零下30どという言葉は、身震いがするセリフ。

嫌な番組に冬の天気予報があります。

予報官が、「シベリアから零下30度の寒気団が南下し・・・・・・」

聞いただけで、金切り音が奥歯から後頭部へ引っ吊る感じがし、一晩中凍て付き、お願いだから、このセリフだけは絶対にやめてもらいたい.と思いますが、これは自分だけの問題ですので仕方がありません。

せめて、我が家のテレビだけは、このセリフを禁止用語とし、スピーカーから出ないよう、改造出来ないものかと考える、寒がりやの小心者。


1050 障害者自立


しっかり自信をつけ、笑顔が戻った妹に、1番辛かったのは、何んだったんだと聞くと、体育の時間が1番辛かった。何度体育の時間がなくなればいい、と思ったことか、と小さな声での呟き。

島の広い運動場、友達が木登りをし、飛び回る姿、一人で見ているのは辛かった事だろう。

手術の傷跡が多く残る足を「よくも私の足、魚の腹わたを取るように、あっちこっち切り開いてくれたもんだ」と笑って言っていました。

東京での生活、銭湯へ行くしかありません。

傷跡の多く残る、麻痺した足を人前にさらす事は、辛かっただろうに・・・

耐えるしかなかったのです。

あれから何年か経った後、今度は、一級国家試験の更に上級、特級に挑戦するとの事で、ルートやパイ、微積分などの入り組んだ、ややこしい計算式を、どうしたら解けるのか教えて欲しい、と持ち込まれた。

特殊な電卓をプレゼントする。

問題は、どう考えても、大学卒業の学力を必要とした難問ばかりで、妹には不可能としか思えませんでした。

しかし、見事に合格、「電卓のおかげだった」と、お礼の連絡に、心から祝ってやりました。

あえて妹の事を記したのは、障害の有無に関係なく、平等に与えられた、この元気に打ち続ける鼓動がある限り、自身の置かれている立場や状況を正面から見つめ、

鼓動に負けない、強い心、唯一最良の道を選択して行けば、素晴らしい人生が送れるものと確信し、体の不自由な人達が、一人でも多く障害を乗り越え、社会の一員として胸を張り、堂々と生きて行って欲しい、と願うからである。

おそらく我が家は、福祉の光の届かない、日本南端の、最も貧しい家庭だったでしょう。

障害者と両親が、貧しさゆえ、2千キロという壁を乗り越えられず、会う事叶わぬ状況下、幸せを求め続けた、家族の絆、障害者の励みになれば、と・・・

最近、自分で決断し、実行する妹の姿を見る時、「この妹に幸多かれ・・」と祈る毎日。

妹は生涯、片足補装具で生きるしかありません。

補装具でも仕方ない、しっかり自分の人生を歩んで欲しい・・・

決っして忘れない、あの時の笑顔を。

「兄ちゃん! 私、給料袋、二つ貰えるように成ったのよ・・・」

1049 神さま・・・


片方の足でペダルをこぐ乗り方を必死に練習。

遊び盛りの姿を見、何んでこんな目に会うのか。

完全にマヒした足、妹は、いつも男の子のように、ズボンを履くしかありません。

他の女の子同様、スカートを履かせてやりたい・・

何んで、スカートが履けない体になったんだ!

何んで3歳の女の子が、杖をついて歩かなければならないんだ!

何んの罪も犯していないのに・・・

何んで幼い女の子に、過酷な試練を背負わせるんだ・・・

何んで、不公平な扱いをされなければならないのか・・・

神様がいるなら助けて欲しい・・・

妹のマヒした足を見るたび、動作を見るたび、涙が止まりませんでした。

ひかるより妹のほうが、悔しい思いを数千、数万倍した事でしょう。

不自由な体での行動範囲はわずが、車を自由に乗り回し、本当の足代わり、見聞きする喜びは、人生最大の喜びだった事でしょう。

免許取得から数年後、妹の友人から連絡があり、電話は通じるけど、部屋には来ないで欲しい。

来ても、絶対に、中に入れない、との事。

ひかるが電話をしても、同じ返事。

でも大事な時は、必ず相談をしてきたので、こんどのことは、たいした事はないだろう、とあまり心配はしませんでした。

数ヶ月経過後、妹が、縫製技能検定試験、国家試験に合格したので、祝ってやって欲しいと、友人からの連絡。

受験のため、部屋中問題を張り、教材などで、足の踏み場もなく、人を部屋に入れる状況でなかったとの事でした。

その内、母校の東京都身体障害者職業訓練校から、後輩達のため、週二日の実技指導と講義を引き受けて欲しい、と言われている、との相談。

10年以上もお世話になっている縫製制会社だけど、最悪の場合は、やめる事を覚悟し、講師の仕事を受けるべきだ、とアドバイス。

学校側からも縫製会社に口添えがあり、会社勤めと講師の仕事を両立。

一級縫製技能者、という事で、会社や得意先からも信頼され、サンプル品や高級品の縫製からサイズ直し、後輩達の指導、と忙しい日々を送っております。


1048 杖つく少女

  

やはり数年もの間、その一言が、忘れられなかったのでしょう。

「障害者が免許を取得する場合、東京都には奨励制度があるし、大丈夫だ」と説得すると、長期休暇が取れそうにもない、との事。

会社の方には、兄からお願いしよう。長年働き、休暇の目的もはっきりしている事だし、理解してもらえるはずだと。

妹は最後に、全ての段取りは、自分一人でやってみる、と言って納得しました。

数ヶ月後、「取れた! 免許が取れた!」と、弾んだ声で連絡があり、祝ってやりました。

よほど嬉しかったのでしょう。

無口で必要な事以外はしゃべらない、兄にすら一度も笑顔を見せなかった妹が、車庫入れで失敗した事や、S字カーブで踏み外した事など、笑顔でしゃべりまくっており、30年以上も背負って来た何かが吹っ切れた様子。

このきっかけが自信となり、妹の人生は大きく展開していきました。

車を購入、地方出身の同僚達と、お盆やお正月に友人の田舎へ同行。

色々な土地や人との出会いや、見聞あり。

車が本当の足代わりとなり、あっという間に、日本全国が行動範囲になったのです。

やっと走り回れる3歳時、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけていた姿が、思い出されます。

突然、引き付けを起こす程の高熱にうなされ発病。

妹は自分の2本の足で、元気に歩いた記憶は無いでしょう。

小さな島には松葉杖とてなく、竹すらありません。

まっすぐな木を与えると、船の櫂を漕ぐようについて、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけて来るようになりました。

負けず嫌いで意地っ張りな性格、擦り傷やアザだらけになりながらも、右手で自転車のサドルにしがみ付き、左手でハンドルを操作。


1047 乙女心


ひかる24歳。妹が上京するとの事。

友人、及び親戚がなく、優しい言葉をかけてくれる人も居ない、厳しい東京で生きて行けるのだろうか。

片方の足は完全に麻痺しており、パスポート持参。15歳の少女である。

しかし、妹は余り干渉されない東京で、ひっそり生活したかったのでしょう。

小さな島、偏見の中で育ち、生きる全て、唯一の頼りは、兄だったのでしょう。

幸いにも東京都の身体障害者職業訓練校へ入学、卒業後、訓練校の紹介で縫製会社へ就職。会社の寮へ入れました。

数年後、同業他社へ転職した同僚から、「今までより条件が良いので来ないか、との誘いに乗りたい」との件で、相談。

無計画で、衝動的な行動に、思いっ切り叱ってやりました。

元気な友達は、あっちこっち転職するかも知れない。お前は障害者なのだから、他人の真似事はするな! じっと我慢しろ! と。

妹は寂しそうな、そして芯から怒っている、射抜く眼差しで睨みつけているだけ。

まさか兄から身体障害者扱いされるとは、思っても見なかった事でしょう。

夢見る少女心のショックは大きく、お互い気まずい無言の一時があり、「帰る!」と一言残し、トコトコ出て行きました。

その後、数年間の音信不通があり、ひかるの方から連絡、「運転免許を取ったらどうだ」と持ちかけると、どうせ「障害者なのでしょ」と、蚊の泣くような小さな声での返事。


 1175 豊年際

  黒島には、かなり古くから伝わる、豊年際の、ハーリー競争がある。 ハーリー競争は、中国や沖縄本島、石垣島や周りでも行われているが、この黒島の場合、かなり違った行事である。 船を漕ぐ競争だけでなく、ウーニーと呼ばれる、走り手、その競争が、かなりメインの役割をする。 写真は、ウーニ...