2026年5月6日水曜日

1033 窓外族

 20代後半、沖縄が本土復帰をする。

ひかるは大事にしていたパスポートを焼き捨てた。

ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。

そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。

第一期入社の同期の連中は、管理職として各部門を統括していたが、よりによってその連中が束になって、会社を辞め別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。

組合が出来労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。明らかに契約違反であり、フジテレビは、ひかるの所属する子会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。

取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは社のど真ん中へ担ぎ出されてしまったのである。

しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。

次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。

四度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員が殆んど組合員、会社の存亡すら危惧され混乱。

当然、沈静化する迄待とう、何んとか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。

しかし、ひかるは全く逆の発想だ。

こういう時だからこそ打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。

攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。

当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。

ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。

技術プロダクションとしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。

ひかるが手始めにトライしたのが、タケシのデビュー番組「天才タケシの元気が出るテレビ」だった。

兵頭ユキや高田順次の映像は、お茶の間に大いに受けた。

そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの集団お見合い番組「ねるとん紅鯨団」だった。

勿論この番組はとんねるずのデビュー番組だ。

この二つの番組でスタジオ中心から強引に外の映像を茶の間へ届ける。

並行して海外ロケ機材開発、海外の電源事情や電波問題などデータを確立。

30年後ノーベル賞に輝くリチュームバッテリーの初期商品BP-90を開発。

その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。

次回、裏話など・・・ご期待を。

1032 倒産

 東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。

第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所が、フジテレビ内に置かれた。

頭が良く入社試験の成績の良い人がTBS内第一事業所に配属されたと言れたが、たぶん事実であろう。

TBSはドラマ制作に力を入れ、ドラマのTBSというイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。

昭和40年、白黒からカラー放送へ転換していく中、NHKは視聴料はなし完全国家予算で運営されており、開局の早かった4チャンネルの日本テレビは巨人戦と力道山のプロレス超二大スポーツ番組の放送権利を保持。

横綱級で次に開局したTBSはドラマに挑戦で大関級。次に開局した8チャンネルのフジテレビはやっと幕の内かな?

親会社毎日新聞のTBSと産経新聞のフジテレビは手を結びカメラマンや音響証明VTRスタッフを有する東通を設立、将来はカメラ機材やVTRスタジオなど共有し巨大メディヤ企業化、日本テレビやNHKの番組まで作る想定だ。

しかしお互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。

バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産した。

新聞紙上を賑わせ、昨日まで社長と崇めた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。

第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。

勿論、会社更生法が適用されているとの事だ。

ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと胸をなでおろした。

カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。

しかしひかるは、冷暖房完備、皆んなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。

たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが一番の楽しみだ。

年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには全く蚊帳の外だった。

窓際族というよりは、むしろ窓外族だ。

課会や部会、全体会議があっても外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめそのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。

しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。


1031 巨人戦

 野球放送は、巨人戦を中心に編成されている事は言うまでもない。

野球ファンの5割は巨人ファンと言われ、アンチ巨人が2割いるとすれば、7割が巨人戦、観戦という事になる。

同時間帯に、巨人戦以外のカードを放送しても、なかなか視聴率が取れないのである。

巨人戦は、資本関係にある、日本テレビが過半数の放送権を持っている。

年間、140試合とすると、70試合は、日本テレビが放送する。

残りの70試合が、五つの球団、14試合ずつ分割されるという事だ。

横浜は、TBSと資本関係にあり、横浜対巨人戦14試合は、必然的に放送する。

フジテレビは、ヤクルトとの資本関係で、ヤクルト巨人戦14試合を、必然的に放送する。

それ以外に中日、阪神、広島もそれぞれ14試合ずつ権利がある。

例えばフジテレビだと、ネット系列の関西テレビが、阪神や広島などと交渉し、放送権を獲得する。

それを、関西テレビ発、フジテレビ系列で全国放送するという訳だ。

勿論、名古屋にもネット系列の局があるので、そこ経由で放送するという事。

TBSと、フジテレビ系列で、年間、だいたい55本くらい、半々で放送する。

残りの15試合をテレビ朝日やNHK、はたまた日本テレビの系列局で争奪戦するという形になる。

だから日本テレビは、70試合以上の放送枠を確保し、巨人が低迷すると大変だ。

現在はインターネットが普及し各球団とも試合開始から終了までネット配信。

巨人戦中心が緩和されているようである。

1030 TV界、就職状況

 昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。

NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。

世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。

当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。

夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。

民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。

TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。

そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。

その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。

その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。

昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。

ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。

テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。

ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。

(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)

求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。

待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。

クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。

15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。

会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。

ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であった、としみじみ感じたのである。

また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。


1029 主の役目

  避難場までは、1キロくらいあり、風速70メートルの逆巻く突風は、前後左右から揺さぶって吹き、決して同一方向から、均一的に吹いて来ません。

会話は嵐の中へ千切れ飛び、痛い程叩き付ける雨に、目も開けられず、風圧で、息をする事すら苦しく、顔をあげておられません。

大人ですら、進むのが困難な状況である。

闇夜の畦道、吹き飛ばされ、足に纏わり付き、やっとの思いで、避難場へ到着。

不安な一夜を過ごしました。

抗し難い、大自然の力とは言え、コツコツと築き上げた我が家が吹き飛ぶ。

翌日からの生活を思い巡らし、家を後にする時、父親の気持ちはどのようなものだったのだろうか。

南国の真夏、殆んど着る事の無いオーバーコートを着、荒れ狂う嵐に悠然と立ち向い、家族を守る。

父の背中はあまりにも大きく、凛々しい姿として瞼に焼き付けられ、ひかるが生きていく中、人生の厳しさに背を向ける事なく、前向きに立ち向い、家族を守る、一家の主の姿として生き続けたのだった。

また地震や緊急の災害時、持ち出す物は色々有るかと思いますが、オーバーコートが一番役に立つのではないだろうか。

コートを羽織る事により、風雨が凌げ、見通しの良い場所でも、下着などの着替えが簡単に出来、家の役目さえするのです。

咄嗟の災害時、真夏でもオーバーコートを持ち出す、心の準備が大事かと思います。

昨今は、粗大ゴミと陰口される父親像ですが、世の中平和過ぎ、父親の出る幕が少ないからとて、粗末にされたのではたまりません。

何か一大事が起きた時、それなりに、毅然として立ち向い、頼られるのが、主の役目。

今一度、それぞれの父親像を考えてみる必要が、あるのではないだろうか。


1028 画像

  


台風


1027 真夏のオーバーコート

  ひかるが小学校へ入る前の出来事で、瞬間最大風速70メートルくらいはあったでしょうか。

大型の台風が、島を直撃。平たんな島は、風圧をまともに受け、遮る物は何も有りません。

電気は無く、真っ暗闇の真夜中、轟音渦巻く風の音、激しく叩き付ける雨の音、そして、家がギシギシとマッチ箱を揺するが如く、激しく揺れ動いているのに目が覚めました。

暗闇に目を凝らすと、父と母が、いつもと違う、重苦しい不安げな顔で天井を見つめ、会話を交わしております。

父は、「台風は我が家を直撃する。この分だと屋根が吹き飛び、危険なので避難をする」と、ため息を残し、立ちあがりました。

母は、「この嵐の中、どうやって避難所まで、行き着くのか」と、脅え声。

(台風は目に向かって、左回りに風が吹き、一点にいて、刻々変わる、風向きと風力で、台風の目がこちらへ向かって来るのか、逸れて行くのか判断出来ます)

具体的に北東の風が東になり、時間経過で強まり北東の風に戻ってきた場合、間違いなくこちらをめがけ直撃体勢に入っている事になります。

父が、オーバーコートを出すよう、指示。

風があるとは言え、南国の汗ばむ真夏。

なぜ、オーバーコートが必要なのか?

雨具代わりに使うのだろうか?

答えはすぐ、出ました。

母が大事にしまってある、一着しか無いオーバーコートを出すと、無造作の中にも、襟元をきつく絞り、ベルトをしっかり締め、子供達は両方の裾に掴まれ、との事である。

初めて見る、父のオーバーコート姿でした。


111 人生最後のゴール

 三高流行の今時、しっかりした考え方に感心させられました。 確かに三高に越した事はないはずですが、世の男性に求められているのは外見や条件よりも、その人の持てる内面的な考え方や個性、生き方ではないだろうか。 夢を語り人生を語り、一緒になって人生ドラマを築き上げて行こう、と真剣に取り...