2026年5月30日土曜日

108 蘇って来る

 少年の目に映った魔法の箱、テレビは、東独はじめ東欧諸国の民主化にも大きな影響を与え、オリンピック中継等でもわかる通り、人々の目となっています。

情報の乏しい小島で育った、ひかる少年の目、子供らしい素直な目、だったのではないだろうか。

今の子供達にもこのような目は、あるはずで、清らかな瞳を見る時、将来、どのような素晴らしい人生が約束されているのだろうか、と期待せざるを得ません。

また親元を巣立つ時、県内にとどまるべきか、当時の、常識を越えた所へ飛ぶか、と真剣に悩んだ時期がありました。

しかし、親は既に50才を過ぎ、自分なりの人生を歩んで来た。

20歳30歳と歩む、己の今後の人生を考えると、ここで別れがあったとしても生涯離れ離れになったとしても、自分の人生を優先すべきだ。

という結論を得、行動に移したのです。

はたして何が少年に、生涯を左右する大きな決断をさせたのだろうか。

おそらく、遊びや悔しい思いの中から、沸々と湧き出た情熱でしょう。

あの甲子園で繰り広げられる高校野球、若者達が、たった一つの目標のため、最大限努力し、熱き鼓動、燃える鼓動をぶつけ合う。

勝っても負けても涙する、あの姿はブラウン管を通し、燃える情熱を感じさせ感動させてくれます。

光輝く瞳から流れ出る、あの大粒の涙は、どんな味がするのだろうか。

辛苦の涙だろうか

歓喜の涙だろうか

満足の涙だろうか

忍耐の涙だろうか

他人には分からない、自分一人の味でしょう。

流した涙は人生のアルバムとして脳裏に収められ、何万回でも蘇って来ることでしょう。

107 涙

 ひかるは昭和40年の入社時、都会の人にだけは負けたくない、という一心で、自分なりの知恵を絞っていました。

当時のテレビカメラはバカでかく、支える三脚は鉄の塊、ケーブルは78芯で銅の束。

それをカメラ台数分セッティングし、撤去。毎日が大綱引き。

それに比べ、スタジオは冷暖房完備で、暇な時には、タレントとも気楽に接する事が出来、同期の人達は、大半がスタジオ勤務を希望。

ひかるは都会の人達に負けない為には、丈夫な体を使い、皆が嫌がる中継部門で、自分の存在価値を見い出そう、と考え中継部門を希望したのである。

当時、球場は勿論、ほとんどのホールなど、中継回線が敷設されておらず綱引きだらけ。

しかし体力だけでは、単なるバカ力持ちだけに過ぎず、勝負になりません。

わら半紙を買い込み、毎日出かける球場や劇場は勿論、各区民ホール等の中継車の駐車位置やケーブル長。

引き回しからオケピットや舞台裏の状況。

ケーブルがお客の動線をまたぐ場合のケーブル覆いの絨毯の枚数から色など。

克明にデータを作り、次回そのホールを使う時は、必ずデータを頭に叩き込み仕事に臨みます。

数年後には、関東一円のほとんどのデータが出来上がり、あいつがいれば大丈夫だ、と言われ、若い連中のリーダーシップが取れるようになったのです。

そして30歳で社外族から、会社全体の流れを見る立場に立たされ、自分なりに周りの状況を分析、突破口を見い出したのです。

我々の脳細胞は、120億もあると言われ、この組み合わせから絞り出される知恵は、無限で、枯渇することはあり得ません。

もし、枯渇を心配する人がいるとすれば、それは太平洋の水をバケツで汲み、水が枯渇するのを心配しているようなものです。

無尽蔵な財産を使わずに、このまま灰にするには、あまりにももったいない話である。

ひかるは、波と岩の熾烈な戦いの中にも自分なりの答え、「これしかない!」を見いだしました。

そして父の生き方より、前にも行けず引く事叶わず、ただ現状のまま耐えるしかない。

「これしかない!」ことを教えられ、これしかない道を求めるよう心がけることが出来ました。

誰しもその時々の状況に応じ、今採れる最良の道を求めれば、結果については納得できるはず。

知恵という財産、知財を最大限有効に使うテクニックとして、これしかない 方法を試みる必要があるかと思います。

遅くない これしかない道 やってみよう。


2026年5月26日火曜日

106 知恵

 都会の子供たちを見る時、伸び伸びと遊ぶ場所や自然を見つめ、自分を見つめる場が少ないのには、考えさせられます。

子供は、遊びや自然との触れ合いの中から世間を見、色々な事に興味や疑問を感じ、人間や自然のルール、正しい心のあり方を学びとって行きます。

親の育て方にも問題があるのではないだろうか。

子供は誰しも、多少の癖や粗相はあります。

その部分を拡大するのではなく、良い点を10倍20倍にも拡大。

信じ見守ってやるべきで、子供は親に信じてもらえなければ、誰に信じてもらえるのだろうか。

もし親の考え方や方向づけで、子供の持てる素晴らしい才能や芽を潰すような事があっては、子供の生涯に問題を残し、大きな罪を犯した事になります。

ひかるは14歳で5コマ漫画に出会い、魔法の箱、テレビの解明を志し上京。

当時は、数少なかったできたばかりのカラーテレビ学科を選択。

テレビ業界を目指し、貫き通しました。

今の子供たちには、もっと広い門戸が開かれているはず。

皆が同じ方向に殺到する必要はなく、自分の求める道を本気で全うすべきでしょう。

恵まれ過ぎ、夢が見つけられず、虚無の世界をさまよう若者達を見る時、心痛あるのみ。

子供は、親の宝であると同時に世の宝、無限の可能性を秘めています。

物事を自分で判断し、自分に合った生き方、世界を舞台に活躍出来る、立派な人間に育って欲しい、と願わざるを得ません。

無い無い尽くしの少年が、体一つで生き抜いて行くには、どうあるべきかと考えた時、知恵を使う大事さに気づきました。

一口に知恵と言っても、日常の些細な問題から、仕事や人生に関するまで多種多様。

世の中、大発見と言われるものでも、ちょっとしたアイディアや、見方、発想の転換から出てくる場合が多いかと思います。

成り行きに身を任せて過ごす人や、何事にも知恵を絞りだす人。

こうした個人差、これこそ人生の分かれ目に、なるのではないだろうか。

如何なる有名大学で学問を詰め込んだとしても、それを引き出し、自分の個性に合った知恵として応用出来なければ、宝の持ち腐れ、時が過ぎると忘れていきます。

また、知恵を引き出す訓練の出来ている人は、どんな職種や職場へ回されたとしても、何らかの形で結果を残せる実行力のある人間になれるのだ。

105 花の予備校

 夜学時代はともかく、入社後も仕事に付き合いに、睡眠時間4時間の連続でしたが、今だに風邪ひとつ引いたことがありません。

3番目は、自然の中で育ち、色々な事に疑問を感じながらヒントを得、知恵を使う訓練が出来ていた点です。

どんな難問だとしても、どこかに解決策があるはずで、知恵を使う大事さは言うまでもありません。

4番目は、小さな貧しい島での生活から生まれた、周りの親戚や村人同士が助け合い、思いやる心です。

部下を持った時、100人いれば、100人に思いやる心が大事です。

自分さえよければ、他人はどうでも良い、という自分本意では、部下は付いてきません。

上京当時、田舎者という劣等感やプレッシャーはありましたが、その中でもひかるは、このような環境に育ったのだから、決して都会育ちの人達には負けるはずがない。

と、自分に言い聞かせ前向きに考えていた。

今でも間違いではない、との考えだ。

都会育ちの小学生が、北海道の農家へホームステイとして体験学習し、先生や友達と仲良く遊ぶ中から学ぶシーンが放映されていました。

素晴らしい制度ではないでしょうか。

屋根の雪下ろしや、2キロの雪道通学、厳しい自然と直接触れ、初めは恐れた牛とも仲良くなり、乳しぼりをしたり、父にジャレるが如く牛の背中に乗る。

牛の体温や肌触りの感触、目で交わす言葉など、脳裏に収められ、人生の良きアルバムになったことでしょう。

過疎化の中、廃校にならないよう取り組んでいるとの事ですが、可愛い子には旅をさせ、他人の飯を食わせる。

何事も百聞に勝る体験! 

これぞ生きた教育! 

子供たちの将来を考え、行政面からも制度化、促進する必要があるのではないだろうか。

体験は 花の予備校 人生の。

104 部族を維持

  本土の人には、なかなか理解できないことが、しばしば南の島では起こる。

陸続きでないため、また、その昔はエンジンなるものがなかったため、往来が難しく、方言や風習など、目と鼻の近い島でも違いがあるのだ。

黒島にも数十の部落名が残っており、それぞれの集落が自分達の子孫や部族を維持守るため、他部落との交流や結婚などを嫌ったということが実際にあった。

島の古老達の方言を聞いていると、色々な発見考えさせられるものがある。

方言で「痩せる」は「ヤギ」という。

動物の山羊からきているのかと思うと、動物の山羊は「ピシダ」という方言があり、まったく別ものだ。

逆の「太る」は「パンタル」という。

あれれ?丸丸に太った動物、中国にパンダがいる。

パンタルは、パンダと関係あるのかな?

ところで、テレビでは痩せる、ダイエットが流行っているようだが、そのうち日本全国、豚ではなくヤギだらけになるのかな?

あなたの周りに、ヤギ君いる?

パンタル君いない、あなたは、ヤギになりたいの?

我輩は、ヤギである。

ひかるは小さな過疎の島で生まれ育ち、都会育ちの子供達に比べ、恵まれていたのではないか、と考え、自負する点が多々あった。

一番目は先祖代々台風と戦い、作物が薙ぎ倒されようとも、忍耐強く生き抜いて行く。

根性なるものが、生まれながら宿っていたのではないかと思う点。

今の若い人達には、古くさい言葉に聞えるかも知れませんが、長い人生を歩む上では、コツコツと目標に向かって努力する、ということは大事な要素ではないだろうか。

2番目は子供の頃から裸で育ち、灼熱の太陽エネルギーを目一杯体で吸収、人一倍健康な体が育まれたのではないかと思う点です。


103 画

  


ヤギである。


2026年5月24日日曜日

1102 海の色

 沖縄県で3番目に大きな石垣島は、人口約5万人。

世界で初めて黒真珠の養殖に成功した地の一つで、鮮やかなエメラルドの湾。

波間にキラリと光る真珠の輝きがあり、入江に浮かぶ島々は真っ白い砂浜に取り囲まれ、砂浜から深みへの微妙な色の変調は絵の具を流し込み、風の筆で描かれたのではないかと思われる眺めです。

この色は、どうして砂に染まらないのだろうか?

例え、どのような名文をもってしても表現は不可能でしょう。

決して日本三景に見劣りのしない絶景。

一見に値するのでは無いだろうか。

 風筆や 描き尽くさん 八重の島

 海の色 湧き出る元か 川平湾

近年川平湾には異常に外国人が多い。それも中国や台湾 近くの東南アジア諸国の人ではなくヨーロッパ系の人でフランス人が大半。

ボンジュールが連発される石垣島だ。

訳を聞くとフランスの著名な旅行雑誌、価値ある観光地ベストテンに川平湾が入っているとのこと。

ぜひ一度、その目で確かめてみてください。


1100 画像

  


川平湾(かびらわん)

1101 西表島

そして、この残された自然を観察すると、動物たちは、月の引力による旧暦での行動。

黒島では、旧暦の決まった日の満潮時、島中のカニが、一斉に海へ向かい産卵をします。

道路や砂浜までが、足の踏み場もないくらい、カニで埋め尽くされ、これ程のカニが生息していたのかと思わせる数。

海は、卵で赤く染められ、ほとんど魚の餌食になる中、わずかながら、生き残って行くのです。

甲羅が5センチ以下のカニ、どうやって産卵日を計算しているのだろうか?

年に一度、間違いなく日時を計算し、一斉に産卵する自然の営み、一度は都会の子供達に見せたいものです。

また、日本では、唯一亜熱帯気候に属するこの地区は、2月に入ると、気温が二十二、三度にも上昇し、どっと春風が押し寄せ、百花繚乱の季節。

もし桜があれば、間違いなく正月には咲くでしょう。

3月には日本一早い海開きが行われ、暖かい春風が、沖縄本島へ九州へと北上、日本の春は、八重山の元旦から出発していくのです。

南国の山々は、一年中緑を湛え、春夏秋冬というはっきりした変化もなく、季節は北風の吹く季節とか、うりずんの季節、という呼び方で表現され、春夏秋冬という方言も見あたりません。

ひかるが上京して一番驚いたのは、山一面が紅葉し、落葉する事でした。

初めての冬、木々が落葉し、裸山の姿を見た時、間違いなく枯れた、木々が新しく地面より芽ぶき大木になる迄、これから何年かかるのだろうか。

化学兵器が使われたのか?

天変地異が起きたのか? と考え、この世も終わりではないかと思ったものです。

子供の頃不思議に思った、落ち葉焚きが後に理解出来るようになったのだ。

また考えられない事かもしれませんが、ひかるの家の前には、自然のサボテン林がありました。

トゲがあるため、人間や牛馬、他の動物は一歩も入れず、トカゲやヘビなど、爬虫類の格好の棲家。

サボテンと言うと、誰しもメキシコを連想するかと思いますが、日本にも自然のサボテンが群生する気候があったのです。

そして、誰しも、沖縄の自然は素晴らしい、と絶賛しますが、この八重山地区は離島のため、未だにあまり知られていません。

この地域は珊瑚群が、海底いたるところに見られ、この海域に眠る、世界屈指の珊瑚群は、復帰に伴う、日本最大の財産ではないでしょうか。

台風が作り上げた地形や山並みの変化に富み、西表島は、全体が絶景の至りで、沖縄本島に次ぐ大きな島にもかかわらず、人口は1700人程度。

いかにこの島が人を寄せ付けなかった島なのか分かるかと思います。

そして地球上の動物が絶滅していく中、20世紀最大と言われる、イリオモテヤマネコが、古代の生態系を残したまま、この島で発見されたのです。

遥か昔、西表島が中国大陸と陸続きだった時より生き続け、動物学上、貴重な猫だとの説。

外国からは、経済アニマルと呼ばれ、自然破壊が激しい国に見られていると思いますが、世界に類なき動物が生息する日本、おおいに誇るべき発見ではないだろうか。

今日も日本のどこか、息を潜め、獲物を狙う、百万年来生き続けた、古代の目が光っているのかと思うと、大きなロマンを駆り立たせてくれます。

古老の話によると、その昔、この西表島は山国のため、収入が少なく、税金を滞納。

島ごと、税金のカタに取り上げられ、国有化し、開発されなかったと言っていましたが、真意の程は、定かではありません。

2026年5月21日木曜日

1099 魔法の箱物語

 普段は、15、6頭の牛を庭先の牧場で放牧し、牛には家族の名前をつけ、子や孫と話すように、牛と対話しながらの生活。

いち早く血統書に注目、島根県産の血統書付母牛を導入。

初めの内は、訝かられたそうですが、今では血統書が重宝されるようになりました。

牛は、子を産むごとに、角に一輪ずつ節目がついて行きますが、父の牛は、血統書の生年月日と、節目の数がぴったり合う、いわゆる、毎年子供を産む安産型、骨太で肉付のいい優良牛だったのです。

その牛を競売に出したところ、今までにない最高値が付き、大きなトロフィーが贈られ、位牌の横に、誇らしげに据えられました。

父は小さな島で一生を終え、息子と一つ屋根の下で生活する事が、叶わなかったにも関わらず、幸せだったと思います。

きっと、ひかるがテレビを運んで来る、と信じ、自慢していた父。

親にとって、息子が信頼出来、自慢出来る事は、最高の幸せではないだろうか。

そして貧しいながらも、住み慣れた土地で、生涯が送れたのです。

家で映画が見られる、魔法の箱物語。父は最初から賛成していましたが、晩年の父の姿に、その訳が分かりました。

映画が好きで、特に洋画の世界は、我をも忘れる大好き人間。

過疎の村で、朝一番に、お茶ではなく、コーヒーを点てて飲み、洋画の世界に浸る父は、本格的なロマンチストだったのでしょう。

少年の夢、父の理解が大きな役目を果たし、5コマ漫画のロマンは、親子2代のロマンでした。

我々日本人は、大自然に浴し過ぎ、恩恵を過小評価しているものではないだろうか。

北海道から、南は台北よりも南に位置する、八重山地区までの海岸線の総延長。

暖流や寒流が交差し、北が氷に閉ざされている時期とて、南の島では水泳が出来、四季折々の花や食べ物など、季節感が楽しめる。

これ程、自然に恵まれた国は無いでしょう。

特に最南端の八重山は、商業放送のテレビが最近開通したばかり。

観光事業や他の事業等も経済的な面で、採算がとれず、孤立した地区として、乱開発されず、豊富な自然が残されて来たかと思います。

1098 テルビ

 親に隠れ、おじいちゃんの位牌に線香をあげる、中学1年生の息子を感じた時、一人旅は無駄ではなかった。

学校では学べない、大事な事を南の小さな島で学んで来たな、と。

おじいちゃんも、孫と1カ月間同居出来、天国へのなによりのお土産だった事でしょう。

 ひかるの父は、島で生まれ育ち、島から出た事がありません。

勿論テレビなんて物は見た事もなく、何度言い聞かせてもテレビの発音が出来なく、テルビ、テルビと言っていました。

役場や農協の窓口の事務員を捕まえ、息子が東京で、テルビをやっているといつもの自慢話。

遠い田舎の事です。テレビの組立配線工として働いているのだろうとしか、思わなかった事でしょう。

帰郷の際、早速農協や色々な所へ連れて行かれ、東京でテレビの番組を作り、全国へ放送しているんだ、と話したら驚かれたのも当然。

更に、自慢話にハクが付きました。

子供達との同居をかたくなに拒み続けた父も、孫から要望され上京を決意。

島を引き上げる前、夏休みに家族全員で会う事を約束。

4月に他界した時、通帳に孫二人分、10万円ずつの飛行機代が用意されていました。

島のこの家で、家族そろって過ごす日、指折り数え待っていたのです。

夏休み迄には、まだ間があるのに・・

孫達には、お金に変えられない、おじいちゃんの気持ちが伝わったのは言うまでもありません。

父が必死で守り続けたこの家で、家族全員泊まる日、小さな夢、小さな幸せを叶えさせてやりたかった。

1097 恐怖の体験

 ひかるの息子、光一が、小学校6年生の夏休み。自然との触れ合いや冒険を体験させる、良いチャンスと、島のおじいちゃんの所へ、一カ月間、一人旅をさせました。

12歳で飛行機や船を乗り継ぎ、2000キロも離れた島への一人旅、不安だった事だろう。

島へ着いた夜9時頃、息子からの電話。

「おじいちゃんが、寄り合いに行き、一人でいるけど、オバケが出るよ! 怖いよー、今すぐ帰りたいよー」と、泣きべそ。

無理もありません。周りは家もなく静寂そのもの。

時期的に、コウモリの大好物な、防風林の福木の実が熟し、暗闇の上空を奇妙な声で行き交っており、遠くに聞こえる、フクロウの鳴き声も都会で育った子供には、恐怖の体験でしょう。

その家は、お父さんの育った家だし、オバケなんか出ない、男の子が、1カ月間の約束を破るな、と諭しました。

息子は畑仕事や牧場を手伝い、漁へも同行。

腰痛で、50メートルごとに立ち止まるおじいちゃんが、海へ入ると、もの凄いスピードで泳ぎ、素潜りで魚を取って来る姿に、驚いたとの事。

おじいちゃんの腰痛を見かね、初めての料理、目玉焼きを作ると、事のほか喜ばれ、失敗しながら何度か作るうち、うまく作れるようになったとの事でした。

無事、1カ月が過ぎ、黒々と日焼けして帰って来ると、早速お風呂へ入ろうとの誘い。

ひかるの足を点検、傷跡を見つけると、あったあったとはしゃぎ、ひかるが怪我した時の様子をおじいちゃんに聞かされ、確認したかったとの事。

おじいちゃん、本当の事を教えてくれたんだね・・と。

この際、ほかの傷跡も、一つ一つ教えてやりました。

この傷は、漂流した飛行機の残骸を解体中につけた傷だ。

この傷は、自転車の発電機で風力発電をしようと、木の上へ取り付けるため登り、その時落ちてつけた傷だ。

この爪は、水中鉄砲を作る時、留め金が外れ、潰したんだ。

など、教えると、興味深げに、目を白黒。

小さな手で、傷跡をさすり、「痛かった?」 と見上げる瞳は、輝いておりました。

そして夕食時、お父さんに意見がある、島のおじいちゃん、一人で生活するのは無理だよ、家に引き取ってくれ、と言われた時は、一人旅をさせてよかった、逞しく育ったなあ、と感心させられました。

翌年、同居の段取りを進めている最中、おじいちゃんは亡くなったのです。

孫の見る目は正しかった。

2026年5月20日水曜日

1096 別れ

 昭和63年4月、父危篤の報に、急ぎ帰郷。

しかし、父と会えたのは、息を引き取ってから既に15時間が過ぎていました。

ひかるがきっとテレビを運んで来ると、ひかるの作ったテレビが見られる日を、生涯の楽しみにしていた父は突然心筋梗塞に襲われ、79歳で帰らぬ人となりました。

ひとつ屋根の下で住みたかったのに・・

許してくれ!

少年の夢を見守ってくれて、

有難う・・

有難う・・

冷たくなった父を抱きしめ、何度も何度も呟きました。

お互い死に水は取れないと覚悟の上とは言え、何の反応もしなくなった父の姿に、「親不孝な息子だったのか」最後に一言答えて欲しかった。

15時間も経過しており、ゆっくり対面している間もありません。

喪主としての段取りや弔問客との応対、時は目まぐるしく過ぎ、仏事での貸切船や船頭へのしきたり等、長老の皆さんに教わり石垣島から黒島の墓へ無事納骨。

島の家で、位牌となった父と二人っ切りになった時、親子でありながら、生涯に交わした会話の、余りにも少なかった事を、しみじみ感じさせられました。

振り返ってみると、中学時代は、一家を襲った試練に両親が必死で立ち向かい、高校は石垣島での下宿生活、卒業と同時に上京。

親子が一緒に生活する期間が、余りにも少なかったのでした。

父は島を離れられず、息子は夢を追い続けるしかなく、別々の道を歩むしかなかった。

親子の絆のあり方、人生はこれしかなかった、と自分に言い聞かせるしかありませんでした。

もっと、たくさん話し合いたかったのに・・こんな親子関係で終わりたくなかったのに・・今となっては仕方がありません。

父は周りの人達が島を引き上げる中、目の前に広がる海を味方とし、自分には太平洋という、大きな畑がある。

海がある限り魚は獲れる、決して飢える事は無い、と言っていました。

この海は、息子や娘のいる東京まで続いているんだ、といつまでも浜に佇み、語りかけていたとの事。

弔問客も途絶えた真夜中の三時、父の愛した海が懐かしく、浜へ出てみました。

南国の夜空に、黙黒の大海原。

千古変わらぬ、さざ波の音。

遥か彼方より漂う、潮の香りを体一杯吸い込み、別れの杯を交した父の事を思い浮かべた時、満天の夜空に、白い歯でニッコリ笑う日焼けした父の顔が、超特大パノラマ画面で映し出されました。

親父! 親父は世界で一番、素晴らしい親父だった。

ひかるは、世界で一番幸せな男になったぞ! と言ってやりました。

必ず両親の眠る墓に、テレビを届けてやる!

親子の約束、必ず果たす迄頑張る、と心に誓い位牌を胸に、島を後にした。

テレビを待つ島の子供達や、お年寄り達がいる。

・・ロマン旅 いつまで続く また歩く・・。

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親父~・・


1094 防風林

 太平洋に浮かぶサンゴ礁の島は、リーフに打ち寄せる白いさざ波と、砂浜で、二重に縁どられ、家々は、四角い石垣と、鮮やかな緑の防風林にかこまれいます。

サンサンと降り注ぐ光と、鮮やかな原色の中、大地を踏み鳴らし、指笛を吹き、拳を握りしめ、力強く、激しい陽気な歌と踊りの世界。

汗あり、人々は、嬉々として、活気づいております。

そして汗ばんだ体を、夕凪が心地よく洗い流していく頃、待ちかねたように現れる一番星。

静寂の夜も深まり、ひときわ心を揺する、潮騒の音。

見上げると、満天に光り輝く星空。

しかし、この夜景は、昼間と様相を一変させてくれます。

星々の光は反射光で、影や色を再現する程強くなく、明るくない。闇でもない。淡い幻想的な、ふわっと浮く明るさのモノクロトーン。

青白い、冷たく透き通る光が、温暖な気候には、見事に溶け合います。

真っ赤なハイビスカスや、エメラルドの海など、原色の世界から色が消え、影のない、おぼろげな星明かり。

潮風は、体を通り抜け、草花は、夜風になびき、砂浜にたむろする恋人達は、影絵そのもの。

白いうなじにそよぐ黒髪は、一段と強調され、目元や鼻筋の陰影、微妙な濃淡の唇からこぼれる、白い歯。

かすかに現れる、モナリザの微笑など、今まで感じた事のない、エキゾチックな墨の世界が発見出来るかと思います。

この星明かりの世界、不思議と身も心も、和ませてくれ、繊細な部分や微妙な変化を見逃す事なく、再現してくれますが、なぜだろうか。

おそらく、視界に眩しく光る物がなく、猫の瞳孔が全開する如く、人間の目や心が、共に見開かれるためではないだろうか。

壮大な夜空を南北に割り、宝石をちりばめた、橋のない川、天の川。

年に一度、川を渡る、男女の逢瀬があると言う。

川幅は、何光年にも及ぶ事でしょう。

数え切れない星の数、砂粒一つが地球に値すると言うのですから、昔の人は、とてつもない、夢を描いたものだと感心させられます。

そして、昼間の原色の世界から、星座を眺め、エキゾチックな潮騒の淡い幻想に浸る時、心が穏やかに澄んで行くのが感じられます。

この大きな心の振幅の中から、人間としての情操が芽生え、育まれて行くのではないだろうか。

子供の頃、清らかな心の、まん丸い満月のような、欠ける所のない、立派な人間になりなさい、という意味の子守歌を聞き、満月を眺め育ちました。

星空を眺め、星の数は数えようと思えば、読めるけど、親の愛は、数えられない、という意味の歌など、今でもこの地方では、唄い続けられています。

誰もが思い出す、七夕祭りの彦星、織姫物語。

かぐや姫物語、月の砂漠の歌、幼い頃、歌い踊った、モーツァルト作曲のきらきら星等、月や星を眺め、幻想的で、おぼろげな世界。

その昔、日本全国、電気や車はなく、空は澄み、おぼろげな星あかりの世界は、各地で感じられ、人々の心に、大きな影響を与え、情感豊かな人間味が育まれたのではないだろうか。

あなたは、愛する人の瞳に映える星を、見た事がありますか?

人生、昼間と夜は半分っこ、太陽の下では星は輝きません。

また、我々の人生、陽のあたる時ばっかりとは限りません。

悩みや悲しみに光を求め、迷う時、星は一条の光を与えてくれる事でしょう。

人間として生まれ、月や星と無関係に生きるのは、大きな不幸ではないでしょうか。

星空に縁遠い都会の子供達、星の巡り合わせ、赤い糸で結ばれた親子の絆のあり方、子守歌代わりに、教えてやる必要があるのではないか。

人は、豊かな自然に触れる時、豊かな心が培われて行くのではないだろうか。


1093 二十歳の夢

 

昭和39年、小さな島から出て来た青年には、成人式とて誰も祝ってくれる人はなく、同郷の親友と二人、着飾る同年代を横目に、お金のかからない新宿御苑へ出かけ、二十歳の夢を語り合いました。

ひかるは、テレビの世界で生きて行く事を表明したのは、当然。

親友は、人に使われるのは嫌いなので、人を使う人間になる。すなわち、社長になることを表明。

当時、沖縄出身者だと、パスポートや身元保証人問題等ハンディキャップもあり、条件の良い会社へは、なかなか就職出来ず、使われる身で、よほど悔しい思いをしたことでしょう。

30年後、親友は、立派な大社長になっていました。 

いち早くコンピューターを導入、ステンレスを設計図通り自由に曲げる技術を確立。

列車や飛行機の厨房システム、ホテルの大型厨房システムなどの特別注文品を作れる会社を設立し、二十歳の夢を見事に実現して見せたのです。

小さな島から着の身、着のまま上京、金やコネ、頼れる人とてなく、自分の夢を追い続け、寸分の狂いない技術を確立するには、どれだけ知恵を絞り徹夜をしたのだろうか。

「この工場の地には、俺の汗が沁み込んでいるんだ」と言った言葉は、忘れられません。

共に少年時代を南の小島で過ごし、体一つで上京、二十歳の夢を語り貫き通した二人。

「夢は実現出来るものだなあ・」としみじみ。

「いつまでも、老少年で生きよう、旨い酒を飲もう・」と年に数回酒を酌み交わし、未だに未来を語り合う弥次喜多道中の男同士。

いつの日も、友は宝だ、ライバルだ!

現在、人口5万人の八重山地区からは、著名な人達が数多く輩出しています。

中でも、昭和39年から12年間、早稲田大学総長を努め上げた大浜信泉氏は、この地区の誇るべき師として仰ぐ大先輩の一人。

師が声を大にし「人は生まれた所で、価値が決まるものではない!」と言った言葉は、師ならではの、含蓄のある、奥深さを感じさせてくれます。

おそらく上京当時は、若く、命を賭けた決死の時代だったことでしょう。

そして激苦の人生を歩まれ、この言葉に表現されたのではないだろうか。

早大生はもとより、我々も師の言葉を座右の銘とし、後世まで引き継いで行きたいものです。

また、政財界にも多くの知人を持ち、当時の佐藤栄作総理大臣を動かし「沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない」と言わしめ実現。

プロ野球コミッショナーや数々の要職を歴任。

更に沖縄海洋博や、復帰後の復興に情熱を傾け、自ら尽力した事はあまり知られておりません。

他にも、カンムリワシと呼ばれ、全国を沸かせた、元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高君も、この地区の誇るべき出身者。

沖縄は戦前、戦中、戦後と波乱万丈の歴史を歩んで来ました。

また沖縄出身者も一人として恵まれた人はいなかったはずで、上京後それぞれの人生模様を体験したかと思います。

やはり人間は、ハングリー精神が大事で、ふるさとへ戻るに戻れない。

前へ行くしかない!

この気持ちが、強い人間に鍛え上げて行くのだろうか。

ふるさとは、辛き人生、慰める。

ふるさとは、いつも優しき母の顔。

2026年5月19日火曜日

1092 サンゴの花

 親サンゴは、動く事できず、自分の産んだ卵が、生き延びているのか、生死すら確認する事叶わず、2度と会う事も出来ず、ただひたすら、子の無事を祈るだけ。

私たちに、生き延びる厳しさを教えてくれ、まかり間違っても、殺めないで欲しい、と叫ぶ、親サンゴの願いが届くはず。

そしてサンゴの産卵、潮の流れが風となる、命の舞。

一度見ると、サンゴに対する愛着と理解が、一層深まるのではないだろうか。

また、黒島のサンゴに囲まれた海面下、1メートル前後の岩に、ある日忽然と、直径十数センチくらいの、岩の付け根が薄い茶色、花自体は、濃赤色のシャクナゲに似た花が咲きます。

薄くて、ゼラチン状の、ぬるっとした肌触りで、あまりにも薄く、潮流があると破れてしまい、咲く事は出来ません。

台風が綺麗に洗い流した後、潮流がほとんどない、直射日光が届く場所。

毎年咲く訳でもなく、同じ岩に咲くのでもなく、ある海域の何処か、一輪咲くだけの不可解な岩花。

サンゴの1種かと思いきや、4、5日後には跡形もなく消滅。

サンゴとは違う、微生物の集合体ではないかと思われ、今だに訳の分からない、幻の岩花。

観光客の多い今、幻の岩花は、見られるのだろうか。

1091 珊瑚の産卵

 美しく咲き乱れるサンゴ群、実は厳しい条件で、生き延びているのです。

サンゴの育成には、年間18度以上の海水温度と、ある程度の塩分濃度、透明度が高く、太陽光が届く条件が必要です。

しかし日本の最南端、八重山地区は、地球の母なる大河、黒潮が満たしてくれます。

また、このサンゴは、紛れもなく、口も胃もある、れっきとした動物だとのこと。

自然界に同じ形は二つとなく、段々花畑のように作られたサンゴ群の景色を眺めるとき、人間の作り上げた日本庭園や町並み等、比較に値しない事が歴然と感じられます。

植物の光合成は当然ですが、サンゴは、動物でありながらも光合成をする為、太陽を食べる動物。太陽の子、と呼ばれています。

光合成の結果、カルシウムの結晶で、骨格を形成して行くとの事ですが、実は年に一度、産卵をします。

普段はザラザラとした感触のサンゴが、ある時期になると、ぬるぬる状になり、臨月を迎えます。

8月初旬、満月の夜は、サンゴの産卵日でした。

物音一つしない不気味な海底、陣痛が始まり、見渡す限りのサンゴから、数千億にも及ぶ、朱色の卵が、雪が舞う如く、一斉に放卵。ゆっくり浮上する、命の舞。

動物の誕生に、これ程神秘的な世界があったのだろうか、と感動させられます。

地上の万物は、引力の影響を受けざるを得ません。

生まれたばかりの小さな命、どうやって、引力を振り切り、浮上するのだろうか。

そして、サンゴの群生する、水面2メートル前後の水温は、対流となり、横からの緩やかな潮流と交差し、縞状水温を形成。

優しく体を舐め、放卵された、無数の卵が、潮の流れになびく時、ふっと、水中に吹く風を感じさせてくれます。

暖かい南海で水着のまま感じる吹雪、生涯一度体感するのもいいのでは・・

生まれたばかりの小さな命は、浮上と同時に大空へ産声を上げ、さざ波のゆり籠に揺られての、旅立ち。

漂う卵は、ほとんどが魚の餌食になる中、万分の一個が、別な場所に辿り着き、そこを生涯の棲家とし、立派なサンゴへと成長して行く。

1090 画像

 


珊瑚の産卵。

1089 島ザル

 ひかるがVTR問題で仮眠の連続、死闘を繰り広げていた頃、家計は火の車であった。

食事はほとんど外食、疲れるので、たまにはビジネスホテルに泊まる事もある。

全てが会社の伝票で落とせる訳ではなく、小遣いが足りなくなると、女房が爪に火を灯して蓄えたお金を、むしり取るように持って行く。

団地住まいで、奥様族は、週に1、2度しか帰って来ないひかるを見、

「あの男、顔に似合わず、やるわね!」

「間違いなく女がいるのよ!」と井戸端会議だ。

当然、女房の耳にもそれは届いてしまった。

そして、二人の子供を抱え、貯金は底をついていたのである。

疲れ果てて帰って来たひかるの顔を見ると、女房は爆発した。

「母子家庭なら覚悟のしようもある!」

「しかし、もうこの貧乏生活、我慢出来ない!!」とテーブルをひっくり返し、怒鳴り付けたのである。

角が出る、なんてものではない。

針千本、いや、角千本だ!

さんまもびっくり、前歯をとんがらし、今にも噛み付かんばかり、恐ろしい形相だ。

次から次、出てくる言葉は、ひかるの脳に、あらゆる角度からブス、ブスと突き刺さる。

「もう、あんたの顔を見るのも嫌だ!」

「もう、これ以上の貧乏は、嫌だ!」

「出て行け!」

「あんたなんぞ、地球の裏にあるという、貧乏王国へ行けばいい!」

「即、大統領、間違いなし!」と。

がなるだけがなって、まだ足りないのか、周りにあるものすべて叩き割り、子供を連れて実家へ帰って行ってしまった。

ひかるは、なすすべもなく、一人酒を飲むしかなかった。

翌日、どう対応すべきか、ひかるは早めに仕事を切り上げ帰ると、女房と子供達が舞い戻っていた。

どうしたのだ、と聞くと、結婚当時、猛反対した親は、手ぐすね待っていたかの如く、あの沖縄の島ザルは、最初からものにならない、躾けはなっていないし、どうしようもない男だと、ありとあらゆる悪口雑言を並べ、すぐにでも離婚すべし! と急きたてる。

人間として扱われない悪口雑言に、今度は、女房が切れた。

冗談じゃない! 曲がりなりにもコツコツ洗濯機、冷蔵庫を買い、子供達まで出来た。

何の援助もしなかった親ではないか!

こんな所で、父親の悪口雑言を子供達に教え込まれたら、まともな子に育たない、と舞い戻って来たのである。

ひかるは、土下座をして謝った。

そして、ほんのちょっと、もう少しだけ時間をくれ。

今の放送業界、誰も気がつかない。自分がやるしかない。

などと、大言壮語、まくし立てたのである。

業界がどうのこうの・・・女房にとっては、へったくれもクソもない事だが、聞くだけ聞いてやった。

女房は、どうも貧乏神から逃がれられそうにもない、どうせなら、とことん貧乏を舐め尽くそう、と開き直ったのである。

お酒が飲みたい、と言うので、注いでやると、気持ちがほぐれたのか。

「今後は、あんたの事、貧乏王国大統領閣下と呼ばせてもらいますわ・・」

閣下様、私も、立派な大統領夫人になって見せるは! と笑顔を見せてくれたのである。

めでたし・・・めでたし・・・

勿論、ひかるは深く反省、その後、家庭を大事にしたのである。

それにしても、貧乏王国大統領、クーデターを起こすような人は、なさそうだ。

無期限任期は、辛いよう・・

野党の皆さん、お願いだ!

総理大臣を引き擦り下ろす前に、この大統領、引き擦り下ろしてくれ!

1088 世界制覇

 ひかるが上京して数年後、帰郷する。

再度上京時西鹿児島から東京まで列車移動。勿論金がないので寝台車など使えるはずは無い。

生まれ育った島が直径三キロにも満たない小さな島育ち、周遊道路は十キロにも満たない。

西鹿児島から東京まで、寝ても覚めてもガタンゴトンと走り続ける。ひかるが心底ど肝を抜かれ、恐るべきことは列車の枕木であった。

誰がどうやってこの枕木をこれだけ多く用意して作ったのだろうか。

線路は自分の列車だけでなく複数線あり都市部に入るとさらに増える。

最初は試しに隣の線路の枕木を数えてみたがとても数えられなかった。

日本人の技術は恐るべきものがあると心底感じたのである。 

電車を利用している皆さんはそのようなことほとんど感じないかもしれない。

小さな島で育ったひかるにとって、大きな発見であり疑問であった。

前記した通りビデオ信号の編集にはこの枕木の原理が利用されたのである。

映像信号は1秒間に30枚、枚数ごとにタイムコードと呼ばれる信号を入れていく。

10分間あるいは30分、1時間、2時間、3時間のタイムコードの数を計算すると分かる。

ひかるが初めて電子編集にとりかかった時、この枕木の数と原理がタイムコード枕木にリンクされ応用方法が考え出されたのである。

VTRのストップスタートを繰り返していくとタイムコードはズレる。昔テレビのVTR画像がビロ~ンと上から下に流れた。

解決策として1時間テープを30本なり50本、映像を記録する前にタイムコードを完璧に入れておく。

そこに映像を一枚一枚はめ込んでいけば、ストップおよびスタートを繰り返してもタイムコードはズレることはない。電車の枕木の原理が映像信号に使われたのである。 

このような発想をする人はひかる以外にはいないだろう。

大量のテープにタイムコードを手作業で先に入力する。

その後に映像信号を入力しデジタル編集をする、アナログ作業とデジタル作業を並行させるデジアナチャンプルー方式。

この方式は次の新しいアイディアが出て来た為ほんの一時期であった。

殆ど気がつかないが、テープをストップした時映像信号は空で黒味、30コマほどタイムコードを記録してストップさせる。

タイムコードを30個分巻き戻して映像が黒味の所から次の映像信号を入れ、タイムコードはロックさせていく。

機械的にやる為ストップスタートを何回繰り返してもタイムコードがずれることはない。

アメリカNASAが衛星偵察用に開発したVTRは幅が2インチで5センチ8ミリが横に流れ1秒に1枚、縦に1本ずつ線状に記録されています。

編集は線を一本ずつ縦に顕微鏡で見ながらカミソリで切り裏面で張り合わせる。

CMで5秒単位で5枚継ぎ合わせる作業は無理で、出来たとしても1時間テープはかなりの重量があり、高速の早送り巻き戻しで切れます。

日本方式は1インチ。2.54センチ幅が横に流れ斜めに記録、記録密度は2インチに迫ります。

あっという間に世界制覇していったのです。

1088 NASA

 当時、可搬型VTRとして、あのNASAが軍事偵察機用に開発した、VR-3000なる機種が、国内では4,5台導入されていた。

どういう訳か、その機種が、ひかるの会社にあった。

設立時、TBSとフジテレビが折半出資、別々に確保するよりは、子会社に持たせ、両局で使用出来る、という事で、導入されたらしい。

当時は、カラーテレビが飛ぶように売れ、大企業はフィルムCMから、色再現の良い、VCM作りに軸足を移しており、このVR-3000が威力を発揮していたのである。

オペレーター一人付で、日建て15万円でも、飛ぶように注文があった。

ひかるは売れれば売れる程、早く可搬型国産機開発の必要性、反米感情が日に日に増していった。

当然、ソニーも可搬型、Hー500という機種を開発しておりフィールドテスト中だが、どうにも訳の分からない回転エラーが出る。

チェックをするとOKで、エラーの原因が、全く掴めないのだ。

事故日報をピックアップし、気になる事があったので部下にその日の天候を調べさせた。

やはり雨が降っており、それが原因だが、室内での使用でなぜ?

その事をソニーへ連絡、しばらくして原因解明OKの連絡。

湿気でテープのツルツル裏面の貼り付き現象が出ているとの事。

湿度による微妙な事でエラーが出ていたのだ。

さすがソニーで、世界中の支店へ打電し調べ上げ、湿度の一番高いのはボルネオとの事。

それ以上の湿度でも稼動するよう設計変更。Hー500は全世界へ輸出され制覇していったのである。

VR-3000と並べて使うと、桁違いの性能。これでアメリカ製VTRを抹消出来た、と。

VTRは平坦な所で、そっと置いて使う精密機械、しかしひかるはトラックの荷台に紐で結え付け移動使用、どんな地震でも稼動する事を求めたのである。ひかるが立ち上がり、オメガ方式へ切り替える事が出来た。

出来なかったらと考えると、オートスレーディング、カセット化は難しく、途中から方式変更、と言う事態になれば、莫大な費用が掛り、番組内容にも影響したであろう。

そして、一番大事な事は、日本のVTRが全世界で認められた事だ。

南端の小さな島で、ランプの灯りで育った少年の目、どこかで垣間見たカセット、いずれ放送現場でも使われるだろう、と10年先を夢に描いたのである。

1087 オメガ方式発進

この昼メロが放送されるとソニーから電話、キー局がオメガ方式、大量の発注があったと歓喜の連絡が来た。

以後、あっと言う間にオメガ方式に切り変わっていったのである。

それどころか、ソニーは、海外でもその1インチを売り捲り、世界中でこのオメガ方式が統一方式となったのである。

編集システムを担当させた、ひかるの部下K君は、三越とフジテレビが折半出資、アルタスタジオを設立するとの事で、そこへ移籍させた。

今も元気で頑張っているようである。

また、K君は昼メロのヒロインと結婚。

ひかるは、上司として大勢の前で主賓挨拶。

しどろもどろで汗をかき、恥をかいて大きくなって行ったのである。

今なら書ける。***ソニーと方式問題で画策している時、フジテレビの予算執行、発注出来る立場にある、お偉いさんから呼び出しを食った。

「君は、親会社、キー局にタテついて、あらぬ動きをしているようだけど、やめろ!

親会社から、一言いけば、君のクビなんぞ、すぐ飛ぶぞ!」と、脅しというよりは、脅迫だ。

ひかるは、承知しましたと、そこを出ると、すぐさま「開発に拍車をかけるべし!」とソニーへ電話したのである。

夜は一人でいつもと違う焼き鳥へ行き、じっくり考えた。

業界全体を考えるべき立場の人が、自分のメンツばかり考えやがって、なんてケツの穴のちっちゃい奴だろうと、情けなくなった。

「ひかるの首を、袈裟掛け、みじん切りにしたとて、一文の得にもならない、やるんならやって見ろ!」と怒りが込み上げて来た。

ひかるは、今まで以上に、意地でもなんとかしてやろう、と固く誓ったのである。


1086 ノーベル賞

 日本の映像技術の原点にはノーベル賞が絡んでいた。

当時CCD搭載カメラとオメガ方式VTR。BVH-500の電源にリチウムイオンBP-90バッテリーが使われアメリカでは想像不可能。

デジタル先進国アメリカがどうしても日本に勝てなかった訳である。

更にビデオ編集にはとんでもないアイディアが組み込まれていく。

電車の線路と枕木、スピード串刺しが編集に使われたのだ。

線路を見て分かると思うが等間隔に枕木がある。

ビデオで言うとその枕木がワンフレームという事だ。

一秒間に30フレームだが枕木が30個あると思えば良い。

ねるとん求婚番組ではロケカメラ VTRを常時4チエーン使っていた。

30分テープを装着し同時スタート、ガチンコ映像を4台とも入れ止めない状態でそのまま30分間4台のカメラVTRが動き回って収録。

これでワンロール終了、ツーロール、スリーロールも同様にして収録していく。

編集時に、再生に4台、収録に1台、計5台を用意しVTR映像を列車に見立て、5台共真横から串刺しに固定、回転をロックする。

もちろん枕木、いわゆるタイムコードも横一列にロックさせる。

ガチンコ映像をそろえ、串刺しにした映像列車を同時にスタートさせ、記録されている4台の映像を5台目の編集テープに平行移動していくのだ。

再度ガチンコの映像に戻しスタートさせ、編集テープに黒味があれば埋めていけばいい。

モニターは大きめのモニターを4分割し再生映像4台の画を5台目の編集VTRへ嵌め込んで行く。

上に編集用のモニターを乗っけておけば、編集が今迄の編集では考えられない、とんでもないスピードで簡単に出来る。

勿論、今では線路を5本6本なんて言わずに30本50本なんて発想も出来る。

ひかるは世界初のVTR編集センターを稼働させたがその原点は上記の電車と枕木、串刺しの発想が40年前に有ったのだ。

日本の映像王国には編集面で革新的な知恵が使われました。

映像クリエイターやユーチューバー等の分野を目指す人は参考にして下さい。

技術的な事はソニーとリンクし、VTRと編集システムを同時に発売すると飛ぶように売れ、必然的に日本の放送VTR方式、ひいては世界のVTRが日本のオメガ方式VTRで独占された。

ひかるは当時、150人の部下を抱え、ドラマや音楽番組、スポーツやバラエティー、海外ロケから水中撮影、カメラや音響、照明などのスタッフ手配、番組内容把握、目の回る忙しさだが、それと並行して、編集システムの開発だ。

連日連夜、仮眠状態である。

そして編集システムが完成した頃、東宝から連絡があり、昼のメロドラマを日本製一インチVTRで制作し、放送しようとの話が持ち込まれた。

東宝、フジテレビ、ひかるによるプロジェクトが始動したのである。

もちろん、バックには、ソニーとひかるの連係プレーがしっかり出来ている。

世界初、一インチ編集システム、一インチVTR帯ドラマの放送が実現したのである。

その間、ひかるの行動は、死闘の二乗と言えるだろう。

昭和54年、1月から放送された昼メロVTR帯ドラマ 津軽海峡冬景色は世界初で 1インチ収録編集放送、業界に衝撃を与えた。


2026年5月17日日曜日

1085 渡米

 もしも貴方が歌手だったとしましょう。

音楽のスタート10秒前に爆竹の音を入れて録音しておきます。

ブルーバックの前でそのオーディオで演技をします。激しい動きであったりダンスであったり。

それをカメラ二台で録画し、音楽が終わるとまた前の爆竹のところにスタートを合わせ再度動作を録画します。

カメラのアングルやズームを変化させ十回ほど同じ事を繰り返し録画。

結果ブルーバック合成で20種類のビデオが出来上がります。

それを21のレールに見立て、上記の通り枕木をロック、列車を横から串刺しにし、21種類のフレーム画を平行移動させて編集。

完成ビデオを5,6種類作ります。これで貴方は素晴らしいユーチューバースターになれるでしょう。

多重録画と多重編集、簡単に出来ます。参考にしてみてください。

当時、ひかるは部下を毎年アメリカ偵察へ出張させ、アメリカの映像情報は逐一把握していた。

そして、開発の途に付いたばかりのオメガ方式をソニーへ乗り込み、数年の間にオメガ方式に決定。

命を懸けたその間の裏話などは、数冊の本になるくらいであるが、ここでは割愛する。

方式が確定すると、映画界、VTR産業、CM産業、放送業界は一気になだれ込んで来たのである。

東洋現像所は現IMAGIKAを設立、ボウリング場を借り切り電子編集を主にフイルムから変換して行った。

納入されたオメガ方式機種はBVH-1100だが、ひかるはその前のBVH-1000で電子編集を試みていた。

しかしひかるにはもう一つテーマがあった。

ロケ技術の遅れでクイズやワイドショーなどスタジオ中心の番組内容に、何とか外の映像を茶の間に届けたい、という夢だ。

これもタケシの元気が出るTVやねるとん紅鯨団などで実績を作り一段落した頃、ひかるはやおらアメリカ偵察へ出かけた。

ロスの知人と数十年ぶりに会う事にしたが、アメリカ人を同伴して来た。

一段落すると、その米人がひかるの隣へ来。

貴方を日本へ帰す訳にはいかない、としゃべり出した。

何が何んだか訳が分からない。

よく聞くと、これからメディアを買収する。

だから貴方にはその放送局をやって貰いたい、と言い出したのである。

日本では無名のひかる、あのNASA開発の超精密機械をあっと言う間にこの世から抹殺。

世界初の電子編集システムを稼働させた男としてマークされていたようだ。

このアメリカ拉致事件以後、ひかるの渡米は抹消。

1085 デジタル編集

このデジタル編集方式はソニーのオメガ方式とセットで発売されあっという間に世界制覇、

VTR産業で世界を席巻していたアメリカアンペックス社は完敗したのである。

NASAとアンペックス社が開発したVTRは2インチ方式で1インチ2.5センチでテープ幅は5センチ以上。

鉄粉が塗布されており60分テープはかなりの重さ、高速巻き戻しし1秒間に30枚の1枚にぴたりと止める事は当時の技術では難しい。

画像記録が5センチテープに縦に1枚ずつ記録、編集は縦に鉄粉の並び具合を顕微鏡で見、剃刀で切り縦にセロハンテープ状のテープを繋ぐ。左右のリールを高速回転から急ブレーキストップすると破断。

日本方式は1インチ幅、45度斜めに記録。当然記録幅も2.5センチを大幅にクリアー。映像と音声、更にワンフレー単位でタイムコードなる所番地を記録。編集は剃刀を使わずタイムコードで制御。高速巻き戻し問題無し。

ここで電子編集と言う言葉が出てくるがとんでもないひかるアイディアが出てくる。

ひかるは直径3キロの小さな島で育った上京当時西鹿児島から東京まで電車に乗った。勿論新幹線はなく寝台車でもない、

東京迄コトンコトンと走る。寝ても覚めてもまだまだ続く。とうとう不安が覆う、このままあの世行ではないか・・・

とんでもない電車に乗ってしまった、急いで飛び降りなければ・・・と。

しかし周りは平気な顔をしているので耐えることにした。

そこで心底感じたのは日本人の技術だ。西鹿児島から青森までの線路、コトンコトンと音のする枕木。

日本人の技術のすばらしさ脳裏に叩き込まれたのである。これが電子編集に生かされたのである。

西鹿児島から青森まで線路が三本有るとしよう。映像信号は一秒間に30枚、それが枕木に相当。左右の列車は別々の信号。

真ん中の列車はニューテープ。三台の列車は串刺しにし固定。走りながら左右の映像を真ん中の電車に隙間なく入れればいい。

当然大事になるのが三本のテープは前もって同じタイムコードを入れた後で映像信号処理。

映像信号記録前にすべてのテープに枕木のタイムコードを先に入れる。

編集時横に全て同期、列車も五台又は十台でも串刺しにし編集完成。世界初の編集センターが出来上がったのである。

このサイトは10年も前に立ち上げられましたが、当時から個人放送局という名称を使ってます。

現在ユーチューバーやビデオクリエイターなどという言葉をよく耳にします。

10年前このサイトを見ていち早く個人放送をやっていれば今頃はかなりヒットしていたのではないだろうか。

テレビの世界では40年以上も前から、ブルーバックにし、ブルーを抜き取りビデオ信号を合成するクロマキーという技術が使われて来ました。


1084 枕木

 新しいテープ50本なり100本を録画モードで先にタイムコードを手作業で記録する。とてつもないアナログ作業である。

そのテープを現場へ持ち込み記録されたタイムコードと同期をさせながら録画して行く。

編集時も編集用記録テープにも先にタイムコードが入っているので、再生VTR 4台なら4台と記録VTR計5台を完全にタイムコードをロック、同期させればよい。

そのような事を考え実行した人は誰もいない。ひかるは平気で実行、世界初の電子編集が実現したのである。

更にアイディアが重なる。

手作業のタイムコード入力作業、時間ロスを無くす方法を考えだした。

VTRストップ時、ストップボタンを押すと画像はその時点で無くなり黒味、しかしタイムコードをそのまま30フレーム記録し、そこで止める。

止めたところから30フレーム戻し、最後の画像のところでスタンバイを掛けておく。

次の録画時はタイムコードは既に記録されており、前の画像が無くなった所から画像を嵌め込み、30フレームの間に完全にロックさせればよい。

この作業、操作する人が全く気が付かない。機械的にそう成っているのでおそらく皆さんも全く知らなかった事でしょう。

この技術がホームビデオにも採用されアメリカが日本の真似をしようとしても出来なかったのである。

編集時には更にとんでもない多重編集アイディアが出た。

映像信号は1秒間に30枚、 10分間で1万8,000枚、この中から1枚単位で取り出しコピーする、これが電子編集である。

アメリカ方式だと定規を当てカミソリでカットして行く。

デジタル先進国のアメリカですら出来ない電子編集をどうやって日本で出来たのだろうか。

基本は前記した通りデジタルとアナログのチャンプル方式、更に枕木と列車の関係アイディヤが出て来る。

多重編集と呼んでいるが、実際に「ねるとん紅鯨団」でこの技術が使われた。

ロケの時にカメラとVTR4台を対にしてスタート後ガチンコを入れそのままテープが無くなる迄録画。

編集時に4台、ガチンコの所で同時スタートをさせ、5台目の編集用VTRに4台の映像を平行移動させれば編集が出来上がる。

これが多重編集という事になるが、問題なのが同期の問題だ。

電車のレールを思い出してください。再生用VTR 4台と編集用VTR 1台、合計5台の線路、5線路を想定。

枕木を横に1秒間に30個単位で横に連結同期させる。

レール上の電車を5台とも横から串刺しにする。

通常再生状態で再生4台から編集VTRに列車上で画像を平行移動して行く。

要はその状態で5台目の編集テープに隙間が無く移動できれば編集終了。

この電車、いわゆるVTRテープと枕木を同期させ、更に電車を横から串刺しにする、この状態で画像を平行移動させれば大成功です。

世界初の電子編集、デジタル編集はこの発想で完成したのです。

35年前日本ではデジタルという言葉すら馴染まない時代でした。

アメリカから見れば、デジタルが何かも解らない日本に超ハイテク電子編集が出来るはずがない、が常識だったでしょう。

手作業のアナログで何ん百万ものデジタル信号を綺麗に寸分の狂いない台座を作りデジタル作業を行う、更に枕木が登場、日本国内でも有り得ない事が起きたのです。


1083 カミソリ編集

 当時TV局で給料も良く一級技術者ともてはやされたのは剃刀の使い方で決まった。

美容師、床屋マン同様何種類ものカミソリを研ぎ顕微鏡で確認、磁気鉄粉の合間を見事に削除し細かくセロテープ状のもので張り合わせる。

下手な奴がやると高速で巻き戻しストップすると瞬時に破断NG、放送事故になる。

特に野球やスポーツ中継番組などベテランが必要だ。

ひかるも挑戦したが子供のころから畑仕事で指はゴツゴツ磁気面を顕微鏡で捌くのは無理だった。

NASAとアンペックス開発のVTR記録は2インチ幅が使われていた。幅5センチ以上のテープ。ワンフレーム事縦に一本線記録だ。

上記の通り剃刀が必要だ。

日本方式は1インチテープで密度を上げるため縦1本ワンフレームではなく、記録を斜めに記録しアメリカ方式に挑戦。

当然カミソリ編集は不可能。

さて電子編集誰もやった事がない。コンピュータもラックに基盤を嵌め、自作するしかなくバグとの闘い。

記録方式もフロッピーディスクも無い時代、紙テープにパンチ穴でのデータ記録方式。

ひかるはとんでもない知恵を出した。

それはデジタルとアナログをごちゃまぜにするというデジアナチャンプル方式で、更に多重編集を路線と枕木同期方式を実践するのである。

VTRには映像トラックと音声トラック更にタイムコードトラックを設け一秒間に30枚、ワンフレーム単位でタイムコード、所番地を記録していく。

その所番地でストップスタート等の制御を行い、更にワンフレーム単位で映像を抜いたり嵌め込んだりする事である。

当時の日本のデジタル技術では一秒間に30枚単位のタイムコード記録、呼び出しが無理であった。

ひかるは何をやったかというと、録画時に新テープに先にタイムコードのパルスを手作業で全編記録してしまう方法である。

収録時には既に最後までタイムコードが手作業で記録済みのテープに画像一枚一枚を嵌め込んで記録、という事である。

ホームビデオで子供の運動会を映像記録すると、ストップスタートを繰り返す。

再生すると必ずストップスタートした所で画面がビローンと一枚流れてしまう(昔の話)。

前と後の画像が同期していない為、当然で解決不可能だ。

ところがテープに最初から最後まで同期信号を先に記録しておき、画像を嵌め込んでいく編集スタイルなら同期が取れて流れる事は無い。

その原理が電子編集という事になる。タイムコードをアナログで記録、このアイディアで世界初のデジタル編集完成。

1082 方式論

 α方式とω方式の図で解るようにグリーンのヘッド部分を一回りしているのがα方式でω方式は交差していない。

テープ幅は2、5センチあるのでα方式の場合ヘッド部分のテープ交差を考えると、かなり長くする必要がある。

図緑のヘット部分、缶ビールのロング缶を想像して頂きたい。

なおかつ送り側と巻き取り側のリールにかなり奥行き、いわゆる前後の段差をつける必要がある。

送り側と巻き取り側のリールにも角度をつける必要がある。

ソニーが提唱するオメガ方式は平面でヘッド部分はロング缶状にする必要は無い。

将来的にテープスレーディングを自動化、又はカセット化する方法もオメガ方式なら考えられる。

ひかるは将来的な事を考えオメガ方式採用に行動を起こすのである。

流れでα方式に決定すると、いずれアメリカがα方式の欠点をカバーしたオメガ方式に近い方式で日本に迫って来る事を恐れたのである。

当時の放送局はフイルム素材が溢れ保管場所に倉庫を次々と契約するが間に合わない。

著名人が亡くなりライブラリーを探すがフイルムでは見つけるのが困難。

高速回転出来ないのがフイルムの最大の欠陥である。

ライブラリーに行き詰った局はアルファでもオメガでも、どれでも良い。

ω方式の20分テープより2時間テープのα方式が当然。α方式導入を疑問視する人は一人もいなかった。

しかし録画時、台本を5、6ロールに分割録画。出演者の都合でロール別にリールを何度も中途で架け換える。

将来のカセット化や使い勝手を考えると、交差のアルファは大きな欠点、オメガ方式になる。

ひかるはオメガ方式開発拠点であるソニーの厚木工場へ乗り込む。

駅前はだだっ広い田んぼと畑だらけ。倉庫のような建物があり、その中で20代後半の若者が5、6人オメガ方式を開発していた。

ひかるはまだ沖縄なまりが取れず、着ている服はオンボロ、名字は見た事もない沖縄名字。

訳の分からない、打倒アメリカが迫って来るだの、チンプンカンプンである。

うさん臭い奴 しーしーと追い払いたいところだろうが、年配の人が黙って聞いている。

話が終わると、訛りが気になったのか、ご出身は、と聞かれたので、沖縄であると言うと、握手を求め分かりました一緒にやりましょう、と言ってくれたM部長である。

開発は想像を絶するスピードで進み、あれよあれよという間にソニーのオメガ方式は世界制覇、ニ年後畑に倉庫の如き拠点は見事な巨大な総二階建ての近代的なコンベヤ工場、後にM部長は副社長になったのである。

当時、最初にどうしてもクリアしなければならない問題はテープにカミソリを使って繋ぎ編集するアメリカ方式ではなく、ワンフレーム単位で抜き取り貼り付けていくいわゆる電子編集が出来るか出来ないかが成否を分けるポイントだと見ていた。


1081 図

 


 オメガ方式(ω)

1080 図

 


 アルファ方式(α)

2026年5月14日木曜日

1079 ソニーのベータ方式

 カラー放送から十年、プランビコンカメラと2インチVTRの耐用年数が限界となり更新する時期になります。

ひかるは入社10年目、もともと沖縄で育ちアメリカ嫌いが染み付いております。

更新時期を持ってカメラとVTRをアメリカから国産品に切り替えようと、とんでもない事を考え行動に出ます。

カメラは撮像管方式から国産のCCD方式に切り替え、更にVTRは国産の1インチVTR方式に切り替える。

誰がどう考えても無理な事、しかしひかるはとんでもないアイディアを次々と連発、ニ年後にはものの見事に完璧に国産に切り替えます。

時の流れも加味しました。誰一人として気付いていませんが、ひかるは40年後にノーベル賞に輝く開発されたばかりのリチウムイオン電池に目を付けます。

これがいわゆる日本の映像産業を世界ナンバーワンにした原動力です。

デジタル分野ではアメリカと日本では親子の差があると言われた時代。

NASAが国家権力を持っても出来なかった電子編集を日本は簡単にやってのけます。

当時の開発状況を簡単に残していきたいと思います。

当時VTRは2分の1インチホームビデオとしてソニーがベータ方式を提唱していたのですが結果的にVHS方式に統一されソニーは完敗。

孤立無縁苦しい立場に立たされます。

放送VTR方式としてアメリカの2インチ方式から日本の1インチ方式への移行が模索されていました。

ここでもVHS陣営が推すアルファ方式とソニーのオメガ方式が対立。

当然の成り行き、VHS陣営が進めるアルファ方式採用が時間の問題とまで言われていました。

ソニーはホームビデオ、ベータ方式に全力を投入していた為放送方式ではかなり遅れをとっていました。

アルファ方式が2時間テープ使用に対しソニーのオメガ方式は20分テープしか使用出来ません。

素人的にはたいした問題でないように見えますがVTRは鉄粉が塗布され重い為、20分テープと2時間テープでは差があります。

高速で巻き戻し早送りし1秒間に30枚の精度でピタリと止める、あるいはスタートさせる制御は開発時間を必要とします。

ソニーのオメガ方式とVHS陣営が進めるアルファ方式ではどう考えても、ひかるの見た目ではソニー方式に軍配が上がります。

1078 放送用VTRとカメラ

 テレビのカラー放送が始まった昭和40年代東京の放送局キー局のVTRやカメラ等、全てがアメリカから輸入された機材でした。

日本のテレビ放送がアメリカのNTSC方式に準じて開始された為です。

世界には他にヨーロッパ方式と共産圏方式、この3つの方式でテレビの放送は行われておりました。

当時のテレビ自体がブラウン管と呼ばれる巨大な真空管であった事は往年の方なら分かるかと思います。

テレビ局側のカメラも真空管でプランビコンと呼ばれる撮像管が使われておりました。

レンズで取り込んだ映像信号をRGBの半透過ミラーで反射させRGBの映像信号を取り出していたのです。

プランビコンの形状は懐中電灯を想像してください。

画面の部分に高圧をかけ電池の部分から電子銃を発射、走査し信号を取り出していたのです。当然三本必要。

その映像を変調して東京タワーから各家庭へ送り込む、テレビ側では巨大なブラウン管後方のRGB電子銃から信号が発射され高圧をかけた画面に叩きこみ発光させます。

TVカメラもかなり重量があり形状もデカい物でした。

それよりまだデカイのはVTRでした。

テープ幅が2インチ、 一インチが2.54センチですから5センチ以上のテープ幅。

テープには鉄粉が塗布され、一時間テープだとズッシリ重くこれを高速巻き戻しで制御、磁気面の粉塵も吸い取りするので巨大なシステムです。

アンペックス社製で宇宙の偵察機にも旅行トランク大のVR三千が搭載され、開発にNASAが関与したといわれております。

これまた値段が目玉が飛び出る値段。キー局といえども4台くらいしか持てません。

予備機も必要でニ式という事、昔の俳優なら局で収録時、VTR待ち時間は度々あり、キー局ですらVTRの数の確保が出来なかった。

2インチVTRは電子編集が出来ませんでした。

記録信号は5センチ幅のテープにワンフレーム単位で上から下に記録されます。

1秒間に30本、いわゆる30フレーム磁気が綺麗に並びます。

それを顕微鏡で見、カミソリで上から下に切断、いらない部分を切り捨て裏面を強烈なテープで張り合わせる繋ぎ編集で、熟練した編集人でないと高速で巻き戻し中あるいはストップ時にバサバサ切れ、切れる事を想定し送出には必ず予備機も回します。


1077 真っ白い砂浜

 南の島には眩しいくらいの真っ白い砂浜があります。

どうしてこれ程までに白いのだろうか?

本土の砂は、岩が砕けた破片や内陸部より川に流された土や泥が、海水で洗われ砂浜を形づくっていますが、サンゴ礁で出来た小さな島は川もなく、周りと中心部が小高いコマのような地形になっており、大量の雨が降ったとしても、雨は地下水となり、土や泥が内陸部から海岸へ流れ出る事はありません。

島の砂浜は、海側から珊瑚の死骸や貝類がうち寄せられ、砕かれた石灰砂で出来ており、波の激しい浜では、角がとれ、普通の丸みのある砂になり、波の穏やかな湾や入り江では、星状のままになっています。

本土の砂とは、素材そのものが違う。幸せを呼ぶ星砂としてお土産品にもなっています。

子供の頃、巻貝の殻が高い値で売れており、白い殻がワイシャツのボタンに使われていたのです。

その貝殻や珊瑚の死骸等が、砂になるのですから、島の砂浜が精製された白糖のように、真っ白いのは当たり前。

また沖縄名物のハイビスカスと、赤い瓦に白い漆喰模様は、周りと調和し景観を楽しませてくれますが、島々のかわら屋根を台風や厳しい太陽熱から守るのにも、珊瑚が重要な役割を果たして来ました。

昔から赤い瓦屋根の継ぎ目を補強するのに、珊瑚を焼いて灰にして出来た石灰をこねて作った、漆喰が使われてきたのです。

ひかるが生まれ育った黒島は、世界に類を見ない素晴らしい島だ。

島の形自体は見事なハート型、ハートの両肩から下半球を取り巻くように、ものの見事なリーフがあります。

総延長7、8キロくらいは、あるのではないだろうか。

その島を取り巻くリーフと島の間には、これまた見事な大自然の陸橋の如き渡しがいくつもあり、その渡しと渡しの間は、東京ドームを遥かに凌ぐ、大きな天然の巨大プールが出来上ります。

リーフ上には、直径10メートル前後の大小プールが、いたる所に出現。

勿論、色とりどりの熱帯魚が、いっぱいいます。

リーフの内海は、潮流が殆んどなく、子供や女性でも自由に泳げ、しかも潮の干満で、常に綺麗な透き通った状態が保たれ、手入れや維持費も不要です。

数え切れない熱帯魚達と、色々な形をした珊瑚郡の稀に見る自然環境。

その昔、リーフ内には魚貝類等、膨大な量が捕れたとの事。勿論、今でも捕れます。

そして島には住人が溢れ、一大文化圏を形成していたとの事です。

歴史には出てきませんが、本当の意味での日本のインカ帝国と言ってもいいのではないだろうか。

ひかるは定年後、この島の生まれ育った家で、世界一大富豪の生活が約束されているようなものです。

なぜなら、父が自分の畑だと言っていた、大自然の大小数え切れないプールが目前。

プライベートビーチの如く自由に使え、リーフの内側に生息する、おびただしい珊瑚群。

熱帯魚達は、子共の時からの友人であり、仲間であると同時に大きな財産。

これだけのものを作り上げるとしたら、お金がどれくらいかかるか想像さえ出来ません。

この巨大な財産が自由に使えるのです。

自分の物、と言っても過言ではないでしょう。

そうだ、幸せは独り占めしてはいけない。

全国の皆さんにも楽しんでもらおう。

東京ドームより大きな自然の巨大プール、珊瑚や熱帯魚達が一緒に遊んでくれるぞ!

ここは日本最後の楽園だ。

そして、この大自然が、この世で一番恐れるものは人間。

脅かす事なく、壊す事なく、優しく見守ってやろう。

子共達へ残そう。

魚達よ!

珊瑚群よ!

体に気をつけ、元気で頑張れ。

会える日を、楽しみにしているぞ!


2026年5月11日月曜日

1075 我輩は猫ではない!!

 当時の沖縄は米国の統治下、東京から遥か二千キロも離れ、生まれ育った島は、日本の地図のどこを探しても載っていなかったのです。

そんな島があるはずがない!

地図にない、一週間以上もかかる、地の果てへ、娘を嫁に出す訳にはいかない!

代々江戸っ子の親には、とても理解してもらえず、あたかも出所不明の住所不定男か、結婚詐欺師の扱い。

訪ねる度に塩を撒かれ、しまいには座布団を投げられる始末。

結婚話は暗礁に乗り上げ、破談になるかと思われましたが、男としてここで引き下がる訳にはいかない。

意地を見せようと、芯から怒ったが、親戚、頼る人とてない二十五歳の若さ。

一人で立ち向かうしかありません。

結婚は当人同士の問題、親や家族が結婚する訳ではない。

文句を言われる筋合いは無いはずだ!

決して、路頭に迷わせるような事はしない。

信じて欲しいと説得。

最後の手段に訴えるしかありませんでした。

これ以上話をしても無理だ!

とにかくこの家を出ろ!

俗に言う駆け落ち・・

彼女が必要な着替えだけはと取りに行き、風呂敷包にし出る直前、

「こちとら江戸っ子だ、犬や猫がくっ付く訳ではあるまい、隣近所の付き合いもある事だし、式くらいは挙げたらどうだ!」

何! よくぞ犬、猫扱いしてくれたな!

我輩は猫ではない!! と怒鳴り返したかったが、ひかるは決断が早い。

何も喧嘩したくて喧嘩している訳ではない。

要は結婚がしたいのである。結婚が出来ればいいのである。

瞬時に頭を切り替え難問解決。

包みを解かせ、「式の日取りは、追って参上つかまつります」と。

彼女は心配顔。

今後この結婚話に反対する様な言動があったら、いつでも私のアパートへ来い、朝でも、夜中でも問題ないよう、管理人には話をつけておく、と・・

目出度く式を挙げ、娘と息子の二人の子供にも恵まれ、あれだけ反対した親も孫達の顔を見、誤解が溶けて行きました。

江戸っ子気質は一度信頼すると、後は何も残しません。

何事もひかるを頼りにし、女房より先に相談してくれるようになりました。

何んで実の娘に、先に話をしてくれないのかと、女房が焼餅を焼く。

平和な、ひかる一家であった。

1074 恋

 毎日が、ひもじい思いをし、泥棒走りをしていた二十歳。

この世にこれ以上いないかと思われる、美しい女性に、バイト先で出会いました。

声をかけるにも気が小さく、沖縄生まれだと言う、多少の劣等感もあり、ひたすら胸をときめかすのみ。

ある日、まさかと思われる、一大事発生。

その女性が、食欲がないので、自分のお弁当を食べて欲しい、と持って来たのです。

鮭と卵焼きだけのお弁当でしたが、まさかと思われる、好きな女性。

手作りの弁当かと思うと、美味しいの、どうのと言っている場合ではありません。

そして、彼女が目の前で見ているのです。

全身パニック!

世の中バラ色、生まれて最高に甘い食べ物に出会いました。

このままずーっといつまでも一緒にいたい・・・

弁当の味が忘れられず、恋が芽生え、一気に炎と燃え出し、この女性なしに人生はあり得ないと思うようになったのです。

男の恋、一度燃え出したら、止めようがありません。

体を張っての獲得作戦へと展開。

しかし相手は、生まれも育ちも東京両国で、垢ぬけた生粋の江戸っ子。

田舎っぺの取れない三度笠の似合う男には、とても無理かと思われましたが、「命に賭けても、幸せにしてみせる、この気持ちは世界中を探しても、私以上の男はいないはずだ!」 

結婚してくれと、猛うアタック!

一途な気持ちが伝わり、結婚に同意してくれたのです。

やったー!!、

男の情熱、何事か成らざらん!!

天の神、山の神、地の神、海の神、地上の全ての神々を招待し、どんちゃん騒ぎをしたくなったのも当然。

あまりの嬉しさに、気が狂ってしまうのではないか、と自分自身がわからなくなりました。

しかし、暗転、これからが一大事件。


1073 食糧戦争

 人類は間違いなく、100億に達しており、カラスとの食糧戦争は回避しがたい事でしょう。

都市部では、身近に感じられない事ですが、農村部や温暖な国では、すでにカラスとの食糧戦争が始まっています。

果たして、人類は勝てるのだろうか?

カラスは、人家に近い所に棲んでおり、核や化学兵器は使えず、戦車を出動させたとしても、一羽打ち落とされれば危険を察知し、戦車よりも早く、自由に空を飛び、山や川、海を越え、国境を破り、逃亡。

人類の一点攻撃型兵器は、通用しません。

例え、二、三万羽打ち落とされたとしても、毎年増える数からして、彼らにとっては平気な数。

もしひかるが、カラスの大統領に就任したならば、人類との食糧戦争は、大勝利を収める事でしょう。

一万羽単位で、カラスの編隊を組み、地球上の各ゴルフ場へ基地として集結させ、上空300メートルから、ホールを狙って、小石を落下させる訓練をします。

ゴルフボールは、訓練用に使う為、必然的にゴルフ場は、カラスの軍事基地と化し、手始めに、一万羽のカラスに、其々300グラムの小石を持たせ、猛スピードで走る、新幹線の線路へ一万個の小石を落下させ、波状攻撃。

新幹線は、小石の山に脱線し、多数の死傷者が出、世界的なニュースになる事でしょう。

滑走路や高速道路、至る所で、小石の攻撃を行う為、人間は恐怖のあまり、新幹線、飛行機、車を利用しなくなるでしょう。

線路の小石は拾って何回でも使用。

軍事開発費はいらず、即座に実行出来、路上の人や民家にも一万個単位で、小石の雨を降らせます。

屋根やガラスは割れ、ライフル銃で撃ち落とすにも、300メートル上空までは届かず、特に黒いカラスの夜襲は、効果覿面。

手が付けられません。

農家へは大事な食糧確保の為攻撃せず、人間をカラスの奴隷にするのです。

カラスを「烏合の衆」、と馬鹿にしていた人間共が、逆に、烏合の衆、と呼ばれる羽目になります。

カラスの大統領は、作戦本部を移動し、世界各地の戦況を悠々と視察旅行。

各国首脳は、連日の応戦会議で、精根尽き果てる事でしょう。

強力な軍事力で、地球の保安官を自認するアメリカ大統領が、茹で上がりのタコ顔で、目ん玉飛び出させ、「カラスの野郎!、ブッ殺してやる!」、と喚き散らす、じだんだ姿が目に浮かびます。

カラスの大統領は、カッカラカ、カッカラカ、と高笑い、見下げる事でしょう。

飛べない人間、国境、人種問題を抱える人間が、カラスに勝つ事は、容易ではありません。

カラスは、すでに貝類を上空より落下させて割り、中身を食べる戦術を習得済。

人間を共通の敵と認知した場合、高速道路を走る車に、小石を落下し、一台でも事故を起こさせ、殺せる事が分かると、全カラスに伝達され行動を開始。

カラスには国境がない為、国際的な問題解決策が必要。

国際会議の開催を提案します。

ヒッチコックの映画が、現実のものにならない事を切望しよう・・・

 今すぐに、開発しよう、カラスピル!

1072 カラスの大統領

 カラスの行動を観察すると、見事な連携プレー、編隊行動をとっている事が、分かります。

ニワトリのヒナを狙う時、一羽は見張り役。

もう一羽は、ケンカを仕掛ける役。

残りの一羽は、ヒナを奪う役目で、三羽での連携プレー。

親鳥が、ケンカを仕掛けられ、一羽のカラスに向かって行き、ヒナ鳥は、親の泣き声、様子に、危険が迫った事を感じ、オロオロ逃げ回るだけ。

奪う役目のカラスは、空から急降下し、逃げ回るヒナ鳥を事もなげに持ち去ります。

この行動を三度繰り返す事により、平等にヒナを確保。

雑食性で、食欲旺盛なカラスに、殆んどの鳥類は、木の実や虫、卵やヒナ等をことごとく持って行かれ、その悪知恵には、とても追いて行けません。

小学生の頃、ひかるはカラスに弁当を取り上げられ、仕返しに卵を取ってやろうと、カラスの巣へ近付くと、何時どうやって呼び寄せたのか、数百羽のカラスが、上空に飛来し、編隊行動。

カラスは、巣を高い所に作る為、木の上で、本気に襲れたのでは、ひとたまりもありません。

事実、数十羽のカラスは、二メートル圏内に接近し、羽を広げて、黒い口ばしを目いっぱい開け、赤口での威嚇合唱。卵を取れば、即座に攻撃出来る臨戦態勢、恐怖を感じ逃げ帰りました。

何んで自分の卵でもないのに、他のカラスが集団攻撃行動に出るのか?

攻撃態勢のカラスは、血族なのか、それとも種族を守る為、安全保障条約を結んでいるのだろうか?

昨今、自然界の生態バランスが崩れ、人間が原因のように見られていますが、問題はカラスに有るのではないだろうか。

他の動物が減少する中、カラスには殆んど天敵がいない為、繁殖の一途です。東京の空も既に制覇され、神宮の森は、絶好の棲家として、他の鳥は、黒い軍団の恐怖に近付けません。

現在、地球上に、十億のカラスがいるとし、10年間で倍増すると、想定した場合、50年先には、320億の数に大繁殖。

1071 画 カラス

 


カラスの大統領。

1070 夫婦喧嘩

 また、沖縄のおみやげ店で目に付くのか、100歳にもなるかと思われる、シワシワだらけの、歯っ欠け老夫婦のお面でしょう。

この老夫婦面、実は、夫婦和合の、不思議な力が秘められている面だという事は、あまり知られておりません。

夫婦喧嘩は、どこでもあるかと思いますが、口もきかず、冷戦状態が続いた後でも、このシワシワだらけの、歯っ欠け老夫婦のお面を見ると、思わず吹き出してしまい、些細な事での夫婦喧嘩が馬鹿馬鹿しくなり、仲直りするとの事。

また、このお面をかぶっての、老夫婦の面踊りは最高です。

おじいちゃんは若い時、人一倍スケベーだったとの事。

腰も立たなくなった今、おばあちゃんが、「私のこと、好いとるか・・」と色っぽく迫り、もじもじし・・「おばあちゃんは、世界で一番美しい・・昔も今も一番好いとるぞー」と答えると、「よくも、焼きもちを妬かせてくれたもんだ・・」、とつねり、100歳もの老夫婦が、這いずり、顔を赤らめ、新婚初夜を思わせる仕草は、腰が抜ける程笑わせてくれます。

お祭りや結婚式などに舞れ、舞台上では決してお面を取らず、どの夫婦が舞ったのか、演者当ても場を盛り上げます。

夫婦の機微、和合を楽しませる踊り、一度は世の夫婦に見せたい踊りです。

また、この面踊り、忘年会や結婚式に踊ると、大受けする事間違いなし。

お面を新婚祝いに送ると喜ばれる事、受けあいです。

このお面は「ヤマシキのアブジヤーマー」、と呼ばれ、山崎村のおじいちゃんおばあちゃん、と言う意味で、この山崎村、今は廃村ですが、昔黒島にあった村で、歯っ欠けお面の発祥地です。

知念家では代々、高砂のお面、として大事に祭られております。

ひかると言う男の脳内プログラム、生い立ちの影響なのか、引く事、後退するという事が、考えられないのである。

前記した通り、12ミリ、いや、12カ月、80センチのスケール上で人生を考えるので、後退という事はあり得ないのである。

勿論、後悔するという事も殆んどない。

そして後輩達には、「俺は、背中に断崖絶壁、崖を背負っている、振り向けば、目まいでまっ逆さま、木っ端微塵。だから、振り向く事もしない。常に進む以外はない。嵐が来れば、四つん這いになり、更に激しくなれば、腹這う、そしてミミズとなって、這いずってでも、前へ進む」

人生とは、そういうものだ、と説くのである。

「生半可でない、常に極限の生き方を求めろ!」と。

1069 画 面踊り

 


ジジババ面踊り。

1068 パーイ

 日本人のルーツは、南方説、北方説、中国説と、色々議論されていますが、南端の黒島では、南方説を裏付ける、珍しい方言が残っています。

例えば、農耕に使うクワの呼び方ですが、島では、「パーイ」と呼びます。

言語学者によると、ペルーの山奥の原住民が、同じ「パーイ」と、呼ぶとの事。

どうしてこのような事が起きるのか、学者自身も不思議がっていました。

一説によると、ペルーやミクロネシア諸島等、赤道付近の島から、黒潮により言葉や生活様式が、運ばれたのではないか、と言われています。

更に不思議な事に、島では、足の事を食べるパンと同じ、パンと発音します。

もしかすると、南の島で、足の事を、パンと呼ぶ所が、あるのではないだろうか。

個人的な推測ですが、食べるパンの語源が、どこから来たのかは分かりませんが、その昔、小麦粉を足で踏みこね、発酵させたか、麦踏の足に関係しているのではないだろうか。

そして、足の事を、パンと呼ぶので、この食べ物をパンと、名付けたのではないかと、大胆な推測をしていました。

この地区は、島により多少方言の違いはありますが、黒島では殆んど「パ、ピ、プ、ペ、ポ」「ガ、ギ、グ、ゲ、ゴ」等の発音だらけで、日本の五十音の発音だけで構成される言葉は、あまり見当りません。

私を方言で言うと「バー」、太陽が「ティダ」、鎌が「ガッキ」、笛が「ピーラキ」、太るが「パンタル」、逃げるが「ピンギル」、てんぷらが「パンビン」等、載げれば限がなく、日本にそのような言葉があるのだろうか、と疑いたくなりますが、紛れもない事実。

何んの因果か、ハブの事も「パン」と呼び、足、ハブ、パンを方言で言うと、パン、パン、パンになり、てんぷら、太る、逃げるが、「パンビン、パンタル、ピンギル」。

最近、南の国から輸入される果物等の呼び方を聞くと、アボガド、パパイヤ、マンゴウ、パイン等、島の方言にゴロ合いが、ぴったり合う発音に驚かされ、少なくとも日本の南端地区では、南方説を裏付ける現象がみられます。

また、「ようこそいらっしゃいませ」という、歓迎の言葉を「オーリ、トーリ」 と表現。

石垣島の商店街のアーケードに、この言葉が大きく、「おーり とーり」と掲げられています。

しかし、ほとんどの観光客は、「おーり 通り」と通り名を連想。

通りとは全く別な場所で、歓迎の「ようこそ、いらっしゃいませ」、「おーり とーり」の立て看板に出会うと、初めて疑問を感じ、正しい解釈をするようになります。

おかしな事に、石垣島の人通りの一番多い交差点に、カニウマの二人乗りは、やめましょうと、大きな立て看板。

本土の人は、蟹のように、横歩きをする、珍馬がいるのかと、興味をそそられますが、実は、カニウマの二人乗りとは、自転車の二人乗りの事で、

自転車の事を、カニウマ と言うのです。

金馬(カネウマ)が訛ってカニウマ??

本土のチャリンコ、いかにも可愛らしい呼び方だと感心させられられましたが、石垣島のカニウマは、ユニークな情緒のある呼び方ではないだろうか。

他にも面白い方言があります。

例えば、昔を方言で言うと、「パ~ンティ」と言います。

高校時代、物語を方言で発表しようという事で、昔々、というくだりを、いきなり「パ~ンティー、パンティ・・・」 と切り出すと、女生徒がキャーと大笑い。

パンティーと解釈され、爆笑の内に物語は終わりました。

2026年5月10日日曜日

1067 鼓動は泣きません

 これから先、何十年間、動いてくれるのだろうか・・

きのうも、明日もご苦労さん!

どんなに、どんなに辛くても。

泣く事、知らない鼓動さん。

打ってみせます、淡々と・・

淋しがり屋の、精神さん!

泣き虫、弱虫、飛んで行け!

そうです、我々の精神は、淋しがり屋で、泣き虫です。

しかし、鼓動は泣きません。

しっかりとした足取りで、辛かろうが、嵐が来ようが、淡々と打ち続け、精神も一緒に頑張ろう、と元気ずけ、導いてくれる事でしょう。

人は、一人ぼっちだと思うから、辛いんです。

寂しいんです。

愛する人を失い、生きる事すら辛く寂しい時、貴方を命ある限り、励まし続ける・・

そうです、頼りになる味方が、身内にいたのです。

生涯の伴侶が、出来たのです。

現時点でスタートする鼓動や、最後の一鼓、役目を終わる鼓動あり。

例え五十億個の一つでも、響きに無意味はなく、人種や貧富、男女や宗教の差別や区別なく、全ての人に平等に脈打つこの鼓動。

生き延びたい、と願いながらも、飢え等で消えゆく命を見る時、何のために生まれて来たのか。

人間として最低限、鼓動を維持出来る食糧が、確保されるべきではないかと、考えさせられます。

命の誕生、精子と卵子が合体した時点で、鼓動はスタート。

細胞分裂で肉体が育まれ、その上に精神が芽生え、一人の人間として成長。

そして人々は、己の分身、証として新しい命を引き継いで行きます。

しかし、鼓動が停止した時点で肉体は滅び、精神は、瞬時に消滅する。

鼓動は、万人平等に与えられた最大の宝。

何故、脈打っているのか?

止まる前に、何をなすべきか?

今一度、人間の"命の原点である、”鼓動”と言う側面から己自身や人生を見、物事を見定める必要があるのではないだろうか。

人々が、人種や国境を越え、お互いの鼓動を尊重し合い、地球全体が幸せの鼓動の響きで覆われん事を願っております。

1066 鼓動との対話

 脳死という言葉がありますが、脳が死んでも鼓動は続いており、逆は成り立ちません。

不幸にして道半ば、やむなく止まる事を宣告され、残る鼓動をどう使うべきか、と思案に暮れる人生があるかと思うと、朝の目覚めに己の鼓動へ触れる時、昨夜来、全ての機能が休んでいる間も、元気に続けるこの響き。

値千金で、感謝せざるを得ません。

これほどすばらしい鼓動でも、一度止まったら終点。

例え、栄耀栄華を極め、いかなる名声を得ようとも、間違いなく止まる宿命を帯び、ただひたすら打ち続ける。

これしかなく、無意味に打たせれば、白髪とシワが増えるだけ。

しかし、精神には終点がありません。

音楽や芸術の世界、生き方など、先人達が残してくれた思想や、素晴らしい作品に、何百年後でも感動させられ、小さな事でもいい、自分の子供にだけでもいい。

何かを残せる人生を、歩みたいものです。

一人ぼっちで寂しい時、人生の嵐が襲い掛かり、苦しい時、そっと胸に手を当て、生まれた時と変わらない、清らかな響きで打ち続ける、鼓動との対話を試みてみましょう。

今まで、何十年間、動き続けたのだろうか?

精神が全てを休め、ぐっすり眠っている間も、暗闇、孤独、何のそのと打ち続けるだけ。

ひと休みしたいだろう・・

疲れるだろうに・・

1065 値千金

 我々の日常は、朝晩寝起きし、時計は回転して元に戻り、一年が終ると、また新しい年を迎える、が繰り返されています。

人生もまた、繰り返しの連続のように錯覚しがちですが、繰り返し以外にも、子供の誕生や親との別れ等、繰り返す事の少ない事もあり、人生が成り立っています。

人生を80歳まで、生きられると計算し、80センチの物差しに置き換えて見ましょう。

物差しの10ミリを12か月単位に置き換え、仕事や結婚の経歴、上段には親の年齢で、下段には女房や子供達の年齢を棒線で記入。

この一方通行のスケール上で、家族や人生を考えると、子供の進学や成人の時、自分は何歳で、子供達と、どのような会話が必要か。

教育資金が、一番必要な時期に、どう対応すべきか。

定年時、家族の年齢や状況が、どうなっているか。

位置付けが、よく理解出来、今後の展開等、色々な新しい事が、発見出来るかと思います。

人生は不確定要素があり、完璧とはいきませんが、決して後戻りの出来ない、一方通行のスケール上で、物事を考え、

人生の目標なりを設定する事により、毎年繰り返す事柄と、五年や十年、生涯を通して貫く事が、年代ごとに計画され、

己の人生が、より良きドラマとして演出出来、かなりの精度で、人生の青写真なり、予測なりが出来るのではないだろうか。

そして長い人生を考えた場合、我々の鼓動は、一分間に七三回打つとすると、一日に十万回以上、八十歳まで生きるとして計算すると、なんと三十億回以上も打つ事になります。

体内に張り巡らされた血管の総延長と、片時も休む事なく、三十億回以上も血液を送り続け、回収する作業。

しかも酸素やビタミンなどの量を調節し、八十年も打ち続けるのです。

地球を何周するのだろうか?

生涯、どれだけのエネルギーを生み出すのだろうか?

いかに技術が進んだ現在でも、部品交換なしに八十年間、動き続ける機械を作る事は不可能。

己の持てるパワーの偉大さ、改めて考えさせられます。

1064 ハブジャンプ

 また、ある虫が発生すると、ある魚種が近海に集まっている、と言う虫との間違いない関連もあります。

小さな島、周りの海から吹いて来る風、虫などの情報は、生きて行く大事な知恵でした。

ひかるが子供の頃、島の収入源は、サトウキビ生産で、サトウキビは、ネズミの格好の餌。

ネズミが繁殖し、その天敵として、猛毒を持ったハブが、大繁殖していました。

ハブは、脱皮をするので、皮を見ると、どれくらいの大きさか、ハブの棲家が、どの近辺かは、子供同士の情報交換で察知出来ます。

しかしハブは、かなりの行動範囲を持っているので、常に心の準備が必要でした。

ハブに噛まれた人を数多く見、ひかるも噛まれる直前の危険な目に何度か遭い、毒の猛威は、嫌という程知り尽くしていました。

噛み所によっては、命に関わります。

昔からの知恵で、島の道には、真っ白い砂を敷きつめてあり、美観の問題は勿論、夜道を歩く時、ハブが発見可能なように出来ています。

石垣の合間から、ハブが出てきた瞬間、本能的に、ガニ股で飛び退きます。

いわゆる、究極の「ハブジャンプ」です。

これは、子供の時から、親に教えられなくても、自然に出てくる行為。

それが出来なければ、猛毒を持ったハブに、間違いなく噛まれていた事でしょう。

上京して間もない頃、歩道を横断中、なにげなしに足元を見た瞬間、ハブが現れ、思わずガニ股、ハブジャンプ!。

自転車で横を通り過ぎようとした、おじさんと、もろにぶつかり、怒鳴られました。

まっすぐ歩けば、いいだろうに!

わざと、やったんだろう!

謝るしかありません。

前方には誰もいない、すれ違う人もなく、見通しの良い歩道。

いきなり、思いっ切りガニ股で、横っ跳びに出る行為は、自転車めがけ、体当たりをして来た、としか思えないはずで、怒鳴らない人は皆無でしょう。

「ハブが出たので、ハブジャンプをしたのですが・・」と説明しても分かってもらえません。

よく見ると、ハブではなく、ネクタイが落ちており、それがハブに見えたのです。

ハブが出るはずもない、アスファルトに覆われた東京のど真ん中で、子供の頃から、命に関わる本能として覚えた、見事なハブジャンプが出てしまったのです。

改めて、ごめんなさい!

ごめんなさい!

ごめんなさい!

(黒島は今、ほとんど牧場となり、ネズミも激減、そのため、ハブもほとんどいません)

1063 怒鳴られる

 ハブの性器は、メスには二つ、オスには四つあります。

数が合わないので、疑問に思いますが、オスの性器は、ペアになっており、しかもイボイボ状。

ペアでメスの性器へ挿入し、交尾。

蛇体は絞め縄の如く、もつれ喰い込み、飲まず食わず、執念深くエキスをむさぼりあう。

その姿はすさまじく、犬や牛馬の交尾とは比較にならず、ゾクゾクとさせられます。

しかし、ハブは害のみにあらず。

初夢にハブを見ると、大金が転がり込む、金運の女神、とも言われています。

興味は、海へも向けられます。

魚のヒレに切れ目を入れた場合、まともに泳げるか実験。

必死に、尾ビレで舵を取るにも、ほろ酔いチドリ泳ぎ。

残酷な事をしてしまった、と後悔させられました。

ある時、父が空を見上げ、急に、今日は、ハトッシ(方言魚名)が、大量に捕れる日だと、漁へ出かけ、間違いなく、言った通りの魚種を捕って来るのを目撃。

陸に居ながら、何んで海中の魚の事が分かるのだろうか?

不思議に思い聞くと、風で感じるとの返事。

魚の臭いがする訳でもなく、どうしてだろう?

再度尋ねると、海から吹いて来る風の温度で、北上する黒潮の水温を体感。

近海を、どの魚種が回遊して行くのか、当てるとの事である。

1062 画

 


ガニ股。

1061 似た者同士

 子供の好奇心、色々な事に、疑問を感じます。

ひかるは、野生のハトを生け捕り、飛べないよう羽先を切り、ニワトリ同様、飼い慣らそう、と実験。

難なく飼い猫に食べられてしまい、小さなウズラですら、野良猫に襲われても逃げ切れるのに、何んでいとも簡単に食べられるのだろうか、と考えさせられました。

やはり、空を飛ぶ鳥は空で生き、たとえ小さなウズラでも、地上で生きる代々の知恵が備わっているのだなぁと感心。

また、大空を飛び交う、ひばりを観察すると、巣へ入る時、直接巣には入りません。

わざと別な場所へ降り、茅の根を這って近づき、巣に入ります。

直接巣に入ると、カラスに巣の場所を狙われ、卵や雛を食べられる為、知恵を使っているのです。

しかし、巣から出る時は、直接飛び立ちます。

頭隠して、尻隠さず、の格言通り。

やる方もやる方、気付かない方も気付かない方。

どちらも、似たもの同士。

間抜けな鳥もいます。

ニワトリを野生化させた場合、卵を産む度に、必ず喜びの大声を「コケコッコー コケコッコー」と上げます。

カラスはその大声で、卵が生まれた事と、巣の場所を確認、労せずして、栄養満点な卵を頂戴。

ニワトリの馬鹿さ加減は、見て居られません。

他にも無責任な鳥がいます。

野生のハトは、人間に見つからないよう、細心の注意をし、場所を考え巣を作ります。

野生のハトの巣を見つけるのは、容易ではありません。

一度、人間が巣を見つけ、近づいた気配が感じられると、警戒し、二度と巣には戻りません。

多分、人間の匂いを感じるのでしょう。

我が子より、我が命を大事にする、臆病な生き物。

普段は、楽しく飛び回っているスズメやひばり達、台風の時どうするのだろうか。

台風を避け、遠くへ逃げるはずは無い。台風を避け、数十キロ先の島へ逃げ、翌日その島へ舞い戻って来る事は、とうてい考えられません。

それが証拠に、台風が過ぎ去った翌日には、元気よく飛び回っているのです。

その疑問は解けました。

小鳥達は、危険が迫った時、岩穴で台風が過ぎ去るのを、じっと待っているのです。

彼らは、どうしたら尊い命を守れるか、心得ていたのです。

我々も、小鳥の生き方に見習うべきではないだろうか。

時代のうねりや大きな組織力で、一人で立ち向かっては、どうしようもない事が、しばしば身に振り掛かります。

何も一人で立ち向かい、尊い命を落とす必要はなく、厳しい嵐が自分に振り掛かった時、岩穴でじっと時を待ち、思案する事も必要。

嵐が通り過ぎた時、思いっ切り行動に出ましょう。


1060 時差処理

 生きていく中、誰もが持って生まれた財産、知恵を使わない方はありません。

基本的な知識は、学校なり、本を読む事で得られますが、知恵は見方、考え方、立場や状況等で、十人十色。

絞り出せば出す程、無尽蔵に出て来ます。

親子や将来に関する問題等、少なく見ても、一人30以上の問題があるかと思いますが、一つ一つの問題に対し、いま採れる最良の方法。これしかない! 道を選んでみましょう。

30通りの、これしかない! があるはず。

後は、その最良の方法を実行するだけ。

そして、30通りの問題すべてが矢と成り、自分の方へ向かって来ますが、すべての問題には時間差があり、その時間差を利用し、一つ一つ処理して行く。

100問題があったとしても、決して、処理不可能と言う事はありません。

今は小さな問題でも、将来は大きな問題になる場合もあり、それに対しては、今の内に手を打っておけば、大きくならずに済ます。

今は大きな問題でも、時間が解決し、消滅する問題もあるかと思います。

良きリーダーに成れる人は、問題点を見つけられるか、処理出来るか、将来、伸ばすべき芽を見つけられるか、そして、育て大きく出来るか、という事へ、知恵をいかに絞り出せるかが、大事な要素ではないだろうか。

数年後に、大きな問題に成る、と判断したならば、担当者を置き、現状のまま大きくするな、と指示。

今は小さくても、将来大きな芽にしたい場合は、しっかり説明をし、目標を持たせ、担当させれば、芽は徐々に育って行きます。

将来、大きくなる問題でも、今は処理が出来ない、という場合は、担当者を置き、調査を継続。

後で経過を知らずに荒治療するのと、知っていてやる事では、処理方法に大きな差が出て来るのは当然。

男の働き盛り三十代、ひかるは八十人の部下を任され、下請けや外注を含めると、百数十人の仕事を処理していました。

だいたいが十五から、二十班に分かれ、国内外取材、翌日以降の予定や下見、打ち合わせや段取り等、同時進行。

他にも兼務が多く、電話は鳴りっぱなし、客は順番を待っている状況で、目の回る忙しさでした。

これ程多くの問題をどう整理し、同時処理しているのか、コツを教えて欲しいと言われましたが、問題処理に、前記した通り、知恵を使っていた事が分からなかったようです。

色々な問題があったとしても急ぐべきか、直接自分が実行すべきか、部下に振り分け、実行させて大丈夫かどうか、即座に判断し、指示して行けば問題にはなりません。

大事な事は、三十本の矢を描き、時差処理をして行く。

このような事は、決してコンピューターには出来ず、そこが知恵を使う人間の、偉大な要素ではないだろうか。


2026年5月9日土曜日

1059 母は母

母は晩年、アルツハイマーとなりました。

上京させるべく父を説得するにも、「母の面倒は自分が見る」の一点張り。

やむなく、石垣島の療養施設へ入所させました。

アルツハイマー特有のものなのか、白衣の医者や看護婦、薬を極端に拒んだとの事ですが、東京のひかるの所へ行けるんだ、と言うと、素直に病院や薬も受け入れ、見知らぬ人を捕まえ、東京のひかるの所へ行くんだと口走っていたとの事。

日増しに容体が悪化しているとの連絡に帰郷。

しかし、あれだけ待ち望んだ対面は、まさかと思われる再会となってしまいました。

既に息子ひかるの面影は、母の記憶の領域に跡形も無くなっていたのです。

お母さん、帰って来たぞ! ひかるだぞ!と声をかけるにも後ずさりをし、部屋の隅へ逃げ、脅えて睨む拒否する眼差し。

妖気すら漂う、一度も見た事のない視線でした。

ひかるが帰って来たんだぞ、と近寄れば近寄る程、恐怖の色は濃くなるばかり。

何んで、息子を怖がるんだ!

何んでこうなってしまったんだ!

辛い時、孤独な時、何時も優しい母を思い出し、例え落ちぶれた姿でも、温かい眼差しで迎え入れてくれる。

どんな時でも母にだけは信じてもらえる、という心の拠り所があったからこそ、今まで頑張って来れた筈なのに・・・

元気な姿を見せ、喜ぶ顔が見たくて頑張って来れたのに・・・

子供の頃、怒られもしました。叩かれもしました。しかし常に温かく見守る眼差しが有り、愛が有りました。

命有る限り、我が身に限って、母の愛が閉ざされるなんて・・

まさかこのような親子の再会に成るとは、一度も想像しなかった・・

夢だに見なかった・・

母の元、一つ屋根の下で生活出来たのは15歳迄。

人間、いくつになっても母は母。

もっともっと甘え「お母さん」といっぱい呼んでやりたかったのに・・

話したい事が、背負い切れない程、沢山有るのに・・

母の事を思い出さない日は、一日たりとて無かった。

母とて一日たりとも忘れなかっただろうに・・・

会える日を一日千秋の思いで待ち続けた母子。

何んで無情にも鉄の扉が降りてしまったのだろうか。

子供達との離別生活、会いたい一心が高じ、アルツハイマーに成ったのだろうか。

待たせ過ぎた! 許してくれ・・・

母の為、何一つしてやれなかった、喜ばせてやれなかった悔しさに、懺悔の波は押し寄せ、断腸の思いに唖然と立ちすくむだけでした。

母子の心さえ通わせられないアルツハイマーの怖さ。

これ程辛くて、寂しい世界があるだろうか・・

母の好物を思う存分食べさせると、脅えが和らぎ、手を握れるようになりました。

そして足腰の弱った母を背負い、散歩に出た時、あまりの軽さにつんのめり三歩歩んで立ち止まる。

ランドセルの重さにしか感じられません。

全ての記憶を失った母に心は通じず、長き別離を償う無言の歩み・・

南国の陽射に汗ばむ背中。

涙は止めどなく、踏み出す影へ、七つ・・八つ・・・・

海を見下ろす丘の上、洗剤の如く押し寄せる白いさざ波。

波の足音は、ザザザーサー、ザザザーサーと浸み、身や心、砂浜までも洗い清めて行きます。

はるばる長い旅路を渡って来たのだろうか、風は優しくすれ違い「風の渡り来る南、生まれ育った島、我が家があるんだぞ、風の行く先、東京があるんだぞ」と語りかけると、心が通じたのだろうか。

母は何時迄も、生まれ育った南の空をじーっと見つめ、他を向こうとはしません。

懐かしい古里、遠い昔の事を思い出しているのだろうか。

首に抱き付く、か弱い両手にこもる力、島を手繰り寄せているのです。

大きくあえぎ、高まる息遣い、首筋に二つ、熱く伝わる母の涙。

翌年、死に水も取れない、心を通わせる事すら出来なかった、永遠の別れとなり、生涯、ぬぐう事叶わず、消す事の出来ない、涙を背負い続ける人生と成ってしまいました。

・・親不孝 詫びる息子の 背に涙・・

1058 画 懺悔の丘

 


懺悔の丘。

1057 男泣き

 入社5年目、放送局では心臓部門の「テレシネ」職場へ配属されました。

放送開始から終了まで、交代制宿泊勤務がある、映画やアニメ、大量のコマーシャルなどを送出する職場。

数10台もの映写機がずらりと立ち並び、指定された映写機へ素材を装填。

魔法の箱の心臓部は、ミスが即全国へ流れ、緊張感がピリピリ伝わる職場です。

遂に自分自身の手で、フイルムをかけ、全国へ映画を流す時が来たのです。

興奮のあまり胸は高鳴り、震える手。

映写機の爪の噛み具合をニ、三度確認。

3秒前!

2秒前!

1秒前!

スタート、オン!

・・大成功!!

遂に魔法の箱へ辿り着いた。

見果てぬ夢だと思っていたのに・・

熱く込み上げるものがあり、私と同じ映画館に行けない子供達が、テレビで映画を観る事でしょう。

体が不自由な人で、映画館に行かなくても、家で映画が観られる。

病院で療養中の人も・・

お年寄りで映画館に足を運べない人も・・

山間部の人も・・

島の人も・・

この映画を、何百万人もの人が観ているのだろうか。

少しは世の役に立っているのでは・・

夢を追い続けて来た事は、間違いではなかった。

遥か南の島、南十字星を眺め、ランプの灯りで過ごした子供の頃が思い出され、映画が観れなくて悔しかった事。

数々の失敗をし、パスポートを握り締め、親と別れた事。

貧しくて辛かった東京での生活等が、走馬灯の如く通り過ぎ、日本の南端で動き出したこの鼓動、無意味ではなかった。

父よ! 母よ! この世に誕生させてくれて、有難う。

生まれて初めて、芯底湧き出る喜びを体験し、涙が出ました。

男泣きです。

1056 正義の目

 また、テレビマンの世界は、視聴者には考えられない、過酷な職場でもあるのです。

ジェットコースターの後ろ向き乗り、後ろ向き走りや、高所恐怖症の解消は勿論。

野球中継などでは、どこへ飛ぶかも知れないホームランボールを、一瞬たりとも画面から外す、見逃す事は許されません。

小さなファインダーに望遠レンズ、当たった瞬間の初速度は想像出来るかと思いますが、球を捉え続けるのは至難の技で、かなりの熟練を必要とします。

また、一、三塁にランナーが出、一打同点の時等は、盗塁をするのか、先にホームを突かせるのか、両監督の腹の内を読み、全スタッフが瞬時に連係プレー。臨場感溢れる内容を放送。

他のスポーツのルールやマナーは勿論、政治経済、芸能界や水中撮影など、あらゆる分野の勉強と訓練。

そして、張り込み取材にいたっては、忍耐あるのみ。

ジェットコースター後ろ向き乗りで、フォーカス、ズーマーを自由に操作出来るカメラマンは、70人のカメラマン中、たった一人しかいませんでした。

また、ジェットコースターへ乗る時は、落下物、小物等は持ち込めません。

我々が取材する場合は、施設責任者と十分にチェック、間違っても素人が、真似をしない事です。

ねつ造テレビや、やらせテレビ事件などが、後を絶ちません。

テレビはわずか50年で、街頭テレビの時代から家庭へ入り込み、大きな影響力を持つ情報機関に育ちました。

子供達はテレビで育ち、教育にまで影響しかねません。

往年のテレビマンが退き、安直に考えるようになったのだろうか?

競争原理、視聴率主義が強過ぎる為なのだろうか?

情報量が多くなり、不良品が出たのかは分かりませんが、気になる事件。

何があったとしても、人々の興味を無理に引く事のないよう、自然に共感され、興味を持たれ、納得してもらえる番組作りをしてほしいと、つくづく思うこの頃。

テレビカメラの目は一つです。

真実以外は写さない!

偽りや、まやかしは決して写さない!

テレビマンとしての心構えが求められています。

そしてテレビは、自らの巨大な影響力を考え、巨象が踏みはずす事のないよう、勇み足の無いよう、見つめ直す時期に来ているのではないだろうか。

その昔、「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と言われました。

現在、「テレビは、世に連れ、世を写す鏡」となっています。

慎重なる番組作りをして欲しい・・・

・・目は一つ、狙う真実、正義の目!・・

1055 人間セミ

 他にもテレビの裏側には、色々なエピソードがあります。

鉄塔での高所取材時、スタッフが本番終了までは無事でしたが、いざ降りる段になり、下を見た瞬間、高所恐怖症が走り、降りるに降りられなくなりました。

下から声をかけるにも、見向きもせずボンドで貼り付けたのではないか、と思われるくらいベッタリしがみ付き、ワナワナと震える姿は人間セミその物、お笑い番組のシーンのようで、笑ってしまいそうですが命にかかわる一大事。

救出作戦は大騒ぎになりました。

思い出したくない事件もあります。

雄巣鷹山日航機墜落事故。取材活動の帰社後、スタッフの食欲が進まず、落ち込みが激しかった事には参りました。

真夏の出来事、犠牲者と泣き崩れる遺族の姿が、あまりにも多過ぎ、山全体を覆う臭気と霊気中での取材。

規制線は無く、生々しい現場を見、精神的に受けたショックが大き過ぎたのです。

食べ物を見ても、衣服を焼き捨てても、風呂に何度入っても、あの臭気が鼻にこびり付き、色々なシーンが蘇って来るのです。

遺族の事を考えると生々しい事を書くと不謹慎ですが、何気なく見ると木の枝に肉片がぶら下がっていたり・・

本当にスタッフの脳の構造が破壊されかねないのです。

極力対話をし、冥福を祈り、元気をとり戻させる迄には、1カ月必要でした。

世の悲惨な出来事でも、いち早く正確に伝えるのがテレビマンの務め。

二度とあのような事故の起きない事を願うしかありません。

世の縮図を背負い、テレビマンは、今日も行く・・

1054 冷凍人間?

 テレビ界就職直後の昭和40年、晴海に新設された、零下30度という当時としては画期的な冷凍倉庫取材に遭遇。

当時は冷蔵庫自体の普及率は低く、冷凍室付の冷蔵庫は未発売。

冷凍という言葉すらほとんど使われていませんでした。

冷凍倉庫自体も初めての開業で、大きな話題として取り上げられたのだ。

常夏の地で育ったひかるには、零下30度という世界は、かつて今まで生きて来た中では、とても考えられず、即座にコチコチの冷凍人間にされてしまう事しか頭に浮かんで来ません。

いよいよ本番になり、意地悪にも女性レポーターは奥の方へと入って行きます。

仕事なので、やらなければ、という意識はあるのですが、冷凍人間への拒否反応で足が竦み、何時でも逃げ出せるよう、入り口のノブに、しがみ付いているだけ。

本番が終ると表へ飛び出すと同時に座り込み、へたり込んでしまった。、二度とこのような仕事はやりたくないと思いました。

周りからは「テレビより、お前の恐怖に慄く顔が、一番面白かった」とからかわれ、今だに語り種。

氷や雪など無縁の世界で育った人間が、冷凍倉庫へ入れ、と言われると冗談抜きに、どうしても浮かんで来るのは冷凍人間。

恐怖を感じ、拒否反応は間違いなく出て来ます。

もし皆さんが、これから乗る飛行機が間違いなく墜落する、と分かっていても乗らざるを得ない場合の事を想像すると、タラップを登る靴は、30キロにも感じるのではないだろうか。

ドアにしがみ付き、墜落寸前に飛び降りたい心境になるかと思います。

ひかるにとっての冷凍倉庫は、このような間違いなく死ぬのではないか、と恐怖を感じるところで、今だに零下30度という言葉は、身震いが出るセリフ。

嫌な番組に冬の天気予報があります。

予報官が、「シベリアから零下30度の寒気団が南下し・・・・・・」

聞いただけで、金切り音が奥歯から後頭部へ引っ吊る感じがし、一晩中凍て付き、お願いだから、このセリフだけは絶対にやめてもらいたい.と思いますが、これは自分だけの問題ですので仕方がありません。

せめて、我が家のテレビだけは、このセリフを禁止用語とし、スピーカーから出ないよう、改造出来ないものかと考える、寒がりやの小心者。

1053 画像

 


 天気予報報

2026年5月8日金曜日

1052 美顔人「ビガント」

 そして、しかるべき国語として定め、教育にも取り入れ、外国にもアピール。

小中学生の女の子達が、大人に成った時、あの総称で呼ばれるような、素敵な女性に成りたいと、自分を磨き、実現出来た時、本当に、幸せを感じるのではないだろうか。

個人的な提案ですが、清らかで、品位のある、美しい心の素敵な女性、美顔人(ビガント)、と称したらいかがでしょうか。

発音は外国人にも、受けるかと思います。

思わず拍手喝采、乾杯! 乾杯! と言いたくなる、素敵な女性には、「ビガント!、ビガント!」 と賞賛しようではありませんか。

現実は、オバタリアンなる言葉が流行っており、残念至極。

もし、オバタリアンと呼ばれる行動があったとしたら、即、反省すべきではないだろうか。

日本女性として、ビガント姿。

子供達に、見せつけよう。

世界へ、見せつけよう。

オバタリアンと、呼ばれるな!

オバタリアンと、呼ばせるな!

オバタリアンと、さようなら!

1051 オバタリアン

 現在、不愉快な言動ではあるが、オバタリアンが定着しています。

電車がホームに近づくと、周りをキョロキョロ、ソワソワ見、前の席が空くならともかく、所かまわず、空席を取らないと、人生が大損するかの如く、席を立つ人とぶつかり会いながらでも、席を確保する姿。

降りる流れに平気で逆らう姿。

娘時代は、そうでも無かったはずなのに、自分さえ良ければいいのか、と聞きたくなり、切符を買う時、乗り物に乗り込む時も品のない素行に度々会い、やはりオバタリアンだと認めざるを得ない場面に出会うのは事実である。

何も先んじたからとて、長生き出来る訳ではなし。

飛び抜けて幸せとも言えないだろう。

綺麗な衣装を纏い、化粧をしたとしても台無しで、悲しい限りだ。

おそらく、バーゲンやスーパーの限定品売り出し等で、早い者勝ちの行動が、何時の間にか身に染み付いているのであろう。

大売り出しは、直接財布に影響が出るのでやむを得ませんが、他での押しのけ、へし分け出る行動は今日限り止めて貰いたい。

娘が母親の行動を見て育ち、子孫末代まで引き継がれて行くのか、と思うと、空恐ろしくなります。

道徳や人生を教えるのは、親の努め。なまったれ親が事あるごとに学校を責めますが、学校は全ての子供を同一教科書で同じように教えます。

己の子の個性を一番知っている親が、その個性を後押しすることで、立派な人間に成るのです。

「子供は、親の背中を見て育つ!」

このままでは、どんな大人が出来上がるのだろうか。

因果応報は、巡り巡って来る。

苦労して育てあげた子供達に将来、オバタリアンと呼ばれ、平気でシルバーシートを占領する、大勢の娘さんが出来たのでは、皆さんが、結果的に辛い思いをするのでは無いだろうか。

娘よ! 貴方は、素敵な女性になれる!

決っして悪い点は、真似する事なかれ!

一歩引く、貴方の心美しい・・・

そして、女性は世の宝。

女性無しに世の中成り立たず、男女雇用機会均等法も出来、議員や管理職等、女性は、世の中を動かす大きな力となっています。

そして、所狭しと活躍する、素敵な女性が、大勢見られるようになって来たのも事実です。日本は、美を重んじる国柄。

昔の男尊女卑の悪習慣のせいなのか、素敵な女性に対する呼び方が見つかりません。

例えばアメリカでは、ナイスレディー、と呼ばれると、上品で素晴らしい女性、と言う事で、呼ばれた方も誇りに受け止めます。

辞書には、貴婦人、麗婦人という呼び方はありますが、普段、素直に呼ぶには、ゴロ合いが、あまり良くありません。

素敵な日本女性を表現する、大事な言葉が、近代化から、取り残されているように思われます。

これで良いのだろうか?

女性の社会進出が著しい昨今、公式な場所やパーティー等で、素敵な女性に乾杯、と言う気持ちを表現出来る、総称が必要ではないだろうか。

女性議員は、すぐにでも実現すべきで、実現の暁には、第1号の総称で呼ばれる事でしょう。

1050 障害者自立

 しっかり自信をつけ、笑顔が戻った妹に、1番辛かったのは、何んだったんだと聞くと、体育の時間が1番辛かった。何度体育の時間がなくなればいい、と思ったことか、と小さな声での呟き。

島の広い運動場、友達が木登りをし、飛び回る姿、一人で見ているのは辛かった事だろう。

手術の傷跡が多く残る足を「よくも私の足、魚の腹わたを取るように、あっちこっち切り開いてくれたもんだ」と笑って言っていました。

東京での生活、銭湯へ行くしかありません。

傷跡の多く残る、麻痺した足を人前にさらす事は、辛かっただろうに・・・

耐えるしかなかったのです。

あれから何年か経った後、今度は、一級国家試験の更に上級、特級に挑戦するとの事で、ルートやパイ、微積分などの入り組んだ、ややこしい計算式を、どうしたら解けるのか教えて欲しい、と持ち込まれた。

特殊な電卓をプレゼントする。

問題は、どう考えても、大学卒業の学力を必要とした難問ばかりで、妹には不可能としか思えませんでした。

しかし、見事に合格、「電卓のおかげだった」と、お礼の連絡に、心から祝ってやりました。

あえて妹の事を記したのは、障害の有無に関係なく、平等に与えられた、この元気に打ち続ける鼓動がある限り、自身の置かれている立場や状況を正面から見つめ、

鼓動に負けない、強い心、唯一最良の道を選択して行けば、素晴らしい人生が送れるものと確信し、体の不自由な人達が、一人でも多く障害を乗り越え、社会の一員として胸を張り、堂々と生きて行って欲しい、と願うからである。

おそらく我が家は、福祉の光の届かない、日本南端の、最も貧しい家庭だったでしょう。

障害者と両親が、貧しさゆえ、2千キロという壁を乗り越えられず、会う事叶わぬ状況下、幸せを求め続けた、家族の絆、障害者の励みになれば、と・・・

最近、自分で決断し、実行する妹の姿を見る時、「この妹に幸多かれ・・」と祈る毎日。

妹は生涯、片足補装具で生きるしかありません。

補装具でも仕方ない、しっかり自分の人生を歩んで欲しい・・・

決っして忘れない、あの時の笑顔を。

「兄ちゃん! 私、給料袋、二つ貰えるように成ったのよ・・・」

1049 神さま・・・

 片方の足でペダルをこぐ乗り方を必死に練習。

遊び盛りの姿を見、何んでこんな目に会うのか。

完全にマヒした足、妹は、いつも男の子のように、ズボンを履くしかありません。

他の女の子同様、スカートを履かせてやりたい・・

何んで、スカートが履けない体になったんだ!

何んで3歳の女の子が、杖をついて歩かなければならないんだ!

何んの罪も犯していないのに・・・

何んで幼い女の子に、過酷な試練を背負わせるんだ・・・

何んで、不公平な扱いをされなければならないのか・・・

神様がいるなら助けて欲しい・・・

妹のマヒした足を見るたび、動作を見るたび、涙が止まりませんでした。

ひかるより妹のほうが、悔しい思いを数千、数万倍した事でしょう。

不自由な体での行動範囲はわずが、車を自由に乗り回し、本当の足代わり、見聞きする喜びは、人生最大の喜びだった事でしょう。

免許取得から数年後、妹の友人から連絡があり、電話は通じるけど、部屋には来ないで欲しい。

来ても、絶対に、中に入れない、との事。

ひかるが電話をしても、同じ返事。

でも大事な時は、必ず相談をしてきたので、こんどのことは、たいした事はないだろう、とあまり心配はしませんでした。

数ヶ月経過後、妹が、縫製技能検定試験、国家試験に合格したので、祝ってやって欲しいと、友人からの連絡。

受験のため、部屋中問題を張り、教材などで、足の踏み場もなく、人を部屋に入れる状況でなかったとの事でした。

その内、母校の東京都身体障害者職業訓練校から、後輩達のため、週二日の実技指導と講義を引き受けて欲しい、と言われている、との相談。

10年以上もお世話になっている縫製制会社だけど、最悪の場合は、やめる事を覚悟し、講師の仕事を受けるべきだ、とアドバイス。

学校側からも縫製会社に口添えがあり、会社勤めと講師の仕事を両立。

一級縫製技能者、という事で、会社や得意先からも信頼され、サンプル品や高級品の縫製からサイズ直し、後輩達の指導、と忙しい日々を送っております。

1048 杖つく少女

 やはり数年もの間、その一言が、忘れられなかったのでしょう。

「障害者が免許を取得する場合、東京都には奨励制度があるし、大丈夫だ」と説得すると、長期休暇が取れそうにもない、との事。

会社の方には、兄からお願いしよう。長年働き、休暇の目的もはっきりしている事だし、理解してもらえるはずだと。

妹は最後に、全ての段取りは、自分一人でやってみる、と言って納得しました。

数ヶ月後、「取れた! 免許が取れた!」と、弾んだ声で連絡があり、祝ってやりました。

よほど嬉しかったのでしょう。

無口で必要な事以外はしゃべらない、兄にすら一度も笑顔を見せなかった妹が、車庫入れで失敗した事や、S字カーブで踏み外した事など、笑顔でしゃべりまくっており、30年以上も背負って来た何かが吹っ切れた様子。

このきっかけが自信となり、妹の人生は大きく展開していきました。

車を購入、地方出身の同僚達と、お盆やお正月に友人の田舎へ同行。

色々な土地や人との出会いや、見聞あり。

車が本当の足代わりとなり、あっという間に、日本全国が行動範囲になったのです。

やっと走り回れる3歳時、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけていた姿が、思い出されます。

突然、引き付けを起こす程の高熱にうなされ発病。

妹は自分の2本の足で、元気に歩いた記憶は無いでしょう。

小さな島には松葉杖とてなく、竹すらありません。

まっすぐな木を与えると、船の櫂を漕ぐようについて、「兄ちゃん、遊んでくれ」と、追いかけて来るようになりました。

負けず嫌いで意地っ張りな性格、擦り傷やアザだらけになりながらも、右手で自転車のサドルにしがみ付き、左手でハンドルを操作。

1047 乙女心

 ひかる24歳。妹が上京するとの事。

友人、及び親戚がなく、優しい言葉をかけてくれる人も居ない、厳しい東京で生きて行けるのだろうか。

片方の足は完全に麻痺しており、パスポート持参。15歳の少女である。

しかし、妹は余り干渉されない東京で、ひっそり生活したかったのでしょう。

小さな島、偏見の中で育ち、生きる全て、唯一の頼りは、兄だったのでしょう。

幸いにも東京都の身体障害者職業訓練校へ入学、卒業後、訓練校の紹介で縫製会社へ就職。会社の寮へ入れました。

数年後、同業他社へ転職した同僚から、「今までより条件が良いので来ないか、との誘いに乗りたい」との件で、相談。

無計画で、衝動的な行動に、思いっ切り叱ってやりました。

元気な友達は、あっちこっち転職するかも知れない。お前は障害者なのだから、他人の真似事はするな! じっと我慢しろ! と。

妹は寂しそうな、そして芯から怒っている、射抜く眼差しで睨みつけているだけ。

まさか兄から身体障害者扱いされるとは、思っても見なかった事でしょう。

夢見る少女心のショックは大きく、お互い気まずい無言の一時があり、「帰る!」と一言残し、トコトコ出て行きました。

その後、数年間の音信不通があり、ひかるの方から連絡、「運転免許を取ったらどうだ」と持ちかけると、どうせ「障害者なのでしょ」と、蚊の泣くような小さな声での返事。


1046 火風

 単純過ぎる答えの様ですが、登山者に、何んで山に登るのかと聞いたとしても、山が有るからだという答えの如く、岩と波がある限り、千年先も、1万年先も、只、「これしかない!」と繰り返す。

自然の摂理だったのです。

そして、台風が過ぎ去った翌日、父が畑を見回るのについて行きました。

大切に丹精込め、育て上げた作物は、揺さぶられ、薙ぎ倒されています。

うつろな眼差しで、何やらブツブツ呟き、根本に盛土する父の姿を見た時、哀れで、かわいそうに見え、反面、怒りを覚えました。

台風は、間違いなく毎年来る。近所の人達は、このような生活に見切りをつけ、歯が抜けるように、島から出ていく中、何んで父もそのような生活を求めないんだろうか。

この父は、馬鹿じゃなかろうか、と言いようのない失望感に襲われました。

しかし上京後、必死に生きる中で、父の本当の気持ちが、理解出来るようになったのです。

当時は、妹の小児マヒが治せるものと信じ、手術の為 、全財産を使い果たし、日々の生計を維持する事すら必死だったのでした。

台風に嫌という程痛めつけられようとも、島を出たくとも出れない。

引っ越しをする事など、とても考えられず、前にも行けず、後へも引けない、極限の状態にあり、ただ只、じっと時を過ごすしかない。

これしかない!

幼い頃抱いた失望感が無くなり、以後、立派な父に見えるようになりました。

また台風は、殆んど雨を伴いますが、子供の頃、雨のない、からっ風台風が襲いました。

台風通過後、しぶきで覆われた島全体が焼け野原の如く枯れてしまい、家畜はおろか、人間さえも生存が危ぶまれる状況。

もし、本土を雨を伴わない台風が襲った場合、しぶきは風に乗り、海岸線より数キロ内陸部まで運ばれ、枯れ野原化、膨大な塩害が出る事でしょう。

台風の雨は、しぶきを洗い流してくれる、人間や自然にとっては、大事な恵みの雨なのです。

この地方では、島全体を焦土と化す、からっ風台風は、ピーカジ(火風)と呼ばれ、大きな自然災害をもたらすものとして、恐れられています。

1045 異様な音

 人工的に作られた防波堤に叩きつける波は、30メートルものしぶきをあげ、音も想像出来るかと思いますが、大自然の熾烈な戦いは、えぐれた岩の横腹に、下からしゃくり上げる時、しぶきは粉末状に、前方へ飛び散るだけ。

搾り出れる音も、これまた想像も出来ない、炸裂、唸り声の異様な合体音。

巨大な鯨が、押し潰され、もがき苦しみ、訳の分からない、悲痛の叫び声を出している様にも聞こえます。

「ドキューン」 「ドズーン」、言葉では表現のしようがありません。

そして台風通過後、一面に油を流し込んだような穏やかな水平線。

嵐の前の静けさ、という諺がありますが、嵐の後の静けさの方が、はるかに静かです。

なぜ、あれだけ熾烈な戦いをするのか?

静かにしていればいいのに・・・

なぜ無意味な戦いをするのか?

普段は遊園地であり、色とりどりの熱帯魚達が見せてくれる、アニメの世界。

穏やかで、母のように優しい海が、何んで異様な音を出し、激しく、恐ろしい海に変わるのだろうか?

激しさと静寂さが目の前に繰り広げられる時、静と動、鬼の顔と母の顔。

この相反する変化に疑問を感じ、この二つの顔の持つ意味が、どうしても理解出来ませんでした。

しかし後日、過酷な試練を味わった時、自分なりの答えが出せたのです。

本当に苦しい時にとれる方法は、背を向けるか、前へ進むか、この二つしかないはずだ。

背を向ける事は簡単ですが、しゃにむに前へ進むしかない。「これしかない!」と、自身に確認出来た時、二つの顔に対し、自分なりの結論が出ました。

そうです。二つの顔には、何ら意味がなく、ただ、「これしかない!」

1044 難問

 ひかるが中学生の頃、人生最大の難問にぶつかりました。

島の生活や子供達にとって、海は切っても切り離せない重要な存在。

都会の子供達が、公園や遊園地で遊ぶように、海と魚は、遊園地や動物園であり、熱帯魚と戯れ、遊んで育ちました。

しかし、一度台風が荒れ狂うと、恐ろしい海に変化します。

瞬間最大風速、70メートルの台風が暴れ狂った時の事を想像してみてください。

普段は、波と岩が何気なく、仲よく調和しており、さざ波が、えぐれた岩の横腹をくすぐり、今は、眠たいから、くすぐるのはやめてくれよ、と戯れているように見えますが、

一度台風が襲い暴れだす時、目の前に現れた姿は、凄まじいものでした。

木々は否応なしに揺さぶり、ねじ伏せられ、風雲は、摩擦のあまり、雷音稲妻と化し、

海は、怒涛のうねりを片時も休む事なく送り続け、攻撃の手を緩めません。

海鳴りは耳をつん裂き、雨は天から降らず、横から殴りつけ、風雲波は三つ巴となり、

巨大な洗濯機が渦巻き、暴走するが如く、自然の猛威を見せつけ、荒れ狂い、小さな島は恐れ慄き、震えているかのよう。

人間の存在は、あまりにも小さく、地面を這い、神とて何んら頼りになりません。

そして三つ巴となった風雲波の怒りの挑戦を受けて立つのもまた、大自然で、

どれ程痛めつけられようとも、負けるものか、と受けて立つのは、岩でした。

1043 VTR

 ロケーションを多用した番組作り、ひかるにとって、それ自体は朝飯前の仕事だ。

並行して、大きな壁が目の前に立ちはだかったのである。

それは、VTRの問題だ。

当時日本では、アメリカアンペックス社のテープ幅2インチVTRが導入され、独占していた。

勿論、ローカル局では買えない代物で、キー局に5、6台納入されていたから、NHKも含め、国内には30台前後が導入されていたであろう。

なんといっても、目玉が飛び出る程の値段で、日本のメーカーでは、パテントなどがあって、真似の出来ない。

極めつけは、可搬型のVR3000という、旅行トランク大の機種で、アンペックス社とNASAが軍事偵察機搭載用に開発したという、当時の最先端技術が集約された機械だ。

キー局すら持てず、パビックという会社とひかるの八峯テレビしか持っていないため、ドラマロケやスタートしたVCM等で重宝されていた。

ひかるはこの機械で稼げば稼ぐほど、将来の後継機種を考えずにはいられなかった。

たぶん防衛庁やNHKも含め、国内には5台前後が導入されていたであろう。

このままいけば、日本の放送業界は、儲けの大半をごっそり、アメリカへ上納する事になる。

反米感情の激しいひかるにとって、とても許しておけるものではない。

早速立ちあがったが、とても一人の力で太刀打ち出来るようなものではない。

それこそ、死闘と呼ぶにふさわしい試練が待ち構えている。

しかしひかるは、3年をもって、日本からアメリカ製VTRの影を抹殺する。

そして、5年後には、日本のVTRが、全世界の放送局を独占したのである。

また、日本のVTRが軌道に乗るやいなや、「日本の野球中継を、アメリカ大リーグ野球中継に負けない番組にしたい」という話が、ひかるに持ち込まれた。

アメリカと聞くだけで、「やってやろうではないか!」と即座に行動開始。

やっと野球にスローVTRが一台導入された時期だと言うのに、一気にスローVTR6台を導入し、当時、誰もが想像出来ない番組を作り上げたのである。

現在の野球放送の原点を、あっと言う間に作り上げ、業界人のど肝を抜いたのである。


2026年5月7日木曜日

1042 熱意

  どうせなら、半端でない覚悟を持って、一気に攻めよう、それしか道はない」 と説いたのである。

いや、間違いなく、説教だった。

あまりの熱意に社長は、反省をした。

飛び出した連中は、折あらば、更に社の弱体化をさせよう、取って代わるべく、虎視眈々と狙っている。

それに比べ、注目もされず、黙々と仕事をし、管理職の機会を与えられなかったこの男が、本気で社を憂い、例へどのような事があっても、最後まで残って踏ん張ると言い切る。

「飛び出したい人は、飛び出せ! 自分は最後まで残る、看板は俺がはずす!」と不動の姿を見せるひかるを見直したのである。

逞しく、一回りも二回りも大きく脱皮した姿で、全社員に号令を発したのである。

社長は、自分の人材登用が間違っていた・・と

そして最後に言った。

責任は、すべて社長である自分がとる、社長の采配すべて任せる、存分に暴れてみろ・・と

ひかるが思い切った、電光石火の行動が採れたのには、この暴走があったのだ。


1041 パスポートから解放

 そして沖縄の本土復帰、パスポートを焼き捨てた時、本土の同期の連中と論争も出来る、ケンカも対等に出来る、と目に見えない鎖の呪縛から解放されたのである。

そんな事は多分、体験した人にしか分からない事であろう。

そんな時、窓外族から、社の中心へ戻るはめになったのだ。

そしてひかるは暴走した。今度はいい意味での暴走だ。

同期の連中は先に管理職として登用され、会社の経営にまで携わり、後輩達からは一目もニ目もおかれていた。

それが、徒党を組んで会社に反旗を翻したのである。

ひかるにとって、その行為は許せなかった。

今まで従いて来た後輩たち、女房子供もいるだろうに・・

自分の利益ばかり考えていいものか! と頭へ来たのである。

社の中心に座ると、ひかるは重役や社長を論破した。

そして社長には、三日三晩、いやと言われても追いかけ回し。

「取り巻く状況は最悪だ、しかし守りに回っていると、さらに社員は、歯が抜けるように引き抜かれていく、現在、3分の2の社員が残っているが、5割を切れば、なだれ現象になり、もう持たない。


1040 360円時代

 ひかるは、入社早々ある事件を起こした。

友人、上司と府中駅前の飲み屋へ行った時の事である。

スナック風の飲み屋で、4人で楽しく飲んでいた。

店はママさんと、若い女の子が一人手伝っているだけで、小ぢんまりした店であった。

かなりアルコールも回った頃、米兵のお客が二人入って来た。

近くに調府基地があり、その近辺は結構米兵がいたらしい。

思春期を沖縄で過ごし、敗戦後、米兵はやりたい放題。

勝ち誇った米軍による犯罪、本土では報じられない事が日常茶飯事起きていた。

犯人は沖縄の裁判所で裁く訳にはいかない。勿論、日本の法律も通用しない。

米国へ送還され、どういう処罰が下されたか知る権利もなかったのだ。

当然、この地区で青春時代を過ごした連中は、否応なしに反米感情が叩き込まれていたのである。

米兵が入ってくると、ママさんの態度は一変、目いっぱい色気、愛想を振りまいているのである。

当時は1ドル360円時代。ドル紙幣で払ってくれる米兵は特上のお客なのである。

その内ママさんも女の子も米兵のテーブルへ、ドル紙幣を胸へ入れ、きゃっきゃ、と騒いでいるのである。

そのはしゃぎぶりを聞いていると、ムラムラと反米感情が湧きあがってきた。

日本の女も女だ、お前ら売春婦か!、とどなりつけたかったが、その怒りは米兵へ向かった。

いきなり米兵の所へ行き、胸ぐらをつかみ、「ヤンキー ゴーホーム!」、と怒鳴り付けたのである。

上司がいたので、壊した備品代は払ってくれた。

そして翌日から 「この男は、外人の居る所に、決して出入りさせるべからず、外人に近づけるな」という、お振れが社内へ回った。

そういう事があってから、ひかるは自分の感情がコントロール出来なくなる事を恐れ、極力部下はいない方がいい、と一人黙々仕事をしていたのである。

事実、酒の席で喧嘩、空手のヌンチャクを振り回し、相手を怪我させ、即ブタバコ、即会社をクビ、なんていう例を何度も見てきている。


1039 おいタケシ! ヤバかったぜ2

  年齢的にはタケシとテリー伊藤君の間、番組作りはベテラン中のベテランで、不慣れなテリー君のフォローとタケシの間を取り持て、と指示。

またMカメラマンはフジテレビ日曜日ゴールデンタイム8時からの萩本欽一「オールスター家族対抗歌合戦」のチーフカメラをやっていた人物で同時進行中。

収録日程を確認し、民放キー局8チャンネルの裏番組4チャンネル、ゴールデンタイム同時間帯に同一チーフカメラマンを起用したのである。

ひかるはお笑い番組もやっていたのでタケシとは顔見知りだ。

これといった印象はないが関西に対抗する東京のお笑い界の起爆剤人になるのではないかと見ていた。

ひかるは毎日平均して15本前後のスタジオ番組や中継、ロケやニュースの取材等忙しい思いをしていたがMカメラマンにタケシの番組、細かに報告するよう指示してあった。

ロケが終わると必ずMカメラマンとは時間を取り状況報告は受けると同時にMカメラマンには不慣れなテリー伊藤君、タケシとの間をうまフォローするよう、その都度指示していたのだ。

タケシの事故後、雨傘番組が次々とお蔵入り状況時、会社の近くの小料理屋でMカメラマンと報告を聞きながら話をしていると時々首をくねらせるヒュック突き現象が出る。

Mカメラマンに注意すると、全く感じていないし自分は何もしていないと言い張る。

これはタケシが事故の後、首をくるんくるんとヒュック突かせる現象が出、カメラのファインダーを見ていて、そのカメラマンが無意識のうちに移ってしまった職業病である。

ひかるがMカメラマンを番組担当にしている都合上あまり強硬に止めろと言えなかった。

そのうち色んな事が起きた。

飲み屋のママが「あんた達2人何をやってんの?? 首をくるんくるんヒュック突く、気持ちが悪いね」と言う。

な なんとひかるに移ってしまったのだ~

ヒュック突きをひかるとMカメラマンが交互にくねる・・笑い話だ。

その内、何んという事だ! ママに移ってしまったのだ。

料理をしながら、あるいは、いらっしゃいませ、と言いながらくるんくるんとヒュック突きをやっている。

恐るべし・・その内お客までがくるんくるんとヒュック突きをやっている。

店中大騒ぎだ。

これはもうタケシに責任を取って貰うしかないだろうという事になる。

ところがひょんな事にMカメラマンがトイレへ入って居なくなると、全員納まってしまう。

出てくると全員がまた、くるんくるん。

止めろ~タケシ~

裁判にしてもMカメラマンが証言台に立たないと実証出来ない。

とんでもないタケシ伝染病、ワクチンのないコロナ以上だ!!

本物タケシのヒュック突き病が放送されると、全国でヒュック突きが蔓延し放送局自体がやり玉に挙げられ社会問題化するのでは、と心配した。

このタケシ騒動、タケシ! 責任を取れ! と言いたかったがその内タケシも番組お蔵入り中、徐々に収まりMカメラマンも収まった。

それで一件落着、タケシは人騒がせな奴じゃ。

1038 おいタケシ! ヤバかったぜ! 

 話はタケシの話に戻す。

タケシは20代ツービートで漫才をやっていたがチョボチョボでヒットしなかった。

当時は大阪の上方漫才、西川ヤスキヨがブームで、東京では萩本欽一と坂上二郎のコント55号、伊東四朗のテンプクトリオやドリフターズが人気。

テレビ界で影の薄くなったタケシを起用し、大雨で中止になる野球中継番組の代替え、フィラーの雨傘番組企画が持ち上がった。当時後楽園球場はドーム化されていなかった。

王選手と長嶋茂雄の属する巨人軍大ブーム、読売日本テレビの野球中継が雨で中止になった場合に流す、いわゆる雨傘番組「天才タケシの元気が出るTV」での起用。売れているタレントなら断るだろうがタケシは、雨傘番組だとしても初めてタケシの名前が番組の冠に付くタイトル、鬼瓦権蔵役だ。

この番組はスタジオメインでロケの映像、話題をどれだけ取り込めるかにポイントがあった。

ひかるはそのロケの部分を請け負ったのである。

しかし毎週雨傘番組を作るが、多少の雨ではブームの巨人軍野球中継の視聴率が良い為中止にしない。

どしゃ降りの雨が降らない限り、タケシの出番は無い。

スタッフは毎週番組を作って編集するが、また流れてお蔵入りだが、使い回しが出来ない為また作る。

当時読売日本テレビの野球中継が絶好調、視聴率が良く雨傘番組だとしてもお金は予定通り値切る事なく全額支払う。

番組作る側からすれば気が抜けてしまうがお金の為だと言い聞かせ頑張るしかない。

そんな最中、タケシがとんでもない事件を起こしてしまう。

バイクで交通事故を起こし、とんでもない顔面に成ってしまったのである。

どうあがいてもタケシの顔はテレビに出せる状態では無い。

しかし初めて番組でタイトルに自分の名前が出たタケシは、何が何でも続行したい強い意志を示した。

雨傘番組が良かったのだろうか、かなりひどかったタケシの顔はお蔵入りし、なかなか放送されなかったのである。

実はこの時ロケーションディレクターをしていたのが、今のタレント テリー伊藤君であった。

大学を出て間もない27歳前後だったと思うが、ど素人で初めての番組作り、色々苦労させられた。

ひかるは当時カメラマン、音響や映像、VTR、編集など150人の部下を持ち統括部長をしていた。

タケシのロケ担当には当時ロケではナンバーワンと言って良いだろう、Mカメラマンを担当させた。

1037 番組、ねるとん紅鯨団

  タケシの番組でロケを担当させたMカメラマンを、ねるとんに起用、ロケの経験が豊富で、他のカメラマンとの連携がスムーズに行ったのである。

勿論オールロケで、これ程充実した内容の番組が出来る、という事で、業界では予想以上の評価を得る事になったのである。

労使問題で青息吐息だった会社が、誰もが目を疑う活況ぶりだ。

当然、業界では注目され、後にフジテレビ100%子会社と成って行く。

アナウンサーの早稲田出身、露木氏はじめ、東大、慶応出身者が周りにゴロゴロいるが、ひかるは益々異彩を発揮していく。

威張る事なく、腰が低い、テレビの命は番組だ!、と茶の間を意識。

人間として生まれ、一番愚かな事、一番の不幸は、せっかく親から貰った知恵を、使う事なく、墓場へ持っていく事だ!

とひかるの口癖は響き渡っていた。

当時、テレビ局はカラー放送、ネット局充実へと殆んどの資金、人材が当てられ、番組の内容がスタジオ中心で、マンネリ化している事に気が付く人はいなかった。

ひかるにとって、テレビは単なるテレビでなく、何時までも魔法の箱であって欲しい。

テレビには、団欒があり、子供達はテレビで育ち、教育にまで影響しかねない。

新しい知識を得る場でもあり、遥か彼方の山や川、望遠鏡ですら見えない風景や景色がある。

行った事もない、国や場所で営まれる人々の生活も垣間見られる。

ふるさとがあり、夢があったり、人々は生涯、どれくらいテレビと対面するのだろうか・・

子供の頃見た、魔法の箱、テレビは未来永劫、魔法の箱だ。

テレビの、命は番組です。

知性、感性、人間性にあふれる番組を作り、感動、興奮を、お茶の間へ届けよう。

そして、テレビに恋した男が贈る言葉。

テレビは、いかに視聴者の目となり得るか、越えられるか、知覚足らんか・・・


1036 不毛の時間帯

この番組の放送時間帯は、不毛の時間帯と言われ、なかなか視聴率がとれない売り物にならない時間帯だったが、一変したのだ。

この番組が放送されると、業界の人達から見ると、中継車を持ち込んで、かなりケーブルを引き回し、番組が作られていると、思ったらしい。

コスト的に中継車をキープすれば、キープしただけで一日百万以上はかかってしまう。

こんな時間帯に、中継車を使って、番組を作るなんて、とても考えられない・・・・といわれたのである。

この番組は、スタジオで番組を作る以上の、素晴らしい画が、低コストで、茶の間に届けられたのである。

ロケの場合、だいたいバッテリーは5、6個持っていく。

ねるとんは、4チェーン必要なので、照明やVTRなどを含めても、30個前後あれば十分だ。

他にも、海外や国内ロケがあるが、トータル的には問題なし。

このシステムは、威力を発揮したのである。

スタジオの音楽番組やドラマなどは、台本があって、ディレクターが、カット割りを決めていく。

重要な仕事である。

ロケの場合、いちいちカット割りなぞ言っていられない。

カメラマンが、全体的な画の構成、流れを把握していく必要がある。

かなり高度な能力を必要とされるが、バッテリーの問題が解決され、番組内容に集中出来るため、いい番組が出来るという訳だ。


1035 多重ロケ方式

 ねるとんでは、今迄にない、全く新しい多重ロケ方式が採り入れられた。

常に、4台のカメラとVTRが対になっており、同時にスタートさせ、テープが終わるまで、一切ストップをさせない。

4台のカメラVTRが回っている状態で、映画で使われていたガチィンコを撮りスタートマークにする。

4台のカメラは、自由に動き回り、あらゆる角度から収録。例えばグラスを落として割るシーンなど、手元と落ちる床面を撮るカメラを決め撮影。

編集時に、スタートマークを揃え、同時にスタート、4分割画面に、それぞれの画をはめ込んで編集ポイントをチェックする。

早い話が、4画面を見て、タッチをしていけば、面白い表情が、リアルに編集出来るというシステムだ。

もちろん、素人相手なので、従来のストップ、スタートを繰り返していたのでは、とても表情が硬く画像にならない。

まかり間違い、演技をつければ、完璧なやらせになってしまう。

勿論、常に当時では、最高倍率の望遠レンズ、高感度のカメラを用意、かなり離れた距離から、カップルをねらう。

カップルは、近くに人もいなければ、カメラの影もないので、普通の恋人が恋を語るように語る。

皆さんが、テレビを見、その状況は知っているだろう。

編集も、例えば、プロポーズシーンで、別の男が、まった! 

誰が見たとしても、生放送、あるいは、それ以上の内容だったのだ。


1034 フローティングシステム

  ロケを採り入れた番組を作りたい、誰もが考えうる発想だが、具体化するには何らかの着想が不可欠だ。

当時のロケ、一番の難点はバッテリー問題だった。ひかるもカーバッテリー等、あらゆるバッテリーを考え、実験したが、やはり無理だった。

試行錯誤、明けても暮れても実験中、小型弁当箱大、きゃしゃに見えるが、ビニール樹脂でコーティングされた物が目に止まった。

テストをすると十分行ける代物だ。ひかるは、これで放送業界を一変させられる、と小躍りした。

BP90という型名で、早速チャージャーを分解、誰もが驚く75連のフローティング式チャージャーを部下を動因し、一月もたたない内に完成させたのである。

メーカーが四個チャージ出来る4連式を得意になって売り込みに来たが、75連を見せると、腰を抜かさんばかりに驚いた。

こんな事をする人など、想像も出来なかったであろう。

タケシの番組で威力を発揮したが、さらに多重ロケという「ねるとん紅鯨団」、当時では考えられない番組手法で、このフローティングシステムが成否を分けたと言える。

ひかるはタケシの番組でロケの真髄を得とくした、Mカメラマンを起用し、本格的なロケ時代の幕開けを確実な形にしていったのである。

現在、秘境番組、NHKの家族に乾杯などオールロケ花盛りだが、40年以上も前にそれ以上の番組が作られていたのだ。

恐るべきは、このBP90なるバッテリイー、あらゆるロケの電源として使われ、なおかつ40年を経た今でも活躍中。

ひかるの着想、電光石火の決断がロケの電源を統一、安定させたのだ。

このバッテリーは照明やVTR,音響機材など全てのロケ機材の電源に使われ、各メーカーが統一電源で機材開発、設計が出来、日本の映像業界が世界の先駆者に成ったのは言うまでもない。

いち早く電源を統一、投資リスクを軽減できた業界は五十年以上もアメリカの放送NTSC方式から脱却。デジタルのスカイツリー時代を築いて行ったのである。

世界の放送方式はアメリカ、ヨーロッパ、共産圏、日本の4方式で放送されている。

2026年5月6日水曜日

1033 窓外族

 20代後半、沖縄が本土復帰をする。

ひかるは大事にしていたパスポートを焼き捨てた。

ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。

そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。

第一期入社の同期の連中は、管理職として各部門を統括していたが、よりによってその連中が束になって、会社を辞め別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。

組合が出来労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。明らかに契約違反であり、フジテレビは、ひかるの所属する子会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。

取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは社のど真ん中へ担ぎ出されてしまったのである。

しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。

次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。

四度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員が殆んど組合員、会社の存亡すら危惧され混乱。

当然、沈静化する迄待とう、何んとか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。

しかし、ひかるは全く逆の発想だ。

こういう時だからこそ打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。

攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。

当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。

ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。

技術プロダクションとしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。

ひかるが手始めにトライしたのが、タケシのデビュー番組「天才タケシの元気が出るテレビ」だった。

兵頭ユキや高田順次の映像は、お茶の間に大いに受けた。

そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの集団お見合い番組「ねるとん紅鯨団」だった。

勿論この番組はとんねるずのデビュー番組だ。

この二つの番組でスタジオ中心から強引に外の映像を茶の間へ届ける。

並行して海外ロケ機材開発、海外の電源事情や電波問題などデータを確立。

30年後ノーベル賞に輝くリチュームバッテリーの初期商品BP-90を開発。

その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。

次回、裏話など・・・ご期待を。

1032 倒産

 東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。

第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所が、フジテレビ内に置かれた。

頭が良く入社試験の成績の良い人がTBS内第一事業所に配属されたと言れたが、たぶん事実であろう。

TBSはドラマ制作に力を入れ、ドラマのTBSというイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。

昭和40年、白黒からカラー放送へ転換していく中、NHKは視聴料はなし完全国家予算で運営されており、開局の早かった4チャンネルの日本テレビは巨人戦と力道山のプロレス超二大スポーツ番組の放送権利を保持。

横綱級で次に開局したTBSはドラマに挑戦で大関級。次に開局した8チャンネルのフジテレビはやっと幕の内かな?

親会社毎日新聞のTBSと産経新聞のフジテレビは手を結びカメラマンや音響証明VTRスタッフを有する東通を設立、将来はカメラ機材やVTRスタジオなど共有し巨大メディヤ企業化、日本テレビやNHKの番組まで作る想定だ。

しかしお互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。

バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産した。

新聞紙上を賑わせ、昨日まで社長と崇めた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。

第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。

勿論、会社更生法が適用されているとの事だ。

ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと胸をなでおろした。

カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。

しかしひかるは、冷暖房完備、皆んなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。

たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが一番の楽しみだ。

年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには全く蚊帳の外だった。

窓際族というよりは、むしろ窓外族だ。

課会や部会、全体会議があっても外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめそのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。

しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。


1031 巨人戦

 野球放送は、巨人戦を中心に編成されている事は言うまでもない。

野球ファンの5割は巨人ファンと言われ、アンチ巨人が2割いるとすれば、7割が巨人戦、観戦という事になる。

同時間帯に、巨人戦以外のカードを放送しても、なかなか視聴率が取れないのである。

巨人戦は、資本関係にある、日本テレビが過半数の放送権を持っている。

年間、140試合とすると、70試合は、日本テレビが放送する。

残りの70試合が、五つの球団、14試合ずつ分割されるという事だ。

横浜は、TBSと資本関係にあり、横浜対巨人戦14試合は、必然的に放送する。

フジテレビは、ヤクルトとの資本関係で、ヤクルト巨人戦14試合を、必然的に放送する。

それ以外に中日、阪神、広島もそれぞれ14試合ずつ権利がある。

例えばフジテレビだと、ネット系列の関西テレビが、阪神や広島などと交渉し、放送権を獲得する。

それを、関西テレビ発、フジテレビ系列で全国放送するという訳だ。

勿論、名古屋にもネット系列の局があるので、そこ経由で放送するという事。

TBSと、フジテレビ系列で、年間、だいたい55本くらい、半々で放送する。

残りの15試合をテレビ朝日やNHK、はたまた日本テレビの系列局で争奪戦するという形になる。

だから日本テレビは、70試合以上の放送枠を確保し、巨人が低迷すると大変だ。

現在はインターネットが普及し各球団とも試合開始から終了までネット配信。

巨人戦中心が緩和されているようである。

1030 TV界、就職状況

 昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。

NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。

世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。

当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。

夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。

民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。

TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。

そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。

その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。

その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。

昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。

ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。

テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。

ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。

(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)

求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。

待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。

クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。

15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。

会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。

ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であった、としみじみ感じたのである。

また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。


1029 主の役目

  避難場までは、1キロくらいあり、風速70メートルの逆巻く突風は、前後左右から揺さぶって吹き、決して同一方向から、均一的に吹いて来ません。

会話は嵐の中へ千切れ飛び、痛い程叩き付ける雨に、目も開けられず、風圧で、息をする事すら苦しく、顔をあげておられません。

大人ですら、進むのが困難な状況である。

闇夜の畦道、吹き飛ばされ、足に纏わり付き、やっとの思いで、避難場へ到着。

不安な一夜を過ごしました。

抗し難い、大自然の力とは言え、コツコツと築き上げた我が家が吹き飛ぶ。

翌日からの生活を思い巡らし、家を後にする時、父親の気持ちはどのようなものだったのだろうか。

南国の真夏、殆んど着る事の無いオーバーコートを着、荒れ狂う嵐に悠然と立ち向い、家族を守る。

父の背中はあまりにも大きく、凛々しい姿として瞼に焼き付けられ、ひかるが生きていく中、人生の厳しさに背を向ける事なく、前向きに立ち向い、家族を守る、一家の主の姿として生き続けたのだった。

また地震や緊急の災害時、持ち出す物は色々有るかと思いますが、オーバーコートが一番役に立つのではないだろうか。

コートを羽織る事により、風雨が凌げ、見通しの良い場所でも、下着などの着替えが簡単に出来、家の役目さえするのです。

咄嗟の災害時、真夏でもオーバーコートを持ち出す、心の準備が大事かと思います。

昨今は、粗大ゴミと陰口される父親像ですが、世の中平和過ぎ、父親の出る幕が少ないからとて、粗末にされたのではたまりません。

何か一大事が起きた時、それなりに、毅然として立ち向い、頼られるのが、主の役目。

今一度、それぞれの父親像を考えてみる必要が、あるのではないだろうか。


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台風


1027 真夏のオーバーコート

  ひかるが小学校へ入る前の出来事で、瞬間最大風速70メートルくらいはあったでしょうか。

大型の台風が、島を直撃。平たんな島は、風圧をまともに受け、遮る物は何も有りません。

電気は無く、真っ暗闇の真夜中、轟音渦巻く風の音、激しく叩き付ける雨の音、そして、家がギシギシとマッチ箱を揺するが如く、激しく揺れ動いているのに目が覚めました。

暗闇に目を凝らすと、父と母が、いつもと違う、重苦しい不安げな顔で天井を見つめ、会話を交わしております。

父は、「台風は我が家を直撃する。この分だと屋根が吹き飛び、危険なので避難をする」と、ため息を残し、立ちあがりました。

母は、「この嵐の中、どうやって避難所まで、行き着くのか」と、脅え声。

(台風は目に向かって、左回りに風が吹き、一点にいて、刻々変わる、風向きと風力で、台風の目がこちらへ向かって来るのか、逸れて行くのか判断出来ます)

具体的に北東の風が東になり、時間経過で強まり北東の風に戻ってきた場合、間違いなくこちらをめがけ直撃体勢に入っている事になります。

父が、オーバーコートを出すよう、指示。

風があるとは言え、南国の汗ばむ真夏。

なぜ、オーバーコートが必要なのか?

雨具代わりに使うのだろうか?

答えはすぐ、出ました。

母が大事にしまってある、一着しか無いオーバーコートを出すと、無造作の中にも、襟元をきつく絞り、ベルトをしっかり締め、子供達は両方の裾に掴まれ、との事である。

初めて見る、父のオーバーコート姿でした。


1026 脳内アルバム

  ひかるが、南の島へ帰郷した際、ある85歳のおじいちゃんと、ゆっくり話をする機会が有りました。

おじいちゃんは、10人もの子だくさんで、孫やひ孫を数えると、40人は、いるとの事。

子供達は、高校がないので、一度島を離れますが、もう二度と島には帰って来ません。

おばあちゃんと二人っ切りは、淋しそうに見えるのですが、私は一番幸せ者だ、と自慢。

事実、温和な丸みのある、幸せが滲み出ているのが、感じられます。

何んでそれ程までに、幸せを周りに放射出来るのだろうか?

体力的には、庭の散歩がやっとで、寝ている時間が大半のおじいちゃん。

不思議な力を感じ、その場を離れるのが勿体無く、ついつい色々な話をし、時を過ごしてしまいました。

「今にも天国から、迎えが来るかも知れない」と平気でしゃべっている姿からは、死に対する不安が、微塵も感じられません。

どうしてなのだろうか?

話を聞くと、おじいちゃんの人生は、子だくさんの為、苦労は多かったが楽しみも多かったとの事。

大勢の子や孫の結婚や出産、名前を覚える事。

進学や就職などの便りや写真が、脳内いっぱい詰め込まれていたのです。

そして、脳内に詰め込まれた、写真やストーリーを寝ながらでも、瞬時に引き出し、何回でも再現し、毎日が映画を見ているように、楽しく過ごしていたのです。

そうです、脳内に焼き付けられた人生のアルバムは、お金もかからず体力も使いません。

何時でも、瞬時に引き出し、何回でも楽しむ事が出来るのでした。

若い時代、多くの素敵な出会いや恋をし、色々な所へ行き、苦労もいとわず冒険もし、多くのシーンを脳内に焼き付けておく事が、老後をより楽しく、幸せに過ごす秘訣ではないだろうか。

若い時代、人生のアルバムを、脳内いっぱい貯金し、周りの人々へ、幸せ貯金を放射出来る年寄りになりたいものです。

そのおじいちゃんも、人生を全うした、との便りを受け、ひかるは幸せエネルギーの放射を、体一杯受けられ、最高の出会いだったと感謝しています。


2026年5月5日火曜日

1025 またまた、大失敗

  上京直後、組み立て配線工として働いていた時、またまた大失敗です。

昼食には、出前をとっていました。

食べ物の名前は初めて聞くものばかりです。

周りの注文を見聞きしながら覚えていこうと考え、真似をする事に決めこみました。

初日は、天丼、ラーメン、チャーハン、焼飯と、みんなが注文するのを聞き、唯一知っているメニューで、焼飯を注文。

その日は、無事に何事も起こりませんでした。

翌日、例によって皆なが注文をした後、中身は知らないけど、しゃれた名前なのでチャーハンを注文。

みんなが取った後に残った物が、チャーハンだろうとの考え。

待っていると、残っているのは前日と同じ焼飯。

「誰か注文を間違えた人はいませんか!?」と大声で聞きました。

誰も間違えていないとの事。

「君、何を注文したのだ?」と聞かれたので、

「誰か注文を、間違えているはずです。私は間違いなく、チャーハンを注文したのですが、焼飯しか残っていないんです!」

みんなが、食べ物を一斉に吹き出してしまいました。

「この男、笑わせてくれるではないか!」と今なら言えますが、当人は何んで笑われたのか、皆目見当がつきません。

訳を聞くと怒られ「お前、それでも日本人か?」と言われた時には頭に来て、むかつきました。

当時はパスポートを携えての身分で、沖縄人が一番聞きたくない言葉で切れる瞬間。

しかし、そこは忍々の人生修行の場。

焼飯とチャーハンは、同じだったのでした。

カラスの、白け鳥!

失敗談には事欠かず、西武新宿線の「田無」に用事が有り、切符売り場で「デンブ」ください、と言うと怪訝な顔をされ、ニタッとした後、そんなものは無いと、そっけない返事。

からかわれているような気がし、田舎っぺ根性ふつふつ、むらむら。

二言、三言やりあいましたが、読み方が「たなし」だと言われ、開いた口が、塞がりません。

日本国教育を受けた人がいきなりこの二文字を見せられ、たなし、と読む人はいるのかな?

以後、地名や人名には注意をするようになりました。

恥は、かけばかくほど、度胸が付きます。

大いに、恥はかきましょう。

罪のない恥を・・・・


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焼き飯


1023 あれ~

  前席の女高生だと思われる女の子が、あれ~と甲高い声を出し椅子を軋ませ逃げ出す。

周りの客は、針でつっ突かれたかの如く、一斉に注目。

見るとテーブル上は運悪く、ツユが前の方へ流れています。

娘が飛んで来て、ツユを拭き、お客に誤り、調理場からもう1本ツユを持って来ました。

こぼしたものと勘違いをしたのです。

さて、2本目です。

どうするか??

あまりの出来事に、多くの客も、野次馬気分で立ち上がっての見物。

前の女高生はすでに避難し、どうしてよいのか分からず、恥ずかしさと冷や汗。

当人は完全に、舞い上がっています。

店全体の視線を一身に受け、仕方なく、そばを一本ずつ、ツユに浸しながら食べていると、隣の客が親切に教えてくれましたが、時すでに遅し。

周りの雰囲気からして、何が何んだか食べた気がしません。

さて、次は下のご飯だぞ!

はやる気持ち、ぎこちない手つきで、すのこを取りました。

何んだ、これは!

カラッポではないか!

大盛に盛られた、どんぶり飯を期待していただけに、裏切られた時の腹の立つ事、立たない事!

娘を呼びつけ、「これは、大もりではない!」と一括。

田舎ものだと馬鹿にされないぞ、だまされないぞ、という剣幕で劣等感が爆発したのです。

親切に、ツユのお代わりまでしてくれた娘は、あっけにとられ、精神異常者ではないか、という恐怖の眼差しで、奥の方へ逃げていきました。

周りの雰囲気は、皆さんの想像にお任せしましょう・・

主人が出て来たので、一言、二言文句を言いました。

日曜日の昼の混雑時、主人はケンカも出来ず、呆れ果てるばかり。

ひかるは、上げ底メニューで客をだます、悪徳食堂の悪徳主人に客を代表して文句を言ってやった、思い知らせてやったと、正義感に燃え、肩で風を切り、堂々と店を出て行きました。

「神様! この男に罪はない、単なる無知だ! 救いの手を・・・・・・・」

お店の皆さん、ごめんなさい!


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おおもり


1021 見事な閃き

  だけどいいや・・・

おそらく、そばの下に、ご飯がたっぷり有るだろうと、一人合点し、空腹から湧き出る食欲と、生唾を飲み込む。

さあー食べようか!

初めての食べ物、食べ方が分かりません。

大もりの下に、お盆があるのですが、隣の客には敷いてありません。

注文を運ぶお盆を忘れ、そのうち取りに来るだろうと気を使い、お盆を横に置き、器を直接テーブルに置きました。

更に、ツユ壺の上に、ツユ入れが被せてあるのに、それが分からず大失敗の因。

ツユ壺に被せてあるツユ入れを、フタだと思い、伏せたままお盆の上へ置きました。

さて、その後どうやって食べるのか?

ハシでツユを確認。

そばを1本1本、ツユ壺に入れて食べるのか?

試しに1本やってみましたが、どうも具合が悪い。

腕組みをし、しばらく考えました。

どうしても、周りの視線が気になります。

過疎の村で外食とは関係なく育ったひかる、食事作法を知らずオロオロ上目使いに周りを伺う様子。

自信のない人は、特に目立ち過ぎます。

思案の末、見事な閃き。

ツユを上からかければ、その下にあるはずのご飯にも味が沁み込み、旨いだろう。

そうやって食べるんだ、と考え、思いっ切り、バサーとかけてしまったのです。

1020 おおもり

  毎日が、ひもじい思いをし、夢にまで食べ物が出てくる上京当時の出来事。

一度でいいから、腹一杯ご飯を食べてみたい、という願望を叶えるべく、アルバイトのお金が初めて入った時、思いっ切り食べようと心に決め、外食をすることにしました。

子供の頃から、外食の経験がなく、今日は腹一杯食べられる。

自分の稼いだお金で、思いっ切り食べよう、という期待に胸をはずませ店に入りました。

日曜日の昼時で、ほぼ満席の状況。

何を食べようか?

壁に貼ってあるメニューを、ひと通り往復して見ました。

だいたいのお客は、椅子について注文を考えます。

壁の前をウロウロし、しかも顔色が浅黒く、栄養失調ぎみの飢えた目。

変な男が入って来た、と他の客が注目しているのは視線で感じられます。

女子高生と思われる、女の子二人との相席でした。

店は、母親と娘なのでしょうか、中学生くらいの女の子が手伝っておりました。

メニューで一番、腹いっぱいになりそうなのは、読み方からして「大もり」でした。

注文をし、どうも周りの視線が興味深げに、じろじろと、ひかるを見ているのに嫌な予感。

程なく「大もり」が来ました。

ひかるの考えでは、「大もり」といえば、どんぶりに、大盛に盛られた、どんぶり飯を想像していましたが、目の前に出てきた物は、意に反する物。


1019 就職

  早速、翌日から職探し。

皿洗いや組み立て配線工、自転車での配達等経験しましたが、日給が5百円程度と安く、生計を維持するには無理がありました。

そこで日給8百円で、なんとか生活可能なトラックの助手の仕事を見つけ、会社の寮へ入れてもらいました。

毎日、鈴や亜鉛のインゴットを満載し配達周りの力仕事でしたが、運転手は荷物には何一つ手をつけず、栄養不足と睡眠不足の体には過酷な仕事でした。

過労の為なのだろうか。腰がふらつき、時々目まいが襲います。

作業中、荷物に指をはさみ、潰してしまいましたが病院へ行く金もなく、休めば食べていけません。

潰れた指を手袋で隠し、なにげない様子で翌日も働き続け、あまりの痛さに指が腐るのではないかと、心配でしたが何時の間にか治りました。

人は過酷などん底生活の中、己の体につけた傷跡や心に染み込んだ教訓は、生涯忘れられません。

今でも辛い時は、傷跡を見、あの時の痛かった事、情熱をぶつけて頑張っていた時の事を思い出しながら過ごしており、以後、どのような試練が襲いかかろうとも耐えていける、という自信がついたのは、大きな財産になりました。

都内は交通渋滞で、定刻に会社へ戻れません。

神田の会社から蒲田のテレビ専門学校迄、駅の改札やホームを一目散に走りまくります。

一分一分が大事で、ドロボウが逃げ、走りまくっているように見えた事でしょう。

夕食の時間がなく、15分間の休憩時間に食堂へ走ります。

食堂のおばさんが、私の駆け込みを知っていて、食事を用意してあり、それを胃袋に流し込み、寮へ帰ると12時、このリズムが続きました。

休みの日は、街頭テレビを見るのが唯一の楽しみ。

どんなに辛くても、魔法の箱の中味は必ず解明しようと自分に言い聞かせ、無事卒業。

何んとしても、テレビの仕事に就きたい。

一途な夢は、番組制作技術プロダクション(株)東通、後に八峯テレビ、現フジメディヤテクノロジー、に入社し実現しました。

面接試験時、身元保証人が本土にいない事を指摘され、保証人ではなく本人を信用して欲しいと要請。

採用は無理かと思いながらも寒い中、郵便受けの前で待ち続け採用通知を受けた時の喜びは、天にも昇る思いでした。

そして辛かった過去を振り返り、何時もはパンの耳をふやかして食べる食器代わりのコップ酒、一人でしみじみ飲み乾しました。

別れの杯を交わした、父の顔がはっきり浮かんできます。

後戻りは出来ない!

前へ進むしかない!

1018 貧食時代

 現在の飽食時代、パンの耳で過ごす事等、考えられないかも知れませんが、日記に昭和40年当時の状況を見る事が出来ます。

「3月29日、月曜日、今日は朝から会社は休み、給料日は目の前だけど、どうしても金が不足。

しかたないので、電子工学、図解パルス工学、電気論の3冊、2000円相当を古本屋に売りに行った。

売りたくない気持ちは山々、そうかと言って、飯を食べずに過ごす訳にもいかない。

ある一軒の古本屋に入り、買ってくれと頼むと、今はその本ありますから、との事で、この本屋を出る。

この場に成って、自分ではよく分からない程の本に対する未練が出てきて、そのまま帰る事にした。

やっぱりどんな事があっても、参考書だけは、今後売るような事はしないようにしよう。

仕方ないので、今日は朝から食パン1個で、1日中過ごす。腹の虫がグーグー鳴っている。

ペンさえも、いつもと違い、ふらふら千鳥足、残る2日間の我慢だ。明日の仕事は元気でいこう。12時記す」

ひかるにとって、パンの耳は、本当の命の源で、どれ程有難いと思った事か。

1日をパン1個で過ごした日が、どれほどあったのだろうか。

絶えるかもしれない、命の恐怖に、何かを残したい、毎日の行動を記録し、自分を励まし、耐えたのです。

そして、生命力の強さ、偉大さをつくづく痛感させられました。

上京時、父はやっとの思いで一万7千円のお金を用意してくれました。

当時は、高校卒業の初任給が一万7千円くらいでしたので、1カ月以内に底をつくのは目に見えており、急いで働かなければ、夜学は続行出来ません。

2026年5月4日月曜日

1017 何んだ、これは!

 今考えると栄養状態は極度に悪く、凍死寸前の状態だったのです。

食べ物が欲しい・・。

着るものが欲しい・・。

誰か話し相手が欲しい・・。

頼る人が一人でもいてくれれば・・・

お金はみるみる底をついて行き、孤独、辛さに、このまま生き続けられるのだろうか?

不安のどん底に陥りました。

父が、やっとの思いで作ってくれたお金、周りの反対を黙って押し切ってくれた事、あの拗ね顔を思い出すと、おめおめと島へ戻る訳にもいかず、自分自身が情けなく、

れ果てたある日、一人で天井を見つめ、孤独を噛みしめながら、何気なく手を胸に当ててみました。

「何んだ、これは!」

思わず、声が出ました。

これだけ辛い思いをし、苦しく悲しんでいるはずなのに、鼓動は平常通り、何事もなく、すがすがしい響で脈を打っていたのです。

身も心も一心同体、体全体で苦しんでいるはずが、孤独、寂しさ、辛さは、精神だけの問題にすぎず、鼓動は平常通り淡々と打ち続ける。

ひかるにとっては、生まれて初めての悟りで、自分の精神がいかにひ弱いのか、情けなくなりました。

強い心が欲しい・・

よーし、生きのびて見せる!

自分にとって、後戻りは出来ない。

辛くても前へ進むしかない。

こう心に固く誓いました。

以後、生涯、精神と鼓動の葛藤が続くように成ったのです。

後の鼓動哲学、原点は二十歳の悟りでした。


1016 パンの耳

 ひかる19歳。パスポート持参で貧しい中での上京。

頼る人とて無く、バイトに夜学。

バイトの金が入るとラーメンを箱ごと買い込み、コッペパンとの連続。

食べ物さえ確保するのが大変な時期でした。

何時ものパン屋へ行った、ある日の出来事。

顔色は浅黒く頬は痩せこけ、明らかに上京したての田舎顔。

手はズボンのポケットへ入れ、十円玉を数え、買えるかどうか思案中。

目は卑しくも買えるはずのない、美味しそうなケーキの方へ行ってしまいます。

一度でいいから、ケーキなる物を食べてみたい・・

しかし金がない。

空腹、みじめ・・

飢えた目で周りのパンをキョロキョロ見ている姿、気の毒に思えたのでしょう。

店のおばちゃんが、他の客がいないのを見計らい、紙袋をそっと渡してくれました。

部屋へ帰り開けると、食パンの耳でした。

他人様から始めて貰った食べ物、心から有難いと感謝したのは言うまでもありません。

早速、コップに水を入れパンの耳を浸して食べる。

これで一食分助かった。

翌日もパンの耳が貰え、コッペパンを買わずに済んだ分、今度は牛乳を買いました。

牛乳にパンの耳を浸して食べるのです。

更に初めての冬は心身共に堪えました。

常夏育ち、冬用の下着や衣類はなく、敷布や毛布も有りません。

畳の上に、掛け布団一枚で寝る始末。

安アパートの為、隙間風は自由に往来。

明け方はとても寒くて眠れません。

少しでも体温を逃さないよう膝を抱え込み、体の表面積を最小限にし、ガタガタ震えているだけ。

猫の気持ちがよく分かりました。

1015 テレビ初対面

 大勢の人が行き来し、ビルへ吸い込まれていく様子を見た時、これはアリンコの世界だと直感。

家の庭に数えられないくらいのアリ達が、それぞれの巣を作り、せっせせっせかと働き、食べ物を蓄えていた姿にそっくり。

東京の人々が一段と小さく見え、何んで人間がアりンコになってしまうのだろうか、と考えさせられました。

そして翌日、魔法の箱としか思えないテレビを一刻も早く見たいと、早速新橋駅前の街頭テレビを見に行きました。

黒山の人だかりで、全ての人がテレビの力道山プロレス中継一点に集中。

確かに、プロレスは別の場所で行われ、テレビにはそれが写っているのです。

夢にまで見続けたテレビ、魔法の箱ではなかった。

そして力道山の空手チョップに群衆が熱中、地響きを起こし興奮している姿を見た時、テレビに挑戦しても間違いではないと確信。夢は大きく膨らんでいったのです。

見果てぬ夢がある限り、命を張って生きてみよう。

何時の日か、我が家で映画が観られる時が来る・・と。

(若い人には、街頭テレビが理解出来ないかと思いますが、60年前、テレビは超高価で各家庭にはまだ普及しておらず、大きな駅前に競馬場の場外モニターの如く設置され、庶民はそれでテレビを楽しんでいたのです、当時はブラウン管で画像が薄く昼は周りが明るく見えません、暗い夜街頭テレビは見えます)


1014大パニック

  急に走り出す事を全く想定していなかったので、心の準備が出来ておりません。

いきなりバランスを崩し「どう成っているんだ! あー あ~!」と見事に転倒。

瞬間、恐怖と驚きで頭の中は大パニック、「止めろ! 止めろー!」と絶叫してしまったのだ。

周りは何事が起きたのか、と一斉に注目、総立ちになりました。

昔の電車、急発進、オーバーランは日常茶飯事。

電車は何事もなく走り出しているのです。

四つん這いになり、起き上がる時、総立ちで見ている人々の視線の冷たさ。

田舎者! バカ! トンマ! いい加減にしろ! と言いたげな視線は、今でも忘れられません。

車内の今にも吹き出したい気持ち、我慢しながら見ている視線を一身に受け続ける事は、なんとも気まずいもので、恥ずかしさを通り越し、居たたまれない雰囲気。

追われるように次の駅で飛び降り、後続電車に乗り換えました。

また、右を向いても目、後ろを向いても目、だらけ。

東京の人の多さには、これまたびっくり、超たまげ~

島の住人は、二百数十人程度で殆んどの人が顔見知り。

例え知らない人でも、道ですれ違う時は挨拶を交わしながら、すれ違います。

東京の人、一人一人に挨拶をしていたのでは前へ進めません。

挨拶は止めました。


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発電車

(徳島の読者より我が県に電車が無い、沖縄にはモノレールが有るとの指摘。ひかるが上京時、沖縄本島にでもモノレールは無かった)


1012 初! 自動ドア

 昭和38年4月、一週間も船に揺られやっと東京晴海港着。

当時の沖縄は米国統治下、パスポート持参、勿論飛行機は飛んでおりません。

上京にはどうあがいても一週間必要でした。

沖縄は電車のない県ですが、島には車や耕運機すら無く自転車すら数台しかありませんでした。

当然お金持ちしか自転車は持てなかった。

電車という乗り物は初めての体験。

けたたましく責め立てるベルに、前の人に連られ急いで乗り込みました。

すると、あまりにもタイミング良く待っていたかのように、ゴロゴロとドアが背後で閉まったのです。

生まれて初めて見る自動ドア。

好奇心旺盛な少年は、ドアに目が付いているはずだ・・

ドアの目がどこに付いているのか、と探しておりました。

次の瞬間、電車は走り出したのです。

自然の息吹と共に伸び伸びと育った、少年の初めての電車。

1011 生き別れ

  今更、船から飛び降り戻る訳にはいかない・・

戻れない・・

親子の全てを断ち切った!

木の葉のような橋渡船の父に、最後の別れを一言。

「許してくれ! 息子は亡き者と諦めてくれ・・!」

心底絞り出す言葉は、声になりません。

千切れんばかりに手を振り、今後の無事をひたすら願うしかありませんでした。

船は全ての未練を断ち切り、一路北へ・・・

この船の進む先に、ロマンがある・・

そしてテレビがある・・

過酷な試練が、刻々と近付いているのも露知らず・・

ひかる少年は帆先へ立ち、目を大きく見開き、未来を見つめるだけでした。

(これから先、ひかるはテレビ界で縦横無尽に活躍、結果的に両親の死水は取れなかった)


1010 夕陽の涙

  年老いた両親と体の不自由な妹を島に残し、旅立つ息子は親不幸なのだろうか・

10歳の遊び盛りに、足の不自由な妹の遊び相手は誰がするのだろうか・・

何時迄も、何時までも元気に暮らして欲しい・・・

夕陽は周り一面を真っ赤に染め、西の海へ深々と物悲しく沈んでいきます。

なびく髪、風さえも赤く染められ、心に滲み渡る蛍の光。

大海原に落とす夕陽の涙は、今生の別れを惜しんでいるのだろうか・・

無常にも二度目の汽笛は空と海へ途切れ、鳴り渡るドラの音に一段と激しく身を揺するエンジン振動。

溢れる涙に視界はこぼれ落ちて行きます。

未練の糸なのだろうか、夕日に赤く染まった海面に尾を引く白い航跡。

橋渡船の父と本船の少年は、縋る甲斐なく引き離され、大きな人生の別れをするのでした。

この先、妹は兄の帰りを待ち切れなかった。

東京がどんなに厳しい戦場なのかつゆ知らず、松葉杖を突いて着の身着のまま兄を頼りに上京。

地を這う生活苦の中、独学にて国家試験縫製技能一級、更に特級を取得。

東京都の身障者教育に身を捧げる事に成る。


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別れ船・・


2026年5月3日日曜日

1008 別れの杯

  空路が開かれた今では想像出来ませんが、当時、上京するには黒島から朝一便の船で石垣島迄行き、夕方石垣を出港し翌日の昼頃那覇港着、夕方那覇港を出、東京の晴海埠頭まで3泊4日、便数も週2便しかなく更にパスポート持参での上京。

もし危篤の知らせがあったとしても、帰郷するには最低一週間は必要。

ニキビだらけのあどけない顔の少年ながら、決して死に水は取れないだろうと、覚悟しました。

両親を前に生き別れの杯を交わさせてくれと頼み、別れの杯を交わしての旅立ちと成りました。

杯を交わす時、父は決して目を合わせまい、としていました。

拗ねているように視線を外し、何かを必死で耐えている様子。

多分、視線が合えば、上京は取りやめなさい、と口から出るのを耐えていたのでしょう。

両親にとって一番辛い時だったのかも知れません。

ひかる少年は、心から寂しがる両親の横顔を見せつけられ、白髪の様子や禿げ具合、シワの数までしっかりと瞼に焼き付け、刻々と迫る別れが辛く、この世で一番長い夜を過ごしました。

当時、石垣島の港は遠浅の為、沖縄本島行きの大型船が港に入れません。

7、8隻の橋渡船が沖の本船まで荷物や人を運び、最後に見送り人を運びます。

本船は一度目の汽笛でゆっくりと走り出し、見送り船は別れを惜しむかのように、周りを追走。

覚悟の上とはいえ、親との生き別れは、これが最後で2度と会う事が出来ないのかと思うと、あまりにも切なく、身を引き裂かれる程辛いものがあります。

妹は棒切れを突いてピコタン,ピコタン追いかけ「兄ちゃん、行かないで・・」と泣きじゃくる。

「兄ちゃん必ず帰るから」と諭し心を鬼にする。


111 人生最後のゴール

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