昭和39年、小さな島から出て来た青年には、成人式とて誰も祝ってくれる人はなく、同郷の親友と二人、着飾る同年代を横目に、お金のかからない新宿御苑へ出かけ、二十歳の夢を語り合いました。
ひかるは、テレビの世界で生きて行く事を表明したのは、当然。
親友は、人に使われるのは嫌いなので、人を使う人間になる。すなわち、社長になることを表明。
当時、沖縄出身者だと、パスポートや身元保証人問題等ハンディキャップもあり、条件の良い会社へは、なかなか就職出来ず、使われる身で、よほど悔しい思いをしたことでしょう。
30年後、親友は、立派な大社長になっていました。
いち早くコンピューターを導入、ステンレスを設計図通り自由に曲げる技術を確立。
列車や飛行機の厨房システム、ホテルの大型厨房システムなどの特別注文品を作れる会社を設立し、二十歳の夢を見事に実現して見せたのです。
小さな島から着の身、着のまま上京、金やコネ、頼れる人とてなく、自分の夢を追い続け、寸分の狂いない技術を確立するには、どれだけ知恵を絞り徹夜をしたのだろうか。
「この工場の地には、俺の汗が沁み込んでいるんだ」と言った言葉は、忘れられません。
共に少年時代を南の小島で過ごし、体一つで上京、二十歳の夢を語り貫き通した二人。
「夢は実現出来るものだなあ・」としみじみ。
「いつまでも、老少年で生きよう、旨い酒を飲もう・」と年に数回酒を酌み交わし、未だに未来を語り合う弥次喜多道中の男同士。
いつの日も、友は宝だ、ライバルだ!
現在、人口5万人の八重山地区からは、著名な人達が数多く輩出しています。
中でも、昭和39年から12年間、早稲田大学総長を努め上げた大浜信泉氏は、この地区の誇るべき師として仰ぐ大先輩の一人。
師が声を大にし「人は生まれた所で、価値が決まるものではない!」と言った言葉は、師ならではの、含蓄のある、奥深さを感じさせてくれます。
おそらく上京当時は、若く、命を賭けた決死の時代だったことでしょう。
そして激苦の人生を歩まれ、この言葉に表現されたのではないだろうか。
早大生はもとより、我々も師の言葉を座右の銘とし、後世まで引き継いで行きたいものです。
また、政財界にも多くの知人を持ち、当時の佐藤栄作総理大臣を動かし「沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない」と言わしめ実現。
プロ野球コミッショナーや数々の要職を歴任。
更に沖縄海洋博や、復帰後の復興に情熱を傾け、自ら尽力した事はあまり知られておりません。
他にも、カンムリワシと呼ばれ、全国を沸かせた、元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高君も、この地区の誇るべき出身者。
沖縄は戦前、戦中、戦後と波乱万丈の歴史を歩んで来ました。
また沖縄出身者も一人として恵まれた人はいなかったはずで、上京後それぞれの人生模様を体験したかと思います。
やはり人間は、ハングリー精神が大事で、ふるさとへ戻るに戻れない。
前へ行くしかない!
この気持ちが、強い人間に鍛え上げて行くのだろうか。
ふるさとは、辛き人生、慰める。
ふるさとは、いつも優しき母の顔。
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