2025年7月31日木曜日

 1161 人生のスタート

 

ひかるが、なぜテレビ業界を目指したのか。

昭和30年代、TVは緒についたばかりだ。

遥か南端の小島、映画館は無いが、子供心に映画を見たかった。

石垣島まで渡れば映画は見れたが、家が貧しく船賃もなく出来なかった。

南端小島、当時飛行機は無く船輸送、マンが本等は半年以上遅れて着く。

そのマンガ本の片隅に、4コマでコタツに入りながら映画が見られる。それが四角いテレビだと書いてあった。

それだ! 家に居ながら映画が見られるという、訳のわからないテレビというものの解明に人生をかけよう。

そこから人生がスタート、親兄弟を捨て、故郷も捨て、着のみ着のままで上京、夜学へ通いながら必死に勉強した。

ブログをやっている人ならウイルコム(現AUの前身)と言う会社、知っているだろう。

ホームページに誇らしく、人口カバー率99パーセントと出ているが、ひかるの育った島はまだカバーされていない、日本最後の情報過疎地だ。

半年遅れに漫画本が流れ着くが、それが唯一の情報源だ。

昭和40年、第一回東京オリンピック39年開催の翌年、勿論テレビは白黒時代で、朝と夜の放送で、昼間はフィルムのメロドママ放送。

やっとの思いでテレビ業界へ入った。

本当に人生の辛酸をなめ尽くしたと言われる状況だった。

それでも、しがみ付き夢をまっとうした。

勿論長男ではあるが、両親の死に目にも会えなかった。

そんな経験の中から、今の若者達には是非、勇気を持って己の道を貫いて欲しい。

親が何を言おうと関係ない!

親は、己の人生を既に歩んで来ている。これからは、自分の人生は自分で決断する、でいい。

この世にポコンと動き出した貴方の鼓動、100パーセント間違いなく、いずれは止まる。

何の為に今まで動いて来たのか?

今、何のために動いているのか?

これから先、どう動かせるか?

己の可能性に立ち向かおうではないか!

人生の 喜怒哀楽に ロマンあり

若者よ 思い残すな 明日は華

  貴方には 誰にも盗られない 知恵がある

  貴方には 誰にも止められない 鼓動がある

これしかない!

己の人生ドラマ ロマンを持て!

そして

 命を張れ!

 命を張れ!

1160 帰るな

 

だから沖縄出身者だけは採用したくないとまで、言い切る社長もいる。

ひかるを見てくれ、一徹に何が何でも仕事一点張りでやりとげる沖縄人だっているんだよというと、あなたはパスポートを持って本土に乗り込んだ人だ。

今の沖縄の若者はそんな覚悟も何もない、と言われてしまう。

原因は何かと考えたら、沖縄の母親は子供が旅立つ時、辛い事があったら、何かあったら、何時でも帰って来い。親の元へ戻ればいいと言って、旅立たせる。

それだ、と考え、ひかるは沖縄の母親に子供を崖から突き放す、ニ度と帰って来るな、例え乞食をしても帰って来るな、と言って旅立たせよ、と説いているが、どんなに言い聞かせても、それは無理だった。

昨日も東京の大学にいる娘から電話があり、辛かったら何時でも帰って来なさい、と母親は伝えたそうだ。

沖縄の女性は、あまりにも情が深すぎ、子供を崖から突き放せない。

結果的に親の面倒を見る、と格好をつけホームシックに負け、厳しい大人の世界へ踏み込めない。

それがいい事なのか、悪い事なのか、悩んでしまう・・・

20代、その人の人生を大きく左右する一番大事な時期である。

Y君のように地元へ帰ると、同窓生は地元企業でそれなりに活躍しだしている。

東京から帰った人間は、キャパシティが狭いからすぐ噂になる。

同窓生の下で、あるいは自分の後輩の下で、顎で使われる身となると頭へ来る。

それで喧嘩をし、また上京する。

20代で、そのような事をしていると、あっという間に30代だ。

好きな恋人がいたとしても、女は生活力をまず先に見る。

何時の間にか他の男と結婚してしまうという結果だ。

そうなると、彼女を恨みつらみ、場合によっては、彼女を奪った男にまで逆恨みをし、心が荒れる。

30代になって、余程謙虚な気持ちで、一心不乱に、人生を立て直せばいいのだが、それもまた難しい。

経験した人でなければ分からないが、30代、あっという間に10年が過ぎてしまう。人生で一番時間が短く感じられる年代だ。

所帯を持つ事もなかなか難しい状況になり、40代に突入すると、人生を立て直すのは、かなり困難である。

フリーターやニートと呼ばれる人達、本気で20代をどう過ごすか考えて欲しい。

まずは親や周りが親身になって、立て直しを支援する必要があるだろう。

生活力の基盤のない男、どんなに男まえが良くても女は逃げていくぞ・・・

1159 帰郷病

  

東京の放送局、キーステーションに沖縄出身者はひかる一人しかいなかった。

どこで聞きつけたのか、沖縄の若者がキー局で番組制作したいけど、どうしたら良いかという相談、いわゆる就職相談が結構あった。

ひかるの知人に、人格良好すばらしい男がいたので、技術プロダクションを作らせ、毎月一定量の仕事を出し、バックアップ体制をとっていた会社が数社あったので、一人の沖縄出身者、Y君を紹介した。

社長は、貴方の紹介なら100%間違いないと、即座に採用が決まった。

Y君の仕事ぶり評判もよく、そろそろレギュラー番組を持たせてもいいかなと、思っていた矢先、社長からの電話。

Y君が仕事を辞め、親の面倒を見る為、田舎へ帰るというので説得して欲しいとの事だ。

親の事も有るかも知れないが、自分の年を考え仕事を大事を選べ、なかなか自分のやりたい仕事、簡単に手には入らないぞと説得をし、何とか思い止まらする事が出来た。

Y君の評判も良かったので、そろそろチーフとして番組を仕切らせ、テロップで画面に名前が出れば責任感も出、やる気も出すだろう、と思っていた矢先、また社長から電話だ。

また帰郷病が出たという。

今度は何度説得しても田舎へ帰るの一点張りだ。

仕事はどうするのかと聞くと、タクシーでも何でもかまわない、とぬかす。

何でこいつのために仕事を紹介してしまったのか、ましてやこちらの顔に泥を塗るような事までされて、腹が立って往復ビンタをはりたくなった。

とうとう、沖縄へ帰ってしまった。

更に数年後、上京し社長に仕事をさせて欲しいと頼み込んだという。

呆れ果て世の中甘く見るんじゃないぞ、と言いたくなったが勝手にしろ、と言ってやった。

ひかるの知る限りの会社経営者、社長が口を揃えて言うのは、沖縄出身者は田舎へ帰るという病気が2、3年おきに必ず出てくる。

1158 ハローワーク


この島の方言を聞いていると、訳の分からない事が沢山出てくる。

足の事をパンと呼び、ハブの事もパンという。

畑に使うクワの事をパーイと呼ぶ。

このパーイはペルーの山奥の原住民が使う言葉だと言われている。

インドネシアを旅行したおり、ところどころ車窓に、MAKANというローマ字の看板が出てきたのでガイドに聞いてみると、レストランの意味だという。

島の方言で、旨いは、まーはんと言うが、インドネシアのマカンと発音イントネーションがぴったりだったのには驚いた。

ちなみに島では、食器のちゃわんもマハンと言う。

また島の方言で、殆んど当てはまる事だか、複称、総称の場合、単称の単語に、ERをつければ事が済む。

その点は、どうも英語と同じだ。

例えば、バカな奴、阿保な奴を方言でいうと、プリムン、になる。

複称、あるいは総称して言うと、それはERを付けて、プラーにり、プリムン達という意味だ。

わんぱく小僧の事を、ヤマング、と言う。

複称、ないしは総称すると、ERをつけてヤマンガアー、になり、やマング達との意味だ。

太る、というのは、パンタル、と表現する。

太った人達、と総称すると、やはりERをつけて、パンタラーになる。

逃げるは、ピンギルだが、逃げ足の速い奴、ピンギヤーだ。

極めつけ方言は、働くだ。

働く事は、石器時代の昔からあっただろう。その言葉が、ものの見事、英語のワークと同じだ。

働く、それは、方言でも「ワーク」である。

屁理屈こく前に「働けば」の方言は

屁理屈こく前に「ワーキバ」になる。

日本南端の島は、ERだらけだ。

日本国内に、理解しがたい日本人がいた。

しかし、日本人のルーツかもしれない・・・

島の爺ジーに、なんで働くが、ワークなんだと聞いたら、お前は、ヤマトウへ行って、屁理屈屋になった。

そんな事、ワシに聞いても分からない。昔からそうなっているのだから、しかたないさ!

ごちゃごちゃ屁理屈ばかりこいてないで、「ワーキバ !」、(働けば !)、と怒られた。

まあ まあと言って、泡盛をつぐと、全て円満解決。

飛び交う方言を聞いていたら、いにしえの昔へタイムスリップ。

島の年寄りは、性根が正直で優しい。

私は島の年寄りが大好きだ。 

1157 死なすぞ! 

 

島で生活してると時々、言葉遣いや表現に、あれれ?、と感じる事がある。

話の中で冗談に、殺すぞ! 、あるいは殺されるぞ!、 という言葉が出てくるはずだ。

島の人の表現では、それは、死なすぞ!、死なされるぞ!、と言う表現になっている。

何んでそんな表現になるのだろうかとよく考えると、殺すぞ!、殺されるぞ!という表現には、頭をブチ割られ、非常に残忍で残酷なシーンが先に浮かぶ。

その点、島の表現では、そのような残忍残酷さは抑えられる。

島の人達がもともと心根が優しい、穏やかであるから、残忍なシーンを連想するその言葉は使い辛いので、自然に言葉が変換されて出てくるのである。

島の人は素晴らしい、とつくづく感じる日々である。

マスコミでは子供が親を、あるいは兄弟、家族を残忍な残酷な殺人報道が多い。

皆さん、夫婦喧嘩、親子や家族喧嘩の中で、知らずに、殺すぞ!とか、殺してやりたい!とか、そのような言葉が日常、ポロリと出ているのではないだろうか。

子供は親の背中を見て育つ、何時の間にか親や周りに、そのような残酷な言葉が飛び交うのを聞き、精神的に残酷なシーンが受け入れられているのではないだろうか。

喧嘩等、興奮してる時に、周りへの配慮は難しいだろうけど、普段から言葉の使い方、表現の仕方に心配りが必要ではないだろうか。

子供は親の背中を見て育つ! 親の言葉を聞いて育つ!

気をつけよう・・・

以前、民宿のヘルパーをしていた27歳前後の女がいた。

父親は公務員だと言う。

南の島へ行った切りで、心配だっただろう。迎えに来た。

今日は子牛のセリで、見に行くと帰ったはずのその子が牧場へ泊り込み、牛飼いをやっていると言う。

親が許さないだろう、と言うと、ミーラ取りがミーラに成ったのか、父親はこんな良い島は無い、とたびたび訪れると言う。

よく聞くと、他にも牧場に泊り込み、牛飼い女が3人もいると言う。

彼女は大学も出ており、丸の内でキラキラ輝くキャリヤウーマンとしても通用する頭脳明晰、牛飼いがそんなに魅力的なのだろうか、訳が分からなくなった。

160頭もの子牛がセリに出され、70万円前後の値が付いていた。

あすは神戸牛か松坂牛か。

子牛と別れる牛飼い女の目に涙、印象的だった。

 1156 強制移住


南端に浮ぶ周囲12キロ、ハート形の黒島には遠い昔、溢れんばかりの人口があり、一大文化圏を形成していたという説がある。

ある説によれば、人口1万人はいたであろうという人もいる。

真意の程は定かでないが、1700年、鳩間島へ60人が強制移住、3年後には更に500人が強制移住させられたという記録が残っている。

その記述が本当ならば、黒島の住人は千人や二千人ではなく、一万人説もおかしくない。

それ以降も石垣島等へかなりの人が強制移住させられたという。

1500年代から600年代にかけて、日本では武士が勢力争いをしていた頃、この島は幸せで豊かに、文化を謳歌した人達がいたと思われる。

島には、特に豪族らしきものは無い、また貨幣なるものも見当たらない。

人々は物々交換、海から獲れる膨大な魚介類、御嶽を中心にお互いの門中が、仲良く生活していたと思われる。

島には墓は有るが、お寺は一軒も無い。法事は自宅で親族同士で行う。御嶽は健康子孫繁栄、豊作祈願の太陽崇拝の場で、親族同士が門徒である。

島には人が溢れ、耕作地を岩の上まで広げたという、その痕跡は今でも残っている。

岩の上に出来る作物など、あるはずがないと思って、古老に聞くと、事もなげに粟なら十分作れるとの事だ。

言われてみれば60年前、島には粟が野生化し、野生のウズラがたくさんいた。

ウズラの卵、仕掛けでウズラを捕らえて食した事を思い出す。

また、御嶽は今でも十数カ所残っている。直径2キロちょっとの島に、本土では考えられない十数カ所の御嶽の跡が残っている。

沖縄本島にある御嶽は、久高島に島々を作った神様が降り立ったという事で、久高島を向き、御嶽信仰が行われているという。

しかし450キロ離れたこの島には、そのような信仰は無関係のようだ。

理解出来ないのは、島の十数カ所の御嶽は、それぞれ方向がバラバラで、統一されていない。こんな小さな島で統一されない疑問、不思議である。

御嶽は本土でいうお寺みたいな存在だが2キロ前後の空間に、これ程のお寺なり、御嶽があるような地区はないだろう。

この島を調べていくと、不思議な事だらけだ。

1155 北海道のおばちゃん

  

島の民宿では夕食後、泡盛がただで振舞われる。

中庭の大きなテーブルで、星空を眺めながら、お互い自己紹介をし観光客は談笑。

ふらりとその輪の中へ入っていくと、島の人だという事で話を聞きたく、周りに集まってくる。

北海道から来たという、60歳過ぎのおばちゃんが、早速、隣へ割り込んできた。

きれいな星空、空気がおいしい、生まれて初めての体験だと、かなりハイになっている。

こんな素晴らしい島で生活出来たらいい。なんとか移住したいので、土地を譲ってくれる人はいないか、との相談だ。

出来ない事はないと言うと積極的に色々な質問をしてきた。

話の内容から、かなり融通の利かない教員か公務員上がりのガチガチな堅物の類、箱入りババーだ。

こんな人に土地を分ければ、住民と間違いなく争いを起こす。

島の人達はテーゲーグワーで、いい加減と言うかあまり小さな事にはこだわらず、のんびり生活をしている。

島人と争いをお越し、後々嫌な思いをするので、この人の相談にだけは乗らないようにしようと心に決めていた。

その内、ひょんな質問をしてきた。

この島に、蜘蛛はいるのですか?・・

はぁー? と思わず聞き返す。

蜘蛛はいっぱいいるし、毒は持ってないが森へ行くと大きなやつもいるよ、と言うと、ギヤアーと血相変えた。

蜘蛛は嫌いどころか糸が体に触れただけで蕁麻疹が出来ると言う。

民宿のベランダでも糸を張っているし、島を散策すると間違いなく糸に触れるよ、と言うと顔面蒼白、わざと嫌がる事を言って脅かしているのではないかと、毛嫌いするというか嫌悪感あらわに出し、睨み付けている。

芯から蜘蛛が嫌いで、アレルギーのようだ。

隣にいるのも嫌になっただろうか、席を移していった。

その話を聞いていた他の観光客が、そのおばちゃんを説得。

日本全国蜘蛛のいない所はない。あなたは、まかり間違っても田舎暮しなど、考えないほうがいいと言われ、渋々納得したようだ。

このおばちゃん、島で連泊するつもりだったらしいが、翌日、早々に引き払ったと言う。

次は西表島観光だと言っていた。あの島は、毒はないが、大きな蜘蛛がもっといっぱいいる。

デッカイ蜘蛛が首に貼り付き、アワを吹き吹き、失神する姿、目に目えるわ・・

その人は北海道だと言う。

おーい北海道~  蜘蛛いないか??

 1154 風葬


亀甲墓は子宮の形だと言われ、命は子宮で育まれ、完うしたら、またそこへ戻ると言われ、入り口は80センチ程の四角い、入り口になっており、勿論、蓋は分厚い四角の石で覆われ、空気が外へ漏れないようになっている。

風葬と呼ばれる方式で、遺体は決して焼かない。また、西洋のように埋めるような事もしない。

棺のまま墓へ入れ、肉体が風化したころ、きれいに洗骨し墓の中で保存。ピラミットや日本の前方後円墳同様焼却はしません。

遺体を棺のまま墓の中へ入れる為、異臭が漏れないよう、入り口が密閉出来るようになっているのである。

勿論、百日での洗骨は強烈な異臭等、赤の他人ではなかなか出来ないものである。

写真はひかる家の墓で祖父母の代まで償却しなかったので遺骨が入ったまま、DNA鑑定すれば数百年前まで調べられるかな・・

ひかるも両親が亡くなった時、初めて小さな入り口から腹ばって中へ入ったが、暗闇の周りは、こうべと骨だらけ、足の踏み場も無い。

しかし、先祖であり、血の繋がったこうべだと思えば、なんとか佇んでいられた。

赤の他人だと、どうしても恐怖心で、その空間には、いられないだろう。

もしかして入り口が、何らかのかたちで塞がってしまへば、もう2度とそこからは出れない。声を出しても絶対に届かない。

そういう意味で、全く他人はそこへ入れないという事だ。

墓の中のスペースは、先祖代々のお骨が保存出来るスペース、そして、棺を入れ、入れた人が入り口から出るスペースも必要だ。

よって、かなりの空間が必要で、先祖代々の血族が一つ屋根の下で祀られるのである。

大きな亀甲墓を作る事は大きなエネルギーが必要で、罪を犯せば墓に入れてもらえない。

という事は最大の屈辱であり、悪事に対する抑止力は墓だったという。

ちなみに墓の入り口を開けるのは、遺体を入れる時以外は決して開けてはいけない。

どうしても分骨したり、墓の中のお骨を取り出す場合は、鶏など生贄にて代わりの儀式を行い、開ける必要がある。

日本に風葬をする人種がいたという事である。

ひかるの両親が他界の際、火葬場で焼却する際、猛烈な反対、泥棒や犯罪殺人等極悪人しか焼却しない、極悪超親不孝者に成るのかと言われた。

しかし島には火葬場は無いが石垣島には有り行政や保健所も伝染病などの件も考慮し火葬を進めていると長老の皆さんに了解してもらった。

以後は他の島も含め遺体は石垣島へ輸送し火葬が行われている。

島では50年前まで洗骨が行われていたのである。


 1153 墓の入り口

 


入り口は棺桶の入る大きさ。

 1152 画像

 


亀甲墓。

 1151 転がすのですか? 

 

飛鳥古墳見学ツアーに参加した時、近くに巨大な石室があった。

参加者に、高校の先生がカメラを持って参加しており、機械や重機の無かった昔、どうやってこの巨大な石を運んで来たのか、ガイドに聞いても分からず、説明書を隅から隅まで読み、頭をかしげていた。

3トンの石等、昔の人は簡単にかついで移動したはずだと言うと、その先生は、怪訝な顔をしてきた。

転がすのですか? どうやって運ぶのですか? としきりに聞く。

写真のように、一トンの鉄の塊があったとする。

それに、A点でロープの端をしっかり結わえつけ、グルグルに6回ほど巻く。最後はB点でまたしっかり結わえて止める。

そして、担ぎ棒を6本入れ、左右ペアで担ぐ、この図だと12名で担ぐ事になる。

この方式は、12名に均等に重力がかかる。一人百キロ近くだが、昔の人ならそれくらいは担げるであろう。

50センチほど浮かせて、声をかけ、右足、左足、と全員同時に、移動すれば、一トンの物体が12人で十分運べる。

勿論ペアを組むのは、背丈の近い人、低い人同士、場合によっては、ロープをもう1回巻きつけ、担ぎ棒をもう1本増やせば、女性が加わったとしても何ら問題はない。

石室の3トンの石を縦、横に2本ずつ支柱を入れ巨大な石を結わえつける。

上下左右4ケ所角に、この原理と同じようにロープを巻きつけ、2カ所で固定する。

一角に10人ずつ配置すれば4角で40名になり、一人75キロの重量だ。

昔の人ならこのくらいの重量、一日数キロの距離でも行軍出来るであろう。

石室から数10キロ圏内に、この石と同じような石の産地があるはずだ。

石室の周りは盛り土したように、小高くなっている。

多分その下には、足場に使った、石垣があるはずだというと、その先生はえらく感心していた。早い話がピラミットの石は5メータの丸木に6回巻き固定し、担ぎ棒を6本入れ丸木に石をもっこで固定、12人で担ぐと1トンの石を長距離、いとも簡単に移動できる。ロープはあだんの木の気根で出来る。

どこでそのような事を知ったのですかと聞かれたので、黒島には大きな亀甲墓がある。

屋根の部分には、大きな石が載せてあり、下には一坪ほどの空間が出来ている。

屋根の石を運ぶ時、この方法が用いられた。これは亡くなった爺さんから聞いた話で、エジプトのピラミッドも同じ縄担ぎ方式で作られたと聞いている。

すると、その先生は是非亀甲墓を見せてくれという。

外から見ても、漆喰で固められており、殆んど分からない。しかし中に入る事は絶対に許されない。

人が亡くなった時でも、決して女性は入れず、直系の一番近い人から入る事になっており、中は二人が限度で、残念ながら見る事は出来ないと言ってやった。

先生は教科書の何処にも載っていない、大変参考になりましたとお礼を言って別れた。

本土のお祭りの御神輿は、背丈の高い人に負担がかかる。

縄担ぎ方式を導入すれば、もっと大きな御神輿が出来たはずなのに・・

(時代劇に出てくるモッコ、網の真ん中に重い石を載せ、周りで大勢で持ち上げる、背の高い人と低い人では網目が違いほぼ均等に重力が掛かるという事だ)


 1150 画

 


縄担ぎ。

 1149 神様だよ

 

この島に、年は58歳、東京からUターンしてきたY君夫婦がいる。

子供は無いが、島の誰もがうらやむくらい、どこへ行くにも二人、すこぶる仲の良い夫婦だ。

普段は無口で、酒もあまり飲まず、ひたすら仲の良い夫婦をやっている。

先日、家を手直しするので、手伝ってくれと言うと、「はいきた兄貴、まかせてくれ」と引き受けてくれた。

仕事も無事完了、ビールと泡盛を飲むと、ペラペラ喋りだした。

俺みたいな男の所へ、嫁に来てれた女房、神様だよ、ありがたいと思っている。

実は、それには訳がある、と喋りだした。

小学校5年生の時、担任は若い女のS先生だった。

この先生には、隣の西表島に、同じ教員で恋人、K先生がいたという。

そのK先生は週末になると、考えられない事だが、西表島に打ち上げられた、写真の飛行機の残骸、燃料補助タンク、それに乗って、一人で櫂をこぎ、8キロ近くもあり、海流もある荒海を渡って、この島のS先生に会いに来る。

島中の人がK先生の命知らず、と言うか、命がけの恋には、あきれ果て、大きな話題だったという。

島の子は、猫よりも身軽に石垣を乗り越え、猫よりも音をたてずに忍び寄り、S先生の戸の隙間から、大人の交わる姿、声などを観察したという。

素知らぬ顔で、教壇に立つS先生の顔を見、友達同士でつっつきあって面白がっていたという。

そのうち4月になり、島に新しい男の先生が赴任して来た。

こともあろうに、S先生は新しく赴任して来た若い先生にぞっこん、出来ちゃっている事は島中の人が知っている。

命がけで通って来たK先生は、泣く泣く、また命懸けで帰るしかない。

島の人達はK先生が自殺するのでは、と同情、あまりにも身勝手なS先生の変り身は、話題になったという。

そしてS先生は、新しい恋人とさっさと結婚してしまったのである。

「兄貴よ、俺は女が信じられなかった、俺など何んの取り得もない、女房はずーっとついて来てくれている、神様、仏様に思われる・・」だと。

世の男性共よ、女房を大事にしよう。

逃げられてからでは遅い、神様、仏様だぞ!!!

一番の物知り博士だと自認する、島じーが泡盛を片手にニコニコ入ってきた。

何をしているんだと言うので、ブログを書いていると言うと、グローブは知っているが、何だそれは!と言う。

島では、インターネットをやっている人はほとんどなく、島外から来た人でISDNでインターネットをやっている人がいるが、とても重くて使い物にならないという。

年寄りたちはインターネットと言ば、人を誹謗中傷する道具と解釈しているようだ。

まかり間違ってもそんなもの持ち歩くんじゃないぞ、と注意されるのである。

じーさん、インターネットって知ってるか、と聞くと、「バッハルン!」、(あったりまえ、しっているさー)と、方言で自信ありげに答えた。

昔は、女しかしなかったのに、最近は男までがやっとる、と言い出す。

観光客が、ヘッドセットをかけて歩くのを見、それがインターネットと、解釈しているようだ。

昔、女がヘアネットをしていたのを、最近では、男までがやる。それがインターネットと、解釈しているらしい。

ヘアネット、ヘッドセット、インターネット、頭の中で混乱しているようだ。

言われてみれば、インターネットは頭を使う。

頭に関係するヘアネット、ヘッドセット、インターネットのチャンプルだー

あれれ、この島じーの解釈、間違っているのかな・・・?

おい! おい! こっちまで脳内超伝道現象だ!!?

1148 画像

 


 


ジュラルミン製、飛行機の残骸。

2025年7月29日火曜日

 1147 島移住失敗男の物語。

 

定年島移住した、吉田氏(仮名)が、深刻な顔で相談に来た。

移住した時、世話をしてくれた人が、いつの間にか疎遠になり、その次に親しくしていた人も、付き合ってくれなくなった。

とうとう3番目に親しくしていた人に、酒を飲んでいる時、怒鳴りつけられたという。

本土では、男同士が親しくなると、肌を触れあったり、肩をたたいたりするのは、ごく当たり前だ。

しかし島人達は、男が男に触れる事、べたべたしたり、肩をたたいたりする事は、一番嫌悪感を感じるのだ。

俺は、オカマじゃないんだ!、べたべたするんじゃない!、という、男っ気が異常に強いのだ。

吉田氏は、島の気質を知らずに、親しくすればする程、こまめに、べたべた、肩をたたいたりしたようだ。

島人にとって、肩をたたかれようものなら、とんでもない事で、往復ビンタを喰わされたような、嫌悪感を覚えるのだ。

吉田氏もそれに気付き、なんとか関係を修復したいとの事だが、一度壊れてしまった、男同士の関係は、そう簡単に修復出来ない。

その悩みの相談であった。

たぶん、男っ気の強い島の人達との関係修復は、かなり時間を要するだろう。

深く反省し、時間をかけて、解決しよう、と諭した。

島暮らしや田舎暮らし、ペットの問題や、周りとの付き合い方、その土地土地の習慣などは、注意が必要だ。

よく見ると、若い人達は、意外と、べたべたしているが、中年以上の人達は、べたべたする事を異常に嫌うのだ。

注意しよう。


1146 至福の時間

 

人生、いくつになっても苦楽は付き物だ。

おじさんも東京に二人の孫がいるが、二人とも、小児喘息持ちだ。

娘からのメールで、今病院で点滴をして来たとの事。

孫のゼーゼー苦しむ顔、普通の人並の子になって欲しい、と夕日に願をかけていたところだ。

若い時の辛さや苦しさは、いくらでも取り返す事が出来る。

歳をとると時間と体力に焦りを感じ、本当に肝が痛む。

胆汁を搾り切られる思いがする。

確かに今は辛いかも知れない。

しかし取り戻せるのだから・・

その辛さを肥やしとして、強い女性に変身したほうが良い、と言うと、二人は目を合わせてうなずいた。

最初の娘は、横浜出身で、続いた子が名古屋出身だという。

二人とも年齢は20代後半、ぎりぎり30前かなという感じだ。

話をしていて感じた事は、二人とも、私に限って、という自信があった。

そして、まだまだ遊びたいという気持ちが働いたようだ。

もし男が、それを察知したら、遊び心は、女より、はるかに上だから、遊び相手を探して次へと、展開していくのは当然だ。

他人ごとではない。自分の人生なんだから、何でもっと真剣に、積極的に、先へ進めなかったのだろうか。

若い時に少しでも遊びたい、という気持ちは理解出来るが、結果として、それは後々つけがまわって来る事になる。

私の知人にも晩婚で、30代後半で子供が出来た人を何人も知っている。

定年時、子供がまだ大学生、定年で時間が出来、楽しい老後をと思いきや、それどころではない。

やむなく働きに出るが給与はがっくり、今まで自分が顎で使っていた、子供みたいな若造に今度はしごかれ、心身共に疲れ果てる。

帰りに、飲み屋で気を紛らせる、ストレスで体調まで崩してしまう。

そのような人を何人も見てきた。

結果的に、結婚が若ければ若い程、早ければ早いほど、定年後は、時間がたっぷりあるので、そこで夫婦で、旅行したり、場合によっては共通の趣味を育てたりと、本当の至福の時間が出来る。

若い時に苦労すれば、年をとってから楽出来る。

若い時に、楽をして遊んでいると、今度は老後に、苦労が待ち構えている。

だけど、まだまだ大丈夫だ。めそめそしないで、新しい恋人を本気で、積極的に探したほうがいい・・

南の小さな島は誰も、周りにいない。心を打ち明けたとしても、他人に聞かれるはずがない。

二人とも、心の内をさらけ出し、明るくなった。

しかし、本当に、胸がつぶれる思いで心配をし、夜も寝ないで、心を痛めているのは、親御さんだろう。

分からないはず、と思っても感じるのが親だ。

今ごろ自殺でもしているのではないかと、心配で心配で寝られない日だろう。

元気な声を親に聞かせてあげるんだぞ、と言うと、二人とも、にっこりうなずいた。

ところで、夕べ民宿で遅くまで酒を飲んでいたが、年齢30歳前後と思われる、好青年が連泊。

恋人募集中だと言ってたから、今日にでも可能性はあるぞ。

帰って夕食がすんだら、民宿の庭で、今夜も大勢で酒を飲むだろうから、さっそくアタックしてみろ。

二人はもう元気そのもの。

がんばるぞ! がんばるぞ! と、シュプレヒコールだ。

いつの間にか夕日は、若い二人の失恋という2文字、漆黒の海の底へいざなっていった。

夕日よ、今夜もありがとう・・・・

1145 馬鹿野郎!!

 

私の前を通り過ぎる時の思いつめたような横顔からして、只ごとではないな・・

取り急ぎ、島の消防団を呼ぶ必要があるな、と腰を浮かせ携帯電話を取り出すと、その子は胸元まである深さへ行くと、ピタリと止まった。

そして両手を口もとへ持っていき、腹の底から、あらん限りの声で、夕陽へ向かって叫び出したのである。

OOの馬鹿野郎!

OOなんか死んじまえ! 

OO! あんたなんか動物以下だ!

失恋した男の名前だろうか、悔しさを夕陽にぶつけている。

そうしていると気がつかなかったが、砂浜の岩陰にでも居たのだろうか、今度は左側からもう一人、女の子がズブズブと海へ入って行き、同じ態勢で叫び出したのである。

XXの馬鹿野郎!

XX! 今に見ていろ!

若い女の子が、真っ赤に沈む夕日を真ん中に、ステレオで叫ぶ様は、心打れ、物悲しい。

涙を洗い流しているのだろうか。

両手で、ざぶざぶ顔を洗った後、女の子は砂浜を上がって来た。

私の存在に気がつくと、ばつ悪そうな、気恥ずかしい顔をした。

「塩水のまま、民宿へ帰るとまずいので、そこのシャワー浴びたほうがいいぞ」と言うと、真っ直ぐシャワーの方へ行った。

シャワーの場所を聞き返さないところをみると、この島は初めてではなさそうだ。

もう一人の子も私の声が聞こえたのか、前の子の後を追ってシャワーへ行った。

自分達の、見せては恥ずかしいシーンを見られてしまった、しかし相手は、どう見ても島の人らしい。

シャワーの間に安堵感があったのか、二人はシャワー後、真っ直ぐ帰るかと思うと、私の前の腰掛け代わりの流木に腰をおろし、一緒に夕日を眺めた。


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島の夕日。

1143 頭が良くなるさー

  

縄算***前回紹介した住民登録台帳、これと同じような形をした、そろばんとは違う、この島独特の計算機が、あったという。

島の人はそれを、縄算と呼んでいたそうだ。

古老に聞いても、現物があったことは知っているが、なかなか原理まで覚えてる人はいない。

旧暦9月、暦上は10月であるが、それぞれの御嶽に集まり、願い事をする。

50数年ぶりではあったが、顔を出すと、年寄り達がびっくりしていた。

その時、出された食べ物であるが、横長のクッキーの形をした物に見覚えがあり、聞いてみると、島の人でこれを知らない人はいない。やはりお前は島ナイチャーかと言われる。

よく見ると、細い横長の中ほどに2本ほど線が入り、すだれのように、縦に筋が入っている。

このクッキー状の物、それが縄算の計算機を形どっているという。

それを食べ、より頭が良くなり、健康であって欲しい。

必ず9月の神事には、各家庭で、妙なクッキーを作るという。

その日も、いっぱい食べれば頭が良くなるさー、いっぱいいっぱい食べれ!、と。

これがまた、都会では味わえない珍味中の珍味で、桁違いに頭が良くなったように感じるから不思議だ。

子供の頃、母親に手伝わされ、作った記憶が蘇ってきた。

それにしても、縄算なる、計算機と原理、解明したいものである。

この頭の良くなるクッキー、メーカーが見ると製品化、飛ぶように売れる事、間違いなし!!

バレンタイン商品をはるかに凌ぐ商品開発になるだろう。

受験シーズン、入学祝など、殺到する事、間違いなし。

ひかるが菓子業界に居れば、間違いなくとんでもない商品開発をするだろう。

いつものように、海辺の休憩所の横で、一服しながら真っ赤な夕陽を眺めていた。

潮時は満潮で、砂浜にも珍しく観光客の姿は無かった。

すると、二十代後半と思われる女の子が、自転車で来るなり、私の存在も気ずかず、そのまま砂浜へ降りて行った。

波打ち際で止まるかと思ったのだが、その子はそのまま海の中へ、ブスブスと直っしぐらに歩き出した。

途中で止まるかと思うと、その子はさらに深い所へ、止まる事を知らない。

ありゃありゃ、入水自殺か?

 1142 大量出土

 

この島で、妙な貝が、大量に出土した。巻貝ではあるが、大きさがサザエの数倍あり、ホラガイとはまた違う、形そのものは、サザエオバケみたいな貝だ。

ところがその貝には、どうしても人工的としか思えない、穴が一つ空いている。

この貝はひかるが子供の頃、60年前には一度も見たことがない。

古老に聞くと、自分もその貝を見たことも、食した事もないという。

しかし、大量に出土したということは、100年、いや200年前、この貝はこの島の周りに、大量にいたと思われる。

シャコ貝と同じぐらいの出土量があるから、かなり生息していたと思われる。

シャコ貝は60年前、足の踏み場もないくらいリーフやリーフの上にはおり、この貝だけは誰も見たことがない。

疑問は、人工的に開けられたと思われる穴だ。

穴のことを古老に聞くと、話には聞いたことがある。

貝に穴を開け、石にゆわえ付け、海中に放牧?していたという。

目の前は太平洋、魚介類はいくらでも採れるのに、恐るべし、いにしえのこの島人は養殖方式を採用していたのだ。小さな貝はなくほとんど大きさが統一されている。

昔は、電気や冷蔵庫もなかったので、祝い事や大事なお客をもてなすとき、放牧?していた、貝をとって来、目の前で、新鮮な料理でもてなしたという。

なるほど、と感心した。

いにしえの島の人たちは、海で貝を放牧?し、必要な時に必要な量、新鮮な料理をし、心豊かに味わっていたのだな。

私も閃いた。

今度は、シャコ貝に、ドリルで穴を開け、テグスで石にゆわえ、必要な時だけ、新鮮なシャコ貝を食べよう。

南の島、夕陽を眺め、新鮮なシャコ貝、貝柱、泡盛を片手に、至福の時間だ !

調べたら、この貝は学名、夜光貝で、太古の昔、中国王朝の漆器などに使われ、とんでもない高価で取引されていたと言う。

古老の話によると、昔、東南アジアや中国と直接交易し、アンナ村跡はベトナムのアンナンからの移住者村で、方言はベトナムとリンクしている、との事だが、本当かな?

島に人口が溢れ、繁栄していたと言う事は、マルコポーロの東方見聞録、黄金島、ジバングはこの島の事かな?

ロマン溢れる、ミステリー島だ!

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夜光貝。

 1140 不思議島

 

沖縄本島から、南へ450キロ、日本の最南端は波照間島であるが、その手前に、ものの見事なハートの形をした、黒島がある。

この島は、1771年、明和の大津波以前、あふれんばかりの人がおり、一大文化を謳歌していた。

本島ー島間は東京大阪間、船にエンジンが無い時代の往来はほとんどなかった。

山も川も無い、周囲12キロの小さな島だが、島を取り巻くように、南半分、8キロにわたる、グレートバリアリーフに匹敵する、見事なサンゴ礁がある。

そこからは、素潜りで大量の魚がつかみ取り出来、それで島の人たちは、豊かな生活をしていたようだ。

しかし、この島には、紙と文字という文化はなかった為、今では歴史に跡を残す事なく、殆んど知られない存在となってしまった。

写真の、しめ縄を小さくしたようなものだが、これは何かというと、この島で使われていた、住民台帳だとの事だ。

縄から、ひげの如く出ているもの、それによって、家族の人数や大人、子供などの情報が、全て入っているとの事だ。

また、同じしめ縄のような形で、島の1軒1軒の地図が、表現されていたという。

さらに驚くのは、この縄から飛び出している髭の長短、太さ、小さな縄状物によって、計算の繰上げ、繰り下げが出来、今で言うと、超ハイテクコンピューター並があったという。

日本や中国ではそろばんがあったかもしれない。この島の人達はそろばんではなく、とんでもないものを使っていたようだ。

現在のコンピューターは、パルスの有るか無しかで基本原理が出来ているが、パルスの長短、太さ、色分けをしていくと、超、超コンピューターが出来るであろう。

遥か昔に、日本の南の島で、高度な文化を誇った人達がいたのだ。

この島の文化が、何んで日本の歴史にないのか、非常に不思議であるが、いうなれば、日本のインカ帝国と言ってもいいのではないだろうか。

沖縄の民謡に興味がある人なら、黒島口説、チンダラ節、アブジャーマ等、聞いたことがあるかと思うが、この島の民謡で、紙では残せない音楽、昔の人が残した痕跡だ。

黒島口説は、マイクのない昔、祭りで大勢を前に、曲の半分を大きな声で歌いながら踊るという、今のカラオケの原点が百年以上も昔に誕生していたのだ。

こんな民謡、どこにも無いであろう。

120もの島からなる沖縄県、たった周囲12キロ、現在の人口二百数十人の島から県を代表する音楽が出ている、という事は、とんでもない音楽のDNAを持った人種である事は間違いない。

島見聞録、これから島の古老たちの話を交え、立ち上げていきたいと思います。

お楽しみに・・・・

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島の住民台帳。

2025年7月28日月曜日

1138 喉輪


絶滅危惧種で、天然記念物イリオモテ山猫は西表島にしかいないが、実は石垣島にもいたと言う説もあるが、この黒島にも60年前頃まで生息していた。

黒島でこの山猫を見た人は最近他界したので今ではひかる只一人しかいなくなった。

この山猫は普通の野良猫と比べ、顔がまん丸くてシッポが太くて短い、足も短い、いわゆる短足ずんぐり型だ。

顔が丸いのは顎の筋肉がかなり付いているのだろう。足が短いのもかなり筋肉が付いているせいで短く感じられるのだろう。

運動能力は通常の猫の域をはるかに越えている。

まずは完璧な夜行性、真っ暗い夜、眼光がものの見事な黄金のビームを発する。50メータ先でも確認できる。消えたかと思うと、こちらの動きや声で別の所から黄金のビームを発する。

また獲物を捕る時の動作が見事だ。

島のニワトリはこの猫のためか、桑の木の枝で寝る。観察するとある程度風があり、木の葉の音がワサワサし、多少しなっているタイミングを狙う。助走から一気に桑の木を四本の足で抱くようにスラスラっと掛け登り、飛びつき、まずは鳥の喉輪を瞬時に噛み砕く。鳥は声を出す間もない。

風で枝はしなったりしているので、他の鳥たちは気が付かない。

くわえたまま落ちるが、猫は四本の足で見事着地。鳥は地面へ叩きつけられる。

もし瞬時に喉輪を噛み砕き損ねた場合、鳥の足が猫の足を掴めば、四本足での着地は出来ず、地面へ叩き付けられ、一巻の終わりでしょう。

風や葉音、しなり具合の読み、瞬時に喉輪を噛み砕くなど、見事としか言いようがない。

また台風時には鳥たちは木の上では寝れない。獲物が簡単に手に入り、この猫がこの地域に生き延びた原因だろう。

住処も重要だが、この地区にはアダンの木がある。アダンは横に延び、途中より気根を地面へ次々と下ろし這っていく。数十センチ高さの奥は絶好の要塞で他の動物は絶対に入り込めない。昼間は安心して寝れるのである。

ひかるは古代から生き延びるこの猫の狩りから、一番大事な事を教えられた。

時代の風向きや自分のおかれている状況等を慎重に読み、ネックの喉輪を瞬時に噛み砕く手法だ。

人生では千差万別だろうが、必ずといっていい程問題があるはずだ。慎重に読み、どのタイミングで瞬時に喉輪を噛み砕くかだ。

自分は今動けるのか、親の状況や有る無し、兄弟の問題、家族に病人が有るか等の読み、飛びつくタイミングはずれていないか等が重要だ。


 1137 思考配分

 

また思考配分をした生き方をすると、チャンスが間違いなく時系列で捉えられ、その時の流れや風向き、風色など、一気に喉輪を噛み砕く手法が採れる、といえる。

配分思考、なんて初めて聞く言葉でしょうし、学校でも教えてくれない、がしかし騙されたと思い、頭へ叩き込み実行して間違いない、人生最良のチャンス獲得思考だと言えるでしょう。

十人十色、チャンスもまた十人十色で違います。己の脳、波長に合ったチャンスを捕らえる。

それには、配分思考を常に心がけ、好奇心を絶やさない。その二本柱の元に前もってチャンスを見据える、そこから間違いのない決断が生まれ、実行力へと繋がる。そして結果が出るのだ。

多くの人が夢を諦めるな、と説くがこの夢がこまったものだ。寝て見るうつつのゆめと己の希望なる夢が同じ字で、子供たちに混乱を招く。

時の総理が沖縄の基地問題などたちどころに解決してみせる、殿下の宝刀、腹案があると言って印籠をちらつかせ、結果幻のゆめであった。挙げ句の果てが、国民が聞く耳を持たなくなっただと・・・

もしかして母親がゆめ枕に出、ささやいたのではと笑ってしまう話だが、国権の長としてあるまじき行為であるが、現実の夢とうつつのゆめが区別されていないのではないだろうか。

教育の間違い、外国から日本人が曖昧だ、といわれる原点は感情の区別が出来ないところにあるのではないだろうか。

議員の皆さん、寝てみるゆめと、しっかり未来を見据えてみる夢、この字に区別を付けてほしい。

話はそれたが、よき決断を出すには人それぞれの考え方や見方で大きな違いが出る。

貴方の決断、熟慮を願うのみである。

ひかるは生まれた島へ舞い戻った。

島には時が見放したのか、時を見放したのか、のんびりした古老達がいる。

TV界で40年間番組を作り続けたひかるとの会話など、面白エッセイ、南島見聞録を発信します。

引き続き、お楽しみください・・

 1136 時代背景

 

昭和30年代、集団就職で沖縄から大勢の人が本土の工場へ寮生活でなだれ込んだ。

数年もすると飛び出すが、身よりもなく親の援助や庇護もない。

世の厳しさに負け、犯罪をおかす人も出る。

ニュースで名字から沖縄出身者であることは判明する。

沖縄出身者は犯罪者的な偏見が漂っていたのだ。

ひかるはパスポート時代に結婚。単なる反対ではなくこのような時代背景もあり、塩をまくだけではなく、警察を呼ぶ、と喚かれたことがあった。

何もなくても、その内事件を起こすだろう、と見られていたようだ。

先日沖縄の会合へ出ると演壇の挨拶者が昔の偏見話を持ち出し、沖縄出身者には大家が部屋を貸さない風潮で、心底悔しい思いをした・・・衣食住に事を欠いた、等々話をし、大泣きで挨拶を終えたが、年輩者が頷きもらい泣き、ひかるに同調を求めてきたが、過去よりもこれから前向きに生きようよ! といってやった。

当時アパートには沖縄出身者入居お断りの看板が結構あった事は事実である。

今時の若者、ひかるから見るとあまりにも恵まれすぎている。

チャンスは日夜降り注いでいるのに、このチャンスを捉えきれない、見過ごしているのではないだろうか。

チャンスの女神、何度かそっぽを向かれると、遠ざかっていく。

しからば確実にチャンスを捉える方法はないのか?、と考えると、思考配分をキッチリ出来れば、可能である、とひかるは言う。

ひかる論、3年先に30パーセント、5年先に20パーセント、現状に50パーセントの思考配分、エネルギー投資配分を常にするべきだ、と主張する。

確かに今日、明日の現状も疎かにすべきではないが、足下ばかりに気をとられていると、いきなり山が立ちはだかったり、谷や川がたちはだかる。

3年、5年先の目標を見、思考配分すると、草原の一本道を歩むが如く、山や川も確認でき、山登りの準備も出来、川は水量の一番少ない時期にタイミングをとり渡ることも出来るというもんだ。


 1135 彫刻刀

 

人体にとって、血液は酸素やビタミンを運び調節、無くてはならない重要な役割を果たす事はいうまでもないが、人生においては、その役目を好奇心が果たすのではないだろうか。

好奇心があるからこそ、知恵が湧きだし工夫もするし、トライも出来、幸せも湧き出る。

小学校時、貧しくてクレヨンが買えない、がしかしじっとしていなかった。

ふしん場を周り釘を見つけてくる。五寸釘は最高で、硬い木に打ちつけ、頭を火にくべ、トンカチで叩き、砥石で研ぐと色々な形の彫刻刀が出来る。

カエルやハト、面や仏像など彫りまくる。

デイゴの木は枯れると硬いが、生の状態は柔らかい。

石膏代わりに使えるのだ。メガネの木なるものがあるが、その木を切って自分の骨格に合わせ、自作の水中メガネ、ゴーグルを作る。

三角や四角いガラスを根気よくコソギ、丸くして取り付ける。

ヤラブの木の根に傷を付けると、蝋状の樹液が出る、それをガラスの隙間へつめる。

子供は骨格が毎年変わるので作り替えるのである。

ちなみに最初は竹で作ったが具合が悪いのでユナーの木で作った、水中メガネ発祥はこの島だと古老が言っていたが、定かでない。

最初は生芋で作ったそうだが、かろうじて一日しか使えなかったといっていた。

ひかるはかすかなチャンスを確実に生かしてきた、といえるのではないだろうか。

高校は叔父さん叔母さんのたらい回し世話でやっと出る。

当然就職するところを上京のチャンスを得る。

会社選び、周りは金に目がくらみ、条件のいい会社へいくが、ひかるはテレビ界を選ぶ。

しばらくは泣かず飛ばずの窓外族を決め込む。沖縄が本土復帰をし、パスポートを焼き捨てるとひかるは豹変したが、そこには訳があった。


2025年7月27日日曜日

 1134 簿記

 

石垣島の高校に理系コースはなく、ひかるは商業コースで簿記やそろばんを習い、上京後たった二年間夜学の理系専門コースを出、局入り。

昼間は重労働のため、勉強もままならない。

入社時、専門知識は同期の連中に比べれば雲泥の差で、かなり出遅れていたため、情報最先端のシステムは驚きの連続でしたが、好奇心の固まりのひかるにとって最高の場でした。

父の言った、思った通りやればいい、これは生涯ひかるの座右の銘、となった。

進路や会社選び、仕事の上、結婚など、誰にも相談することなく、存分に思った通りを貫いた。

おそらく、このブログを見ている人でひかるより恵まれない境遇にある人は皆無でしょう。

かすかなチャンスを確実に生かす。後へは引けない境遇が効を奏したといえるでしょう。

そう、島育ちの子供は15才で親の傘下を出、親離れする。

親の庇護から外れるという事は、辛酸を舐める事になるが、この人生の第一関門をどう乗り切るかがその先を大きく左右する。

二十代、それは人生のチャージをする時期です。

タケシも泣かず飛ばずの二十代があったし、テリーも書いた通りで、ひかるも同期にズルズル置いてけぼり。

ちょっとしたチャンスで豹変していったのである。

経験からして、人生で一番大事なのは好奇心ではないかと思います。

よく夢を諦めない・・なんて言われますが、むしろ何でもかんでも好奇心をもってあの手この手でトライし続ける事が大事だ。

死ぬまで好奇心を絶やすな!

ひかるがメディア先進国アメリカをギャフンといわせたい。

そして出来たと自負。クイズやワイドショーなどスタジオ中心時、ロケの映像を全国のお茶の間へ流せばどんな変化があるのかテレビがどう変わるのか、好奇心の延長線だった。

ランプで育ったひかるは入社早々局の心臓部テレシネマスター職場へ配属、そこは送信システム、膨大な送出機材、放送直前の素材管理、30局のローカル制御、衛星回線制御システムなど情報の最先端。

高校は地元に理系がないため商業コース出、目を見張るどころではない。

しかし寸暇を惜しんでラックの裏へ潜り込む。スタジオのラック裏、中継車のラック裏などすべて解明。旺盛な好奇心を満たす絶好の場であった。

後にひかるは中継車を自作、その中継車で生放送までやってのける。情報番組、渡辺浩之司会、正義の味方はひかる自作機放送番組であった。

キー局はネット問題、巨額のスポンサー費等を考えると、VTRやローカル番組は別とし、まず自作機の使用は認めないであろう。キー局の歴史に自作中継車生放送番組の項目があれば、たった一人ひかるの名前が載るであろう。

一時、ダンプ松本などの女子プロレスがはやった時期があったが、その時も裏方としてひかるの存在があった。内容的には中継車を持ち込む状態だったが、そうなると会場等で制約を受ける。

ひかるは映像システムをコンポーネント化しその都度ホールの隅で組み上げ、バラすシステムを作り上げたのである。システムエラーで番組に穴が開けば膨大なペナルティーを要求される。

今なら簡単に出来るが、当時は大きなリスクを伴う手法を実行できる人はいなかった。

女子プロレス番組を見た人なら、当時他の番組にはないリアリティーにとんだ番組であったことわかるであろう。番組制作費をかなり安く出来たのも当然だった。


 1133 高校

 

当然石垣島での下宿、高校を出ることなどあり得ないことだ。石垣島にいる父の弟、叔父が乗り込み、産まれた子が栄養が行き届かず三人も他界して、やっと出来た男の子だ、せめて高校くらいは出さないとあまりにもかわいそうだよ、と迫るが父は貝になるしかない。

とうとうひかるを叔父が引き取り、高校を出す事になり、一年おくれで入学。しかし二年も終わる頃、叔父と叔母の言い争いがひかるの耳に入る。

叔父はご用聞きの便利屋家業。五人もの子沢山が、自分の子供すら育てられないくせに他人の子供まで預かる甲斐性なしが・と。

二年終了で中退を決意し島に戻ると、今度は別の叔母さんが、もう少しだ、もったいない。私が預かると申し出、やっとの思いで卒業。

当然地元で働き親や周りに恩返しをすべきだが、どうしてもあの五コマ漫画の映画が見られるテレビが忘れられない。

父に上京を打ち明けると、思った通りやればいい、と絞り出すように言ったのである。

わずかばかりの、戻るに戻れない金。親や古里を捨て、本土玉砕を覚悟した特攻精神の原点。這いずっても引かない脳内プログラミングが出来てしまったのである。

ひかるはいつもあのカールブッセの、山の彼方の空遠く・幸い人の住むという・・を口ずさんでいたが、ひかるにとって、それは山ではなく海だった。

人口数百人の島から五万人の大都会、映画館のある石垣島。海の彼方の空遠く・・・

そして高校三年間、ひかるの脳内夢酵母は爆発的な発酵現象を起こし、沖縄本島を飛び越し、遙か海の彼方の空遠く、幸い人の住むという・・・東京があるという・・紙芝居ではない、映画が出るという魔法の箱、テレビがあるとという・・・

舳先へ立つひかるの視界に、巨大な東京、己の人生を存分にぶつけられる大舞台へたどり着いたのである。

人口数百人の島から五年後、一千万人の東京、そして放送界入り、全国のお茶の間、一億人を視野に活躍できる場を確保できたのである。

後は「これしかない!」

やるしかない、だった。

 1132 おいしい画どす

 

ところがこの男、とんでもない事をしでかすのであった。

野球中継の技術総責任者は、中継車の中でカメラやVTR、音声や照明等に指示を出し、画像を瞬時に切り替えるテクニカルディレクター(TD)である。

このTDは12台のカメラ、6台のスローなど18画面、音響や照明など、インターカムで繋がっており、適宜に指示、かなり経験を積んだ15年、20年選手が通常は座る。

まさかの出来事だが、このB君、五年を待たずしてTDの席へ座っていたのである。

当然大ベテランは自分がTD席へ座る番。10年早い! と怒鳴りつけ、足を引っ張りそうなものだが、どういう訳かB君にはトチらせたくない、という雰囲気を持ってホローしたくなる性格だ。

大先輩、三カメさん、頂きました、あんがとさん・・

およよ、五カメさん監督キープ・・おいしい画どす、OK。なんて、京弁丸だし。

怒号飛び交う車内の雰囲気が、がらりと変わっていたのだ。

TD経験大御所から・B君は君が採用したひかる組だろう、どこを見込んで採用した、と聞かれたが、こちらが質問したいところです、と答えた。

勿論、甲子園経験A君も同期に負けじと、現在でも切磋琢磨中である。

今宵も後輩たちの成長ぶりをテレビで楽しみ、晩酌するひかるである。

ひかる中学卒業時、小児麻痺の妹は7才、どん底生活だった。その日の食べ物すら確保できない状況。

忘れようにも忘れられない食べ物それはカタツムリだ。

食べ物も底をつき何もない。雨が降ると石垣の合間から小さなカタツムリが這い出る。それを沸かして食べるのである。

勿論醤油や味噌もない。ぬるぬるし、殻ごとジャリジャリたべるのである。

母は痩せこけ栄養失調状態だが、必死にひかるの命を繋いだのである。

フランス料理、カタツムリが高級料理らしいが、ひかるにとってはゾッとする食べ物、生涯口にする事はない。

 1131 映像分野アメリカ完敗

 

放送業界、歴史の最重要なVTR問題に立ち上がった人は一人もいなかった。アメリカへ立ちはだかった人はいなかった。

当時民放から見ると、国家予算にも匹敵する巨額の開発予算を行使していたNHKですら、このオメガ方式には関与する猶予はなかった。技術資料館にはオメガ方式、これに由来する物証は一行たりともないでしょう。

このオメガ方式、電子編集こそがNASA開発のVR-300を駆逐し、日本が先進国アメリカを一気に抜き去り、映像王国にのし上がった瞬間である。

ひかるは3年で方式問題、編集問題をクリアー、5年後にはアメリカ大リーグがお手本にするスローVTRを多用した番組をつくりあげたのだ。

全国のお茶の間が明るくなった事はいうまでもない。

チャンネルや電波の系列など、小さすぎる、コタツでテレビを楽しむ全国の人々を常に意識しろ、が口癖。

ひかるの上司は慶応大卒の切れ者と言われた人物だったが、ひかるの事は、タイ二ン(大人)タイ二ンと呼び、全幅の信頼をおいていた。

未来の番組作りを託せる社員を採用しよう、とひかるは新人採用に乗り出す。

サッカー番組の台頭は著しいものがあったが、当面野球は続くだろう、と考え野球番組メンバー採用を優先させ、筆記試験、書類選考から面接へと進んだ。

その中に甲子園出場者がいたので当確にしたA君、もう一人どうしても拍子抜けするB君がいた。

京都出身で、名前も公家が使う名前、応答が京都弁でくる。スポーツ系でもなく文系でもない。なに系にもあてはまらないが、ドラマのカメラマンでもやらせば使えるかな、と採用を決める。

新人は2年間、ドラマや音楽、報道取材やワイドショーなど、あらゆる番組の下働きをさせ、顔つなぎや適正を見極め、本人の希望も採り入れ、方向付けをし先輩に預け育てる。

一年が経った頃、つかみどころのないB君をどのジャンルへ当てるか悩んでいた。

しゃべりや対応のしかた、ふにゃふにゃに見え、どうやっていいのか、リンダ節、こまっちゃうな~と歌いたくなる心境、が本人から野球をやらせて欲しいと言ってきたので、とりあえずやらせてみることにした。


 1130 ソニー社長さんよ!


ソニーは昔、ホームビデオVHSとベーター方式戦争で大敗、放送用VTRもかなり立ち後れており、VTR事業撤退かと言われたが、ひかるの出現で一気に逆転、なお独占体制。

開発担当部長だったM氏は後に副社長まで掛け上っていったのである。

そこでまたまたひかるのズッコケが出てしまうのである。

ひかるは何時も会社の近く、すぐ戻れる一キロ圏内の焼鳥屋で後輩達と番組談義をしていた。

ソニーM氏から夜食をしたい、との連絡。夕方営業マンが迎えに来、連れていかれたのがホテルニューオータニ最上階の、当時最高級のフランスレストランだった。

髭の剃り後が青く、格闘技家風のがっしりした体格、ニタリ顔が似合わない、チョコンと乗った白い帽子がこれまた似合わない男がうやうやしく迎え入れた。

ひかるが主賓だと分かっているのだろう。横でメニューをさかんに進める。

これがまた訳の分からない言葉である。

焼鳥屋に指定席を持っているひかる、これ程上品な店、ひょんな外人に完璧に舞い上がってしまったのである。

とりあえず雰囲気を察したM氏が注文。目の前に訳の分からない食べ物が並べられたのであるが、ひかるは一度もホークを使った事がない。

使い方を知らず手が出ないのである。

野蛮ではしたないなーと思ったが、M氏がパンを手でチギッテいるので真似をした。ビールだけは通じるので、パンをちぎり、ガボガボとビールを飲む。

泡盛で鍛え、横綱を自認するひかるは雰囲気とひょんな外人に酔いつぶれてしまったのである。

たかがビールごときだが、雰囲気が人を酔わせる初体験をしみじみと味わった。おそらくこの店で豪勢なフランス料理を注文し、パンだけで終わらせた客はひかるだけではないだろうか。

あの青顎男は店員とこちらを指さしニタリニタリしている。おまえフランス料理を食べる資格のない田舎者が、と言っているように見え、愛嬌なのだろうが、空きっ腹にニタリは腹が立つ。

しゃくなので方言で、ウワ バポーンティピーピスカフォ~ン ファ~ナカ バフォ~ン と方言で言ってやった。

それにしてもひかるは食べ物でよくズッコケる。

ソニーの社員がこのブログ見ていたら、社長に伝えてくれ。

ひかるがニューオータニでのリベンジマッチ待っている、と・・

当時、ソニーはアメリカナイズナンバーワンと言われた企業で、他のメーカー営業マンは飲み屋の接待、場合によってはゴルフ接待など常識だったが、ソニー営業マンは喫茶店のコーヒー代とて、必ず宛名にソニー名がないと認められない、とぼやいていた。

接待がタブーな企業が名もなきひかるを日本で一番高級なレストランでもてなす、どれだけ利益をもたらしたのか計り知れないだろう。


1129 テリーを生かす

  

機材は各メーカーが協力体制を採っているので時間の問題だろう。

問題は完璧にテリーに反発しているスタッフだ。

帰りに焼鳥屋へ立ち寄り、この番組は思い切った強化策をとる、と切り出すとM君は、怪訝な顔をしていた。

カメラ、音声、VTR課の課長がすべてスクラムを組みスタッフを出さない事になっている。

ひかるが部長命令を出したとしても社内事情は無理だと分かりきっている。

業界にはボツボツフリーでやっている人がいるはずだ、彼たちを動員しよう、と言うと、やったー、と膝を叩いて納得。さすが、と握手をして来た。

ゴールデン番組なので日当は割り増し払いの触れ込みに、一気にスタッフ問題は解決。

テリーはまだ初心者、タケシとの間を取り持ち充分なるホロー体制を取るように、とMカメラマンに指示。

軌道に乗っていったのです。

当時、雨傘番組だと手を抜き、二流カメラマンを当てるのが普通だが、キー局のゴールデンカメラマンを裏番組、当面の敵局に惜しげもなく当てる。

ひかるがいかにロケの映像を茶の間に届ける事を重視していたか分かるだろう。

またこの番組では各メーカーの試作機を次から次と取り寄せテスト。

ノーハウは後のオールロケねるとん番組へ繋いでいったのである。

テリーは、ひかるがロケの統括としてバックに控えていたから、社会人初の大きな番組のディレクターが勤めあげられたのだ。

タケシもこのMカメラマンがいたから軌道に乗ったと言っても過言ではないだろう。

民放に勤める人なら誰もがあの巨額の予算とキャスティングで展開する大河ドラマを凌ぐ番組を作りたい、と思うがレギュラー番組では実現していない。

そう、ひかるとMカメラマン コンビはいとも簡単にそれを実現したのである。

当時の日テレ、フジTV、両局の視聴率を合算するとレギュラー番組で常に大河ドラマを上回っていたのだ。

ひかるが、あの東大卒駿腕ディレクターと一歩も引かない覚悟で臨んだ裏には、この読みもあった事を書いておこう。

タケシのスタジオ部分は日テレ局社員制作、完璧とは言えないが、ロケに頼る点も大であった、おまけ解釈。

日本テレビさん、ごめんね・・・

 1128 立ち往生

 

テリー伊藤君の若き頃を書いてみよう。

彼は学生運動の火炎ビンで斜視になった、と他のブログで書いてあったので書くが、卒業直後タケシの元気が出るテレビのディレクターだった。

勿論番組作りは初めてで、ロケの技術を受注したのがひかる。

スタート時、テリーはあまりにも番組作りを知らな過ぎる。

番組にならない、とスタッフが総スカン、立ち往生してしまったのである。

Mカメラマンにはゴールデン番組なので決して手を抜かないよう指示はしていたが、とうとう彼ですら限界を超えた。

残るはひかるがロケ総責任者として一括すべし、との事になり会うことになった。

会ってびっくり、彼は童顔でどう見ても学生アルバイトではないのか、いかに雨傘番組とて、と思わせる状況。

更に火炎ビン事件直後なので、斜視があまりにもひどかった。

そして赤面、猿が温泉で真っ赤な顔をしている状態。

更にどもりのひどさ、どどど・・もも・・・り・・と言う感じで、唇の両端には白い泡だ。

ひかるも人前でのしゃべりが苦手で、一括どころか、目の前のあまりの出来事に、つい同情の念が先立ち呆然と忘れてしまった程である。

彼の学生時代の同僚なら、なるほど分かると言うはずだ。

今の彼からはまったく想像出来ない。

静かに耳を澄ませ聞くと、言っていることに理はある。この男を潰す訳にはいかない、ホローしようと、感じたのである。

ひかるは当時、東芝、日電、ソニー、池上通信機など国産ロケ用カメラ、レンズはキヤノン、フジノン、音響はワイヤレスの開発などかけずり回っていた時期だ。

テリーは技術がついて来ない旨を言っているが、一番ひかるがロケ機材、カメラ本体やバッテリーやレンズ、VTR等、開発を急ぐべく、メーカー特機部門を駆けずり回っていた時期、ひかるは一括どころか何一つしゃべらずに帰った。

小児麻痺の妹、アメリカ統治下の小島、障害者を抱える一家の悲惨は身に染みている。

斜視があまりにもひどいテリーはどう考えても障害者に見え、ひかるは切り捨てる訳にはいかなかった。

何としてでも彼を生かそうと決めた。

大学時代の同窓卒業生で友人なら成る程、彼がTVのディレクターを出来る状態でなかった、と理解できるかと思います。


 1127 さすが東大

 

M君をここまで育て上げ、上司として心より感謝しています。実は私もM君の才能を高く評価しています。

彼に民放両局のゴールデン番組のチーフを張らせ自信を付けさせたい。民放ナンバーワンのカメラマンにし、世界に通用する人物に育てたい。

そして、その才能ノーハウは今後、必ずフジテレビの為に使います。と淡々としゃべったのである。

H氏はしばらく天を仰ぎ沈黙の後、いきなり立ち上がると、握手を求め、この話はなかった事にしよう、と言ったのである。

さすが東大出だな、とひかるは感じいった。

論争を続ければ、ひかるは業界、世界までも視野に入れている、一局、一番組だけにこだわっている己がケツの穴の狭い男に写るか、また先ほどからの態度を見れば、この男は決して引かないだろう、クビが飛ぼうがみじん切りに会おうが平気だろう、ととっさに考えたのだろう。

ひかるは名字で即沖縄出身である事は分かり、普段は沖縄と呼ばれ、かくして沖縄東大紛争は決着した。

周りからはどうやって説得したのか、興味半分に聞かれたがひかるは何もしゃべらなかった。

ひかるはわざわざ放送業界や世界における日本のメディアの位置付けなど用意した訳ではない。

子供の頃より手に取るような天の川、流れ星を庭に育ち、入社当時は魔法の箱解明に専念.

10年もすると何時の間にか業界や世界を視野に入れた思考をするようになっていた。

今の若者達には光年単位で息ずく天の川を眺め、どうせ気がつけば短い一生、スケールの大きな人生を歩んで欲しいと願うゆえんである。

H氏はさすが東大出で、後に歌合戦はタケシに視聴率を食われ、あえなく終焉する。

しかしタケシはさんまと組んでタケちゃんマンでフジテレビに貢献する。

そしてひかるに新企画、ねるとんが持ち込まれ、即M君を起用、約束通りその才能をフジテレビに生かしたのである。

ねるとんは二つの大きな効果を局にもたらした番組である。

テレビ局は時間を売る商売だ。

当時ねるとんの時間帯はなかなか視聴率がとれない、売り物にならない死に時間帯で、それを何とかしたい、と模索の末の企画。

そのヒットにより、他の曜日の同時間帯にも火がつき大きな利益をもたらしたのである。

また前にも記したが、カメラとVTRを4台パラ回しで多重記録する事により、オールロケでど素人を主役にいとも簡単に番組が出来る事を証明。

以後ロケ番組が軌道に乗り番組革命が出来たのである。


 1126 雨傘番組

 

タケシは20代、漫才でちょっとだけテレビに出ていたがその後、影が薄くなっていた。

浅草あたりでやけ酒を飲んでいる、と噂されていた。

ちょうど30歳になった頃だろうか、初めてタケシの名前を番組の冠に付けた、元気が出るテレビなる番組の企画が持ち込まれた。

この番組は日本テレビ系列、後楽園球場のドーム化前で、巨人戦が雨で中止になった時に流す、鬼瓦権造なるキャラクターでフィーラー番組、いわゆる雨傘番組であった。

名の通った役者なら断りそうなものだが、タケシは縋るしかなかったのだろうか。

当時、フジテレビ日曜夜8時は欽ちゃんのオールスター家族対抗歌合戦が好評。

ひかるはそのチーフカメラマン、M君を裏番組、タケシに起用する事にした。

歌合戦はスタジオ番組で日曜日収録、翌週日曜日放送でタケシは日曜日は収録無しとの事で起用を決めたが、ゴールデン番組の裏表。

両局のメンツがぶつかり、ひかるは窮地に追い込まれる事となる。

フジテレビの日曜8時、ゴールデン番組のチーフカメラマンを、いわゆる完璧な裏番組に起用する事にHディレクターが異を突き付けて来たのである。

担当課長等に交渉させるがらちがあかず、とうとう最後の砦、ひかるの出番となった。

H氏はフジテレビきっての東大卒駿腕ディレター、学生運動では安田講堂の屋上で大きな旗を振り、リーダー役、全国弁論大会を制覇して来た、と噂される弁舌家。

当時の芸能界大御所、古関祐爾や水江タキ子など、こうしましょ、こうして下さい、など歯に絹きせぬ自信溢れるてきぱきぶり。

フジテレビでは当時、早稲田卒が圧倒的に多くいたが、この東大卒にだけは勝てない、といわれていた。

かたやひかるは、子供の頃から25歳までオシと言われ、社内でも窓外族で通し、やむなく社の中心に据えられたばかり。

勝負は既にあったも同然と言われたが、ひかるは日本テレビ側にM君の起用を通達済みで、引く訳には行かない。

H氏にアポをとり会いに行くと、歌合戦の編集中だが、完璧に無視した態度。

待つこと2時間近く、ひかるはソファーで微動だにせず薄目で様子を見ていた。

この男、終電になっても明け方までテコでも動く気配がない、と観念したのか、Hディレクターは前に座ると一気にしゃべりだした。

何度も言っているが、M君は私が手塩にかけノーハウをつぎ込んで、やっとチーフが張れる迄育て上げて来た。

事もあろうに当面の敵局、裏番に起用するとは常識外だ。

向こうが軌道に乗れば、こちらの視聴率が喰われるんだぞ。子会社の身分で場合によっては君のクビだけではすまない、社長だって危ないぞ、とひかるを逆なでする事まで言われ、怒鳴り返したかったが、そこは忍々。

存分にしゃべらした後、たどたどしいながらひかるはしゃべりだした。


1125 人生の証

 

我々が地上で生きられる時間は、大きな宇宙の営みから見た場合、まばたきの瞬間なのかも知れません。

例えまばたきの一瞬でも、地上に生を受け、鼓動が動き出した以上、この鼓動が動いている間、止まる前に、自分自身が生きていた、という証、足跡を残したい。

人々がひしめく大都会、巨大化した組織の中、これが自分の足跡だと言えるものは、なかなか見つけられません。

ひかるの場合、少年の頃見た夢に、人生の殆んどを費いやし、追い求め続けた、魔法の箱、テレビ少年物語、ブログそのもの自体が、ひかるの細やかな人生の証ではないかと、考えています。

たかがブログ、だけど、宝だブログ。

たった一人でもいい、人生灯台の一コマになれば・・・

長年待ち望まれた、沖縄最南端八重山地区への民放、2局ながらも開通、ひかるの両親が眠る墓にも、電波が届きました。

ひかるの夢は実現したのである。

島を訪れると、わざわざ船でビデオテープを借りに行かなくても済むようになった、と若者たちは大喜び。

テレビを見ていると、おばあちゃんが不機嫌になり、血を流し争うテレビは嫌いだ、といきなり電源を切ってしまう。

演技で、本当にはやっていないと、説明しても分ってもらえません。

NHKしか写らない時代はそうでもなかった、東京へ帰ったら、そんなテレビは作るな、と言われ、穏やかに生活して来た島のお年寄り達の心を乱してしまったのではないかと、考えさせられました。

また、北半球の日本から南十字星が見えるはずがない、と思われる事でしょうが、この地区では、5月の末から6月の初め頃、見事な十字星が見えます。

南の島、夕闇せまる浜風と、水平線にひときわ輝くこの神秘的な星に出会う時、何とも言えない安らぎを感じます。

ただこの時期は梅雨時で、特に南の空は積乱雲が多く、この星に出会えれば、心身共に癒される事でしょう。

南の孤島、夜の砂浜で大の字になり、空を眺めると迫る天の川、宇宙が手に取るようです。

今起きているようだが、流れ星、もしかして、半年前の事象では?

そして迫る壮大な宇宙、地球の鼓動を背にすると、今、己は地球を背負っているんだ、と思いを馳せる事でしょう。

いや、地球は俺が背負って行くんだ、背負っていかなければ、とスケールの大きな人物になれるはずです。

皆さんもそうだが、中学生くらいのお子さんをお持ちの父なら、是非、地球を背負う体験させるべきです。

(東京の浜で大の字になってもいいが、宇宙を目前に感じられない、南島をお勧めします)

ひかるは周りからタイニン(大人)タイニンと呼ばれたが、子供の頃、地球を背負っていたこと知らなかった事でしょう。

常に国内外、世界を視野にメディアはどうあるべきか、考えていたのである。


 1124 挑戦

 

ひかるの、もの言わぬ少年時代を知る人は、これ程変身出来た人はいないだろう、何かあったのか、と聞かれますが、何もない。

ただ情熱のほと走るまま、人生の波を味方とし、知恵を使っただけだ、と。

抑圧された人間の悔しさが開き直る時、その悔しさの度合に応じ、変身出来るのです。

人生のチャンスという波が訪れた時、蓄えたエネルギーをバネとして使える生き方をして欲しい。

背伸びし切った生き方は、いつの日か息切れする事でしょう。

また、ひかるの場合、物事に挑戦する時、一つの思考パターンがある。

作物を育てる時、出来の良い種を翌年植え、徐々に収穫を増やし、満足するまでには、数年必要とします。

この事から、ひかるも、何か成す時は、畑を耕し、種を蒔き、水をやる。

3年目に花を咲かせ、4年、5年目に、実績という収穫を得るの例えで、3年から5年先を視野に入れた実行方式を取り入れてきました。

この思考パターンは、じっくり腰を据えて取り組めるため、殆んど失敗する事なく、結果が得られます。

参考にしてみてはいかがでしょうか。

もし、貴方が3年前と、今現在を比較し、何の変化も感じられないとすると、いま何か手を打たなければ、3年後も同じです。

と言う事は、前後で6年間、何の変化もない人生という事になります。

何の変化もない人生を求めるならともかく、自分は、20代、30代、40代は、こういう事をやって来た、と言える、人生のアルバムが、必要ではないだろうか。

人生ドラマ80年、1日1日が、ワンカットの積み重ね。

スターは、あなた!

監督も、全てあなた一人の独壇場。

己の人生、楽しい、最高のドラマです。

テレビのドラマ、己の人生ドラマと比べたら、比較に値しない。

若者よ! 即、己の人生ドラマ、企画立案、取り掛かろう!

今日一日、あなたは、納得出来るワンシーン、作れたかな?

ひかるの御告げ・・

人生の 喜怒哀楽に ロマンあり!

若者よ 思い残すな 明日は華!

貴方には 誰にも盗られない 知恵がある。

貴方には 誰にも止められない 鼓動がある。

これしかない!

己の人生ドラマ ロマンを持て!

そして、 

 命を張れ!

 命を張れ!

2025年7月26日土曜日

 1123 傘をさすのは人間だけだ !


イベントは晴天に恵まれ大成功。その会社の社長が「ひかると言う男、雨が降ろうが、やりが降ろうが、しっかり仕事をやり遂げる、一番信用出来る」と尾ひれを付けて回ったのである。

もっと大きな財産は、回りが全員風邪を引いていても、部屋中菌が充満していても、絶対と言っていいくらい、この男の体はまともじゃないのでは、と疑うほど、風邪を引かない、丈夫な体になったのだ。

そして言う「地上にいる動物の中で、雨が降ったからとて、傘をさすのは人間だけだ、雨なんぞ、負けるな」と。

母との約束で学校へ行きはしたが、やはり借りてきた猫の如く、もの言わぬ人(オシ)とあだ名され、中学を卒業。

高校へ進むにもまた、島からは同学年で、ひかる一人。

地元の石垣中学から、なだれ込んだ連中が、徒党を組んでいるように見え、ここでもまたもの言わぬ人とあだ名され、卒業。

上京後、就職するにも、今度は異境の沖縄人として見られ、その事が自分自身にも大きく乗しかかり、言葉のなまりが気にかかり、多くをしゃべりませんでした。

同期の人は、30前に管理職として登用されていきますが、やはり置いてけぼり。

やっと30歳で管理職の末席につくようになった頃、先輩管理職がごっそり飛び出していったのです。

その後、社の状況は、日に日に悪化、殆んど泥沼に片足を突っ込んだ状態となりました。

取り巻く状況が悪い時、殆んどの人は、身を守る方へと向かいますが、ひかるの場合、全く逆で、一気に攻める事を考えたのです。

長い間、もの言わぬ環境で育ち、何かに挑戦してみたい、他人に負けるはずがない、という、情熱のエネルギーが、爆発寸前まで蓄えられていたのです。

貧乏のどん底を這いずり、嘗め回す、しこたま、言葉を無くす程いじめ抜かれる、人生の一番大事な結婚では、生い立ちを罵られ、塩を撒かれる。

人間、生まれた所で価値が決まるわけではない!! と怒鳴りたいが、耐え抜いてエネルギーを貯めるしかなかった。

そのエネルギーは、人間が豹変したのではないかと思われる勢いで、トップを説得しまくり、承諾を得ると即行動。

まず100人を動かすには、行動を共にするブレーンが10人いれば、流れは変えられるだろう、とブレーン作りを開始しました。

守りに回った人を攻めに転じさせる事は、容易ではありませんでしたが、熱意をもって説く姿にブレーンが増え、大きな展開が出来るようになったのです。


1122 大きな財産

 

筋肉が付き、ビッコも徐々に目立たなくなり、勉強で他のいじめっ子を負かす事が出来る、と悟ったひかるは、必ず一番になる、と猛勉強をするように成った。

回りの家では、石油を一升瓶で買うが、貧しく二合瓶でしか買えない、小さなランプだが、父はひかるに明け渡し、細かい仕事を明るい内に済ませ、暗闇でせっせせっせかと内職をする。

子供の時の境遇は大人になってから、大きな財産と成る。

小中学を通し、どしゃ降りの雨に打たれた事は、いつの間にか苦痛ではなく、ひかるの中で、修行僧が滝に打たれる如く、快感になって行ったのである。

ある日、営業で大きなイベント収録を受注、最終打ち合わせ確認時、途中よりどしゃ降りの雨となったが、例によって快感を感じ、客先へ行った。のき先で滴る雨を切り、客の前へ立つと、相手がびっくり。

タクシーも有るだろうに、傘も買えるだろうに、と・・・

ソファーに座ると濡れるので、立ったまま最終確認をし、またどしゃ降りの雨の中を平然と帰る。

1121 ペルテス病


振り返ると、ひかるは小学校入学時、登校拒否児でした。

五歳の時、股関節を痛め、かなりのビッコ、入学時、他の子が運動場一周するにも、半周しか出来ない、ピコタンピコタン状態。貧しくカッパが買えない大雨の日、母は蓑傘を着させ、登校させる。

途中、ひかるはあまりの格好悪さに気ずき、帰ると脱ぎ捨て、ずぶ濡れで登校。急に体を冷やしたせいか、下腹部に激痛を感じるが、我慢できずウンチを漏らしてしまう。ビッコ野郎、ウンチ野郎、といじめられる。

女の子が木切れでつっついて逃げるに、ピコタンピコタン追いつかない。更に、他の村は、同級生が大勢いたのですが、ひかるの村はたった一人。しこたまいじめ貫かれたのである。

登下校時、他の村の連中が徒党を組み、襲ってくるのではないかと、恐怖を感じ、とうとう言葉を失う、しゃべらなくなったのです。

登校拒否に、母はひかるを抱きしめ「ひかるが学校へ行ないんなら、お母さんは生きていけない・・」と大粒の涙をおとす。

当時、母は貧しく栄養失調ぎみ、三人の子が次々と育たなく他界、ひかるがビッコで学校へも行かない・・

顔色から本気で死の道を考えている事が感じられる。母の心の内を感じたひかるは、だまって小指を出した。

ひかるの初めての指切りは、母との約束であった。

どしゃ降りの雨でも、口を真一文字に噛み締め、ずぶ濡れで学校へ行くようになった。

いじめは止まず、当然、成績はすべて零点だったが、通信簿は学校の配慮なのか、1ではなく、オール2のアヒルの行進。しかし、四年の終り頃、勉強もしなかったが、30点、40点が出るようになった。

この、ちょっとだけ成績が良くなった事を、先生が見逃さず、進歩賞なるものを直筆で作り、みんなの前で表彰、褒めてくれたのです。

口を閉ざしたひかるの学校恐怖症、素晴らしい先生との出会い、粋な計らいが自信となり、徐々に心を開いていったのです。

登校拒否やいじめ問題は、このような思いやりのある先生に出会えれば、事なきを得る事でしょう。


 1120 放送、開局!

 

ブログによる放送、そんなに難しい事ではない。即、実現可能である。

例えば、野球放送を考えた場合、12球団、各球団のフアンブロガーを、6名集め、試合が行われると、その球場へ行き、逐一1分単位でもいい、ブログで、結果を上書きして、立ち上げる。

6試合であるから、六つのブログを一つのサイトとして、位置づけるのだ。

常に、各球場の最新情報が、ポータルサイトで書き換えられているという事になる。

テレビで、ダイジェスト版として、プロ野球ニュースがあるが、そんな番組はもう用をなさなくなる。

例えば、TBSが、東京ドームで行われる巨人、横浜戦を中継しようとしても無理だ。

素材をニュースとして使うぶんにはいいが、番組としては使えない規則になっており、お互い縛りっこしている。

ブログの場合、携帯を球場へ持ち込ませない、という訳にはいかない。

縛りがないので、誰でも自由にブログ番組の立ち上げが出来るのだ。

ブログのポータルサイトをうまく作れば、野球だけではなく、サッカー中継、全国の祭りサイト、もろもろの番組が、放送時間枠、時間帯など関係なく、ほぼリアルタイムに送出できるのである。

テレビの場合は、どうしても放送時間、各局間の縄張り争い、あるいは一方的な情報の流し方など問題があるが、ブログの場合、ワンセグテレビを見るように、気のついた時、一服の時、信号待ちの時に自由に見れる。

テレビ放送にはない、かなりのメリットを有している。

一少年が、5コマ漫画に夢を見、浦島太郎になっていく姿自体が、5コマ漫画の格好の題材になるかと思います。

紙面の隅っこ、あまり注目される事もなく、流れすぎていく5コマ漫画の世界と同じで、あっという間の人生でした。

2025年7月25日金曜日

1119 ドザエモン

   

ひかるがパスポート時代、結婚には、女房の親から猛反対を受けた。

その親が、ある会合で、放送関係者と出会った。

その人の話で、放送業界に、沖縄出身の誰もがリスクを恐れ、引き受けない仕事でも、平気で引き受け、ものの見事に成し遂げる、素晴らしい男がいるという話を聞く。

よくよく聞いてみると、それが、自分の娘の婿、ひかるだという事が分かった。

そして、今までの考え方を一変させたのだ。

勿論、ひかるも和解、何事もひかるを頼りにするようになったのである。

そして、都心の一等地の不動産をひかる夫婦に託し亡くなったのである。

ひかるは先見性では、ずば抜けた面をもっている。

建築法が緩和され都心回帰、マンションのブームが来る、といち早く高層マンションをぶち立てたのである。

六本木ヒルズには届かなかったが、ひかるは最上階で、ベランダから東京の夜景を眺め、日々旨い酒を飲む。

また南の島には、父が残した、広々とした土地と生まれ育った別荘がある。

暇な時は、ふらりと南の島へ飛ぶ。

JAL、ANAはワシの下駄だ・・と。

貧乏王国大統領閣下と呼ばれたが、気がついてみると、名実共に大富豪になっていた。

島のひかる邸の広い庭には、大きなヤラブの木が5,6本ある。

大き目のハンモックとガーデンテーブルをしつらえ、朝食は自動パン焼機で出来立てのパンと出来立てのジュースを飲む。

ハンモックで本を読み、うつらうつら・・・パソコンをやったり・・・

潮時のいい時は、150メータ先のプライベートビーチへ、ぷらりと行く。

この島のリーフは世界的にも類を見ない、東京ドーム数個分の天然プールがいくつも出来上がる。

潮の流れもなく、観光客は浮き輪さえあれば絶対安全。熱帯魚達と戯れる竜宮城だ。

ひかるの特技は、この巨大プールで浮き輪に入り、立ったまま、むぎわら帽子をかぶり、サングラスをしたまま立ち昼寝をする事。

観光客は動かないので、ドザエモンだ! と大騒ぎ。ある時は救難ヘリコプターを呼ばれる寸前までいった。

ワシはまだ死にたくないぞ! 

死なせるな!

夕日が周り一面を真っ赤に染める頃、プライベートビーチで、ひかるは若かりし頃に思いをはせていた。

1118 攻めようぜ

  

30年も前の話だが、画期的といわれた、ISDNの開発を大々的に国がPRした。

霞が関の郵政省と、三鷹の当時の日本電信電話公社との間で、ISDNを使って映像をやり取りするという、

国家的プロジェクトに、どういう訳かひかるに白羽の矢が立てられた。

当然NHKがやるはずのところだが、どんないきさつでひかるに話が来たのかは、定かでない。

それ以来、インターネットに関しては、かなり注目し、放送業界もいち早く取り入れるべきだと、主張したが、放送業界は惰眠をむさぼっていた。

その結果、業界からすれば、赤ん坊にすぎない、ホリエモンや楽天に、脅され、揺さ振られる結果となったのである。

これから、ブロードバンド携帯が発売されるようになれば、日本全国、個人が放送局を持つ時代になるんだぞ!

企業や団体など、独自に、それぞれ専門分野の放送を始めるであろう。

既にテレビ業界には、陰りが見える。

今の若者達は、車や携帯電話などを購入する際、あんな30秒コマーシャルで、意思決定する人はいない。

インターネットで、たっぷり時間をかけて、そこから購買へ結びつく。

既に自動車や家電など、ドル箱スポンサーが、テレビからかなり減っているのが見てとれる。

放送業界は、惰眠をむさぼっている場合じゃない!

急ぎ、手を打たないと、お先真っ暗だぞ。

キー局はネット局を食わせる責任がある。

ネット局を使わずに、電波や情報を全国発射出来れば大変な事になる。

もし一局でもネット局が脱落すれば、スポンサーはテレビ局に値下げをあからさまに要求する。更に苦しくなり、次から次と脱落。

その内、ジャパネット高田の限定販売、チラシ広告屋になりさがるぞ!

ひかるがブロードバンド携帯を手にすれば、南の島から、携帯放送、チャンネル1919で、たった一人の放送局を立ち上げて見せるぞ!

今立ち上げているブログは、携帯放送のテスト中だ。

若者の就職ランキングで、放送業界は、かなり上位にあるようだが、頭を使って、ひとりで放送局を立ち上げたほうがいいじゃないかな・・・

コンテンツさえ良ければ、行けるぞ!

放送業界、出版界、広告業界、シェアをもぎ取れるぞ!

若者よ、夢を持て!

果敢に攻めようぜ!

1117 竜宮の使者

 

最近、伝説の生き物だと思われた、竜宮の使者と呼ばれる魚が釣りあげられたとの事。

体長数メートル、巨大な太刀魚に似た、鋭い切っ先の口に、流線形の見事な背ビレ。

銀色の魚体には、ブルーラインが1本入っていたとの事。

巌流島の決闘、佐々木小次郎の物干し竿は言うに及ばず、この魚を怒らせると、人間の心臓は、簡単にぶち抜かれる事でしょう。

欲に目の眩んだ男が、海で見事に心臓をぶち抜かれ、成敗された、という昔話を聞かされた事があります。

竜宮の使者の怒りに触れたのだろうか?

最近では、重さ数10キロ。体長1メートルにも及ぶ、巨大な白イカが釣れ、話題になっているとの事。

海面はスミで黒く染められ、釣り上げる醍醐味は格別だった事でしょう。

一度釣り上げたい、格闘技をしてみたいと描く、楽しい夢。

また、畳4枚分にも及ぶ、巨大なマンタをテレビでご覧になった事があるかと思いますが、ひかる家の、プライベートビーチの前を通り、西表島小浜島間のヨナラ水道を堂々と回遊。人に危害を与えない為、観光の目玉となっています。

無造作に見える海底のテーブルサンゴ類、陽光と見事に調和した動物たちの造形美、ゆるやかな潮流は、夕凪を感じさせ、遊泳の眺めは、

地上のいかなる遊覧飛行、宇宙遊泳にも勝るものではないだろうか。

人間には、とてもまねの出来ない、個性豊かなファッションショーを繰り広げ、乙姫たちが舞う竜宮城。

魚達も、少年の頃に出会った魚達の、孫か、ひ孫になっているのかなぁ?

ひかるは間違いなく、浦島太郎になっている事でしょう。

澄み切った空あり、海あり、命あり。

部屋には、孫達の大きな写真を張り、5コマ漫画に出ていた、大きなテレビで、映画を見よう。

そこは、ひかるの極楽、メルヘンだ!!

長年待ち望まれた、羽田、石垣島間、直行便が飛ぶようになりました。

更に成田から往復2万円で格安便も出ています。

古代の生き物たちと共存出来る、生まれたままの島。

流れ星の、燃える音が、聞こえて来そうな島。

体中に張り付く、幸せを呼ぶ、星砂の島。

人々の、純な心に触れ合う島。

ここは別天地、ロマンあふれる南の島。

恋を語ろう・・・・・

夢を語ろう・・・・・

人生を、語ろう・・・・

人生の、アルバムを作ろう・・・・

 1116 自論

 

「人生には、ロマンと、スリルと、メルヘンが、必要である!」これは、ひかるの自論である。

ロマンについては、別に書いた通り、スリルも、命を張れる生き方をすれば当然。

さて、ひかるにとって、メルヘンの世界とは?

やはり、ひかるのメルヘンは、南の小さな島にしか求められません。

生きる厳しさ、激しさを教えてくれた、台風に遇いたい!

灼熱の太陽エネルギーを浴び、風と戯れ、小鳥達や、百面相の雲と語り合いたい。

そうだ、命を誕生させてくれた、母なる海の世界もある。

華やかで、色とりどりの熱帯魚達、格好良くないけど、ナマコも、クラゲもいるだろう。

ヒトデは手が五つ、五回も握手を交わせるなんて、おまえは幸せものだ。

人が親類に見えるのか、擦り寄って来る、小さな耳かきヒレのタツノオトシゴ君、泳ぎが下手で、立ったまま流に漂い、どうやって、家に辿り着くのだろうか?

魚達の親子は夜、どうやって寝るのだろうか?

また、イソギンチャクに隠れんぼする、真っ赤に白い、派手な縦縞のクマノミちゃん。

卑弥呼の世界で、ボスクマノミは、自然にメスになり、ボスの座を降りると、自動的に、オスに性転換するとの事。

オスを従えての女王様。

スズメダイ、ベラ等は、クマノミと逆、ボスはオスになり、今までメスだった魚が、ボスになると、性転換するとの事。

便利というか、人間の世界では考えられない、厳しい世界だ。

周りには、光柱ライトの中、テーブルサンゴの舞台狭しと踊り狂う魚や、薄暗い根元では、魚体をくねらせ愛し合う魚あり、コバルトスズメの団体は、一斉に向きを変え、一糸乱れぬ行動、光に映える魚体の見事な模様は、立体ラインダンスを演出してくれます。

おちょぼ口の針千本が、小ビレをばたつかせ、警戒警報!

突然現れる、わんぱく小ザメ、しかし枝サンゴへひょいと入れば、絶対安全。

ビー玉ほどの小魚とて、恐れる事はありません。

ちょこちょこと出入りしながら、揶揄する小魚達に、小ザメは仕方なく、「今に見ていろ、痛い目に合わせてやるぞ!」と、威嚇しながら捨てぜりふを吐き、退散。

見ているだけで、時を忘れさせてくれます。

退職金で、小さな船を買い、風のない日は釣り三昧。

そして風が出れば、畑を耕し、汗を拭かせよう。

果て無き宇宙の天の川の下、母なる大河、黒潮に身を委ね、ゆったりとした時浴の中、春には一斉に産卵する、魚達の出産に立ち合う気ままな生活。

子供の頃不自由した飲料水も、同じ町内の島、東洋のアマゾンと呼ばれる、西表島の豊富な水が、海底パイプで引かれており、枯れる事はないでしょう。

人生劇場***本土では考えられない、年間日射量、畳2枚分のソーラーで必要な電気は賄えるはず。

水と電気さえ確保出来れば、あとは大自然の恵みで十分、待つのは、贅沢過ぎる、心豊かな生活のみ。

定年後も夢があり、自分の思った通り、楽しく過ごせる。

これぞ、メルヘンの世界ではないだろうか。


 1115 画像

 


クマノミちゃん

1114 明日は華


そして、人生の大海原、舵の取り方次第で、己の未来形は思いのまま。

しかし人々は、先輩の歩んだ人生、位置づけを参考として人生航路を航海。

人それぞれ、目指す分野や人生に、夜空に輝く星の如く、目標とする先人が居る事でしょう。

何時までも、人生航路の人生灯台として、目標にされる立派な人間になろうではないか。

群れ星の中、ひときわ輝く星になろうではないか。

80年前、遥か南の小島で動き出したこの鼓動。

嘘のような魔法の箱物語を求めた60年間。

常に夢一杯、幸せ一杯の人生を送る事が出来ました。

ひかる少年の求めた魔法の箱、単なるテレビにとどまらず、素晴らしい幸せの宝箱だったのです。

今の少年なら、月に別荘を建て、どでかい花火を打ち上げ眺めてやる、といった壮大な夢を持てば、結果は50年後に出る事でしょう。

昭和30年代、時代の求める流れも加味したかと思いますが、若者達が未曾有の勢いで都会へ集中して行きました。

当時、若者達のロマンを駆り立てる要因は、何んだったのか、と考えると、あのクラーク博士の「大志を抱け!」メッセージに行き当たります。

豊かな時代になったからとて、燃えたぎる若者の情熱は不変。

ひかるは幸いにも、少年の夢を思い通り実現出来ました。

自分なりに学び得た多くの教訓から、今こそ若き力を奮い立たせる、令和の語録が必要ではないかと、あえて遥か南の小島より熱きメッセージを送ります。


人生の 喜怒哀楽に ロマンあり!

若者よ! 思い残すな 明日は華。

貴方には 誰にも盗られない 知恵がある。

貴方には 誰にも止められない 鼓動がある。

これしかない!

己の人生ドラマ ロマンを持て!

そして、

 命を張れ!

 命を張れ!

 1113 幸せの鼓動


一人一人平等に与えられた、この莫大な鼓動エネルギーと、尽きる事のない知財を最大限に引き出し、己の目標を真剣に求める、情熱的な生き方。

脳いっぱいに詰め込まれた、溢れ出んばかりの人生のアルバムで、老後を楽しみ、周りに幸せエネルギーを放射出来る生き方。

振り返った時、後悔は ない!

これしか なかった! と言い切れる人生。

これこそ、幸せの鼓動、と言えるのではないだろうか。

そして、油面の海が、雄叫びをあげ、暴れ狂う海に変化するが如く、我々の人生においても、厳しく辛い時期もあり。

決して、平穏無事で終りません。

夢が大きければ大きい程、理想が高ければ高い程、苦労は付き物。

高く険しい登山、直線登山では、息切れ必定。

いろは坂登山になるかと思いますが、夢が大き過ぎ、理想が高過ぎ、いろは坂人生もやむなし。

考え方、目標さえしっかりしていれば、決して、到達不可能という事は、ありません。

平和な飽食時代、食うに事欠く話や街頭テレビの話など、時代錯誤もはなはだしい、と言われるかも知れませんが、たった50年前の話。

人は皆、懸命に仕事を覚え、結婚。子供が出来てからは、育児や教育問題等に追われ、

人生にターボが付いたのではないかと思われる加速。

これから社会人となる人達は、いま一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

過疎の島から上京、二十歳で夢を語り貫き通した親友と二人。

青春時代の楽しい思い出を肴に飲み干す、夢涙汗の味わい酒。

一人でも多くの若者達が、夢を貫き、夢涙汗酒、飲み乾せん事を願っています。

アリ家族 明日を夢見て 蓄える!

カラスとて無い知恵絞り 生きて行く!

人の道 無駄にはすまい この知財!

人の道 無駄にはすまい この鼓動!

1112 伝説


2百年前の伝説ですが、この島のある男が、くり舟で遭難し遥か南方の無人島へ漂着。

半年後、夢に出てきた神様のお告げを頼りに海へ出ると、黄色いサメが、又間へ入り込み、背ビレに捕まると、そのまま北上。

一昼夜かけ、元の島にたどりついた、という伝説があります。

法事も済ませた後での男の帰還に、島中大騒ぎで、話は広まり、男は琉球王朝へ呼び出され、詳細を報告。

多良間真牛(たらまもーしー)の伝説として、日本の伝説沖縄編に、しっかり位置づけされており、素晴らしい掛け軸と、当時の状況を克明に記述した古文書が今に残されています。

ジュゴンに助けられた伝説は、北欧諸島にあるとのことですが、サメに助けられた伝説は、どこにもないとのことで、国内外より、民話伝説等の研究者が、調査にくる貴重な物語です。

何を隠そう、この話は、わがひかる家に代々伝わる伝説で、掛け軸に使われた色や図柄などの調査結果から、描写の技法は、琉球王朝の絵に源流があり、色は当時の八重山地区では出せない、島では作れない、紛れもなく琉球王朝より、贈られた物だとの事。

琉球王朝の風は、南の島のひかる家にまでささやかに訪れ、わが家は、由緒ある家柄でした。

そしてひかるは、サメに助けられた伝説、五代目の子孫。

末代まで、サメを傷つけてはいけない!

食してはいけない!という家訓があり、サメを神様として崇め、供物を絶やしたことがありません。

なにげなく仲間と酒を酌み交わし、注ぎつ注がれ、フカのヒレ酒だと言われ、急いで戻しましたが、後の祭り。

翌日は、飲み過ぎたのか祟りなのか、1日中頭痛がしていました。

ご先祖様に陳謝! 陳謝!

(多良間真牛の伝説は、平成5年2月26日付け中日新聞、3月29日付け東京新聞に、日本版ロビンソン、クルーソー物語として、大きな紙面で、取り上げられました)


1111 人生最後のゴール

 

三高流行の今時、しっかりした考え方に、感心させられました。

確かに三高に越した事はないはずですが、世の男性に求められているのは、外見や条件よりも、その人の持てる、内命的な考え方や個性、生き方ではないだろうか。

夢を語り、人生を語り、一緒になって、人生ドラマを築き上げて行こう、と真剣に取り組む姿に、本当の男らしい魅力が感じられるのです。

燃える男の情熱、希望に胸膨らませ、光り輝く瞳に、心惹かれる女性が現れるはずだ。

見果てぬ 夢がある限り!

たった一度の人生なら!

試してみよう この人生!

必ず 結果が出るはずだ!

何を言われようとも、たった一人の、自分だけの夢を持ち、未知なる道を求め、見た事のない、他人の真似事でない花、人生の一輪を咲かそう・・

そして人は、泣いても笑っても、黙っていても年を経りますが、この世に生まれた以上、幸せを求めない訳にはいきません。

生まれたい、と望んで生まれ出る人は、一人もいないはず。

もし、生まれ出たくて生まれ出た人なら、生まれ出ると同時に、演説を叩っています。

また、望まなくても死んで行くのが人間。

人生最後のゴールは、たった一人で切るしかありません。

誰も、道連れはしてくれません。

二度と戻らぬ人生、一睡もせず、刻一刻、止まる方向へ進む鼓動。

今一度、胸に手を当て、対話を試みてみましょう。

今まで、何んのために打って来たのか?

これから先、何んのために生きるのか?

真剣に考える時、生涯、休む事許されず、けなげに打ち続ける鼓動に負けない、強い精神が求められ、

いかに無駄な時を刻んではいけないのか過ぎ行く一日の大事さが分かるかと思います。

たとえ、喜怒哀楽の激しい、振幅の大きな人生だとしても、恐れる事はない!

むしろ、浮き沈みの大きな人生程、他人の気持ちを広く受けとめられ、苦境を苦とせず、信頼される人間になれるのだ!

 1110 夢こよみ


子供の頃、日めくり暦でしたがこの暦、不思議と夢が詰っていた事を思い出します。

誕生日や夏休み迄あと何枚かと、1枚1枚めくる楽しみ。

夏休みが日1日と過ぎ、宿題の重みがヒタヒタと乗しかかり焦る日々。

年末には、ほんのチョッピリと薄くなった暦をめくり、お年玉までもういくつ寝ると、とウキウキ。

そして一年間の反省。

元旦には、分厚く真新しいページをめくり、新学年や今年1年間の夢を見る。

昔の子供達は暦をめくり、知らず知らず日1日を重ねる意味。

夢が積み重ねられていたのです。

日めくり暦、今の若者達にもぜひ利用し、常に夢を膨らませ続けて欲しいものです。

そして、夢を追い求め、40年が過ぎた今、人間は、パンのみに生きるものではない事が、本心から理解できるようになりました。

貧しくても、夢のある人生、自分の考えた通りに生きられる人生が最高の人生で、夢のない、老いを待つばかりの人生は、最大の苦痛なのです。

夢を展開し、これが自分の歩んで来た道だ! ドラマだ! とはっきり言える生き方。

そして、老後の人生を楽しめる生き方こそが、大事ではないだろうか。

最近20代後半の独身女性と話す機会があり、数年間も交際続行中の恋人がいるにもかかわらず、どうしても結婚に踏み切れない、との事。

訳を聞くと、これと言った欠点もなく、嫌いと言う訳ではない。

しかし、夢が無い。

会う度に、仕事の不満や世の不平を聞かされ、この男の不平不満に、生涯付き合わされるのかと思うとうんざり。

どうしても付いて行く気分になれないとの事。

 1109 己の主役ドラマ

 

そして、少年の求めた魔法の箱は、当時の状況下、あまりにも大きな夢でした。

好奇心旺盛なひかる少年は、諦める事なく、心に秘めて上京するにも、三千円の家賃さえ遅れがち。

オーバーが買えない、初めての冬、「沖縄だってね~、死んだ亭主のオーバーだから、着な、家賃は出世払いでいいよ!」と励まし、慰めてくれた大家のおばちゃん。

オーバーを着た時、湯気が出る程、ぽかぽか暖かかったのは、忘れられません。

トラックの助手時代、寮費は心配するな、と声をかけてくれた社長。

卒業時、「決して悪いようにはしない、我が社に留まれ!」、と言われましたが、どうしても、テレビの世界を求めたいと、丁重に断りました。

苦しい中で初めて鼓動に触れ、自分にとっては、夢を追い続けるしかない!

たとえ、苦しみが続こうとも、進むしかない、と言い聞かせ、自らの手で、全国へ映画を放送した時、思わず流れ出た、歓喜の涙は、生涯忘れられません。

そして、人は誰でも、夢を見ます。

夢があるから、喜びがあるんです。

初詣の人出に、大勢の人達が幸せを願い、夢を追い求めている姿が見られますが、神に祈るだけで、夢は実現しません。

幸せにも、なれません。

では、幸せとは、何んだろうか。

やはり40年を通した中から、夢を、己のドラマ、ロマンとして展開した人生を体験する事が、幸せの一番大事な要素ではないだろうか。

小さな夢でも、それを追い求め、努力するからこそ、汗や涙に価値があり、己のドラマとして、展開す事が、幸せの出発点で、体験をした結果として、幸せが感じられるのではないだろうか。

まぐれや奇跡を当てにしているような人生では、あまりにも心細い話でしょう。

1108

  

少年の目に映った魔法の箱、テレビは、東独はじめ東欧諸国の民主化にも大きな影響を与え、オリンピック中継等でもわかる通り、人々の目となっています。

情報の乏しい小島で育った、ひかる少年の目、子供らしい、素直な目、だったのではないだろうか。

今の子供達にもこのような目は、あるはずで、清らかな瞳を見る時、将来、どのような素晴らしい人生が約束されているのだろうか、と期待せざるを得ません。

また、親元を巣立つ時、県内にとどまるべきか、当時の、常識を越えた所へ飛ぶか、と真剣に悩んだ時期がありました。

しかし、親は既に50才を過ぎ、自分なりの人生を歩んで来た。

二十歳、30歳と歩む、己の今後の人生を考えると、ここで別れがあったとしても、生涯離れ離れになったとしても、自分の人生を優先すべきだ、という結論を得、行動に移したのです。

はたして、何が少年に、生涯を左右する、大きな決断をさせたのだろか。

おそらく、遊びや、悔しい思いの中から、沸々と湧き出た情熱でしょう。

あの甲子園で繰り広げられる高校野球、若者達が、たった一つの目標の為、最大限努力し、熱き鼓動、燃える鼓動をぶつけ合い、勝っても負けても、涙する、あの姿は、ブラウン管を通し、燃える情熱を感じさせ、感動させてくれます。

光輝く瞳から流れ出る、あの大粒の涙は、どんな味がするのだろうか。

辛苦の涙だろうか・・

歓喜の涙だろうか・・

満足の涙だろうか・・

忍耐の涙だろうか・・

他人には分からない、自分一人の味でしょう。

流した涙は、人生のアルバムとして脳裏に収められ、何万回でも蘇って来る事でしょう。

2025年7月24日木曜日

  1107 涙

 

ひかるは昭和40年の入社時、都会の人にだけは負けたくない、と言う一心で、自分なりの知恵を絞っていました。

当時のテレビカメラはバカでかく、支える三脚は鉄の塊、ケーブルは、78芯で銅の束。

それをカメラ台数分セッティングし、撤去。毎日が、大綱引き。

それに比べ、スタジオは冷暖房完備で、暇な時には、タレントとも気楽に接する事が出来、同期の人達は、大半がスタジオ勤務を希望。

ひかるは都会の人達に負けない為には、丈夫な体を使い、皆が嫌がる中継部門で、自分の存在価値を見い出そう、と考え、中継部門を希望したのである。

当時、球場は勿論、殆んどのホールなど、中継回線が敷設されておらず、綱引きだらけ。

しかし、体力だけでは、単なるバカ力持ちだけに過ぎず、勝負になりません。

わら半紙を買い込み、毎日出かける球場や劇場は勿論、各区民ホール等の中継車の駐車位置やケーブル長。

引き回しからオケピットや舞台裏の状況。

ケーブルがお客の導線をまたぐ場合のケーブル覆いのジュータンの枚数から、色など。

克明にデータを作り、次回そのホールを使う時は、必ずデータを頭に叩き込み、仕事に望みます。

数年後には、関東一円の殆んどのデータが出来上がり、あいつがいれば大丈夫だ、と言われ、若い連中のリーダーシップが取れるようになった頃、前記した通り、30歳で、社外族から、会社全体の流れを見る立場に立たされ、自分なりに周りの状況を分析、突破口を、見い出したのです。

我々の脳細胞は、120億も有ると言われ、この組み合わせから絞り出される知恵は、無限で、枯渇する事はあり得ません。

もし、枯渇を心配する人が居るとすれば、それは、太平洋の水をバケツで汲み、水が枯渇するのを心配しているようなもので、無尽蔵な財産を使わずに、このまま灰にするには、あまりにももったいない話である。

ひかるは、波と岩の熾烈な戦いの中にも、自分なりの答え、「これしかない!」を見い出しました。

そして父の生き方より、前にも行けず、引く事叶わず、ただ、現状のまま耐えるしかない。「これしかない!」事を教えられ、これしかない道を求めるよう、心がける事が出来ました。

誰しも、その時々の状況に応じ、今採れる最良の道を求めれば、結果については納得できるはず。

知恵という財産、知財を最大限有効に使うテクニックとして、これしかない!、方法を試みる必要があるかと思います。

遅くない これしかない! 道 やってみよう。


 1106 知恵

 

都会の子供達を見る時、伸び伸びと遊ぶ場所や自然を見つめ、自分を見つめる場が少ないのには、考えさせられます。

子供は、遊びや自然との触合いの中から世間を見、色々な事に興味や疑問を感じ、人間や自然のルール、正しい心のあり方を学びとって行きます。

親の育て方にも問題があるのではないだろうか。

子供は誰しも、多少の癖やそそうはあります。

その部分を拡大するのではなく、良い点を10倍20倍にも拡大。

信じ見守ってやるべきで、子供は親に信じてもらえなければ、誰に信じてもらえるのだろうか。

もし、親の考え方や方向づけで、子供の持てる素晴らしい才能や芽を潰すような事があっては、子供の生涯に問題を残し、大きな罪を犯した事になります。

ひかるは14歳で5コマ漫画に出会い、魔法の箱、テレビの解明を志し上京。

当時は、数少なかった出来たばっかりのカラーテレビ学科を選択。

テレビ業界を目指し、貫き通しました。

今の子供達には、もっと広い門戸が開かれているはず。

皆が同じ方向に殺到する必要はなく、自分の求める道を本気で全うすべきでしょう。

恵まれ過ぎ、夢が見つけられず、虚無の世界をさまよう若者達を見る時、心痛あるのみ。

子供は、親の宝であると同時に、世の宝、無限の可能性を秘めています。

物事を自分で判断し、自分に合った生き方、世界を舞台に活躍出来る、立派な人間に育って欲しい、と願わざるを得ません。

無い無い尽くしの少年が、体一つで生き抜いて行くには、どうあるべきか、と考えた時、知恵を使う大事さに気づきました。

一口に知恵と言っても、日常の些細な問題から、仕事や人生に関するまで、多種多様。

世の中、大発見と言われるものでも、ちょっとしたアイディアや、見方、発想の転換から出てくる場合が多いかと思います。

成り行きに身を任せて過ごす人や、何事にも知恵を絞りだす人。

こうした個人差、これこそ人生の分かれ目に、なるのではないだろうか。

如何なる有名大学で学問を詰め込んだとしても、それを引き出し、自分の個性に合った知恵、として応用出来なければ、宝の持ち腐れ、時が過ぎると忘れていきます。

また、知恵を引き出す訓練の出来ている人は、どんな職種や職場へ回されたとしても、何らかの形で結果を残せる、実行力のある人間になれるのだ。


 1105 花の予備校


夜学時代はともかく、入社後も仕事に付き合いに、睡眠時間4時間の連続でしたが、今だに風邪ひとつ引いた事がありません。

3番目は、自然の中で育ち、色々な事に疑問を感じながらヒントを得、知恵を使う訓練が出来ていた点です。

どんな難問だとしても、どこかに解決策があるはずで、知恵を使う大事さは言うまでもありません。

4番目は、小さな貧しい島での生活から生まれた、周りの親戚や村人同士が助け合い、思いやる心です。

部下を持った時、100人いれば、100人に思いやる心が大事で、自分さえよければ、他人はどうでも良い、という自分本意では、部下は従いて来ません。

上京当時、田舎者という劣等感やプレッシャーはありましたが、その中でもひかるは、このような環境に育ったのだから、決して都会育ちの人達には負けるはずがないと、自分に言い聞かせ、前向きに考えていた。

今でも間違いではない、との考えだ。

都会育ちの小学生が、北海道の農家へホームステイとして体験学習し、先生や友達と仲良く遊ぶ中から学ぶシーンが、放映されていましたが、素晴らしい制度ではないでしょうか。

屋根の雪下ろしや、2キロの雪道通学、厳しい自然と直接触れ、初めは恐れた牛とも仲良くなり、乳しぼりをしたり、父にジャレるが如く、牛の背中に乗る。

牛の体温や肌触りの感触、目で交わす言葉など、脳裏に収められ、人生の良きアルバムになった事でしょう。

過疎化の中、廃校にならないよう取り組んでいるとの事ですが、可愛い子には旅をさせ、他人の飯を食わせる。

何事も百聞に勝る体験! 

これぞ生きた教育! 

子供たちの将来を考え、行政面からも制度化、促進する必要があるのではないだろうか。

体験は、花の予備校、人生の・・・

1104 部族を維持


本土の人には、なかなか理解出来ない事が、しばしば南の島では起こる。

陸続きでない為、また、その昔はエンジンなるものがなかった為、往来が難しく、方言や風習等、目と鼻の近い島でも違いがあるのだ。

黒島にも数十の部落名が残っており、其々の集落が自分達の子孫、部族を維持、守るため、他部落との交流や結婚などを嫌ったと言う事が実際にあった。

島の古老達の方言を聞いていると、色々な発見、考えさせられるものがある。

方言で「痩せる」は「ヤギ」と言う。

動物の山羊から来ているのかと思うと、動物の山羊は「ピシダ」と言う方言があり、まったく別ものだ。

逆の「太る」は「パンタル」と言う。

あれれ?丸丸に太った動物、中国に、パンダがいるな?パンタルは、パンダと関係あるのかな??

ところで、テレビでは痩せる、ダイエットが流行っているようだが、そのうち日本全国、豚ではなくヤギだらけになるのかな?

あなたの周りに、ヤギ君いる?

パンタル君いない?あなたは、ヤギになりたいの?

我輩は、ヤギである!

ひかるは小さな過疎の島で生まれ育ち、都会育ちの子供達に比べ、恵まれていたのではないか、と考え、自負する点が、多々あった。

一番目は、先祖代々台風と戦い、作物が薙ぎ倒されようとも、忍耐強く生き抜いて行く。根性なるものが、生まれながら宿っていたのではないかと思う点。

今の若い人達には、古くさい言葉に聞えるかも知れませんが、長い人生を歩む上では、コツコツと目標に向かって努力する、という事は、大事な要素では無いだろうか。

2番目は、子供の頃から裸で育ち、灼熱の太陽エネルギーを目一杯体で吸収、人一倍健康な体が育まれたのではないかと思う点です。


1103 画



ヤギである。

1102 東京スカイツリー


この地区の島は、サンゴ礁で出来ているため、耕作地が少なく、重税感は過酷を極めたとの事。

島々には石を高く積み上げた、見晴らし台があり、税金取締役人の船を発見すると、各島へ狼煙で連絡され、村長は、税金対象物を隠させ、島一番の美女を引き連れ、少しでも納税額を軽くするよう、役人を饗応し、村人を守ったと言う。

島人達が、汗にまみれ積み上げた見晴らし台、ささやかな税金逃れをし、生き延びる、歴史と知恵の結晶でした。

国民の生活を守るのが、政治家。

税金逃れや天下りが、取りざたされる毎日。

都会にひしめくサラリーマン。

どうあがいても、逃れられないのが税金。

マイホームは遥か彼方。

やっとの思いで確保して、月々支払うローンと税金。

ガツーン、カツーン、心はコブだらけ。

どうしたらよいのでしょうか?

仕方ありません、見晴らしのいい、東京スカイツリーへ上り、叫びましょう。

沖縄県3番目に大きな石垣島は人口4万5千人。

川平(カビラ)湾は世界で唯一黒真珠が採れる、鮮やかなエメラルドの湾。

波間にキラリと光る真珠の輝きあり、入江に浮かぶ島々は真っ白い砂浜に取り囲まれ、砂浜から深みへの微妙な色の変調は、絵の具を流し込み、風の筆で描かれたのではないかと思われる眺めです。

この色は、どうして砂に染まらないのだろうか?

例え、どのような名文をもってしても、表現は不可能でしょう。

決して、日本三景に見劣りのしない絶景。

一見に値するのでは無いだろうか。

・・風筆や 描き尽くさん 八重の島・・

・・海の色 湧き出る元か 川平湾・・

近年川平湾には異常に外国人が多い。それも中国や台湾 近くの東南アジア諸国の人ではなくヨーロッパ系の人でフランス人が大半。

ボンジュールが連発される石垣島だ。

訳を聞くとフランスの著名な旅行雑誌、価値ある観光地ベストテンに川平湾が入っているとの事。皆さんも一度は行ったら・・

 1101 西表島

 

そして、この残された自然を観察すると、動物たちは、月の引力による旧暦での行動。

黒島では、旧暦の決まった日の満潮時、島中のカニが、一斉に海へ向かい産卵をします。

道路や砂浜までが、足の踏み場もないくらい、カニで埋め尽くされ、これ程のカニが生息していたのかと思わせる数。

海は、卵で赤く染められ、殆んど魚の餌食になる中、わずかながら、生き残って行くのです。

甲羅が5センチ以下のカニ、どうやって産卵日を計算しているのだろうか?

年に一度、間違いなく日時を計算し、一斉に産卵する自然の営み、一度は都会の子供達に見せたいものです。

また、日本では、唯一亜熱帯気候に属するこの地区は、2月に入ると、気温が二十二、三度にも上昇し、どっと春風が押し寄せ、百花繚乱の季節。

もし桜があれば、間違いなく正月には咲くでしょう。

3月には日本一早い海開きが行われ、暖かい春風が、沖縄本島へ九州へと北上、日本の春は、八重山の元旦から出発していくのです。

南国の山々は、一年中緑を湛え、春夏秋冬というはっきりした変化もなく、季節は北風の吹く季節とか、うりずんの季節、という呼び方で表現され、春夏秋冬という方言も見あたりません。

ひかるが上京して一番驚いたのは、山一面が紅葉し、落葉する事でした。

初めての冬、木々が落葉し、裸山の姿を見た時、間違いなく枯れた、木々が新しく地面より芽ぶき大木になる迄、これから何年かかるのだろうか。

化学兵器が使われたのか?

天変地異が起きたのか? と考え、この世も終わりではないかと思ったものです。

子供の頃不思議に思った、落ち葉焚きが後に理解出来るようになったのだ。

また考えられない事かもしれませんが、ひかるの家の前には、自然のサボテン林がありました。

トゲがあるため、人間や牛馬、他の動物は一歩も入れず、トカゲやヘビなど、爬虫類の格好の棲家。

サボテンと言うと、誰しもメキシコを連想するかと思いますが、日本にも自然のサボテンが群生する気候があったのです。

そして、誰しも、沖縄の自然は素晴らしい、と絶賛しますが、この八重山地区は離島のため、未だにあまり知られていません。

この地域は珊瑚群が、海底いたるところに見られ、この海域に眠る、世界屈指の珊瑚群は、復帰に伴う、日本最大の財産ではないでしょうか。

台風が作り上げた地形や山並みの変化に富み、西表島は、全体が絶景のいたりで、沖縄本島に次ぐ大きな島にもかかわらず、人口は1700人程度。

いかにこの島が人を寄せ付けなかった島なのか分かるかと思います。

そして地球上の動物が絶滅していく中、20世紀最大と言われる、西表ヤマネコが、古代の生態系を残したまま、この島で発見されたのです。

遥か昔、西表島が中国大陸と陸続きだった時より生き続け、動物学上、貴重な猫だとの説。

外国からは、経済アニマルと呼ばれ、自然破壊が激しい国に見られていると思いますが、世界に類なき動物が生息する日本、おおいに誇るべき発見ではないだろうか。

今日も日本のどこか、息を潜め、獲物を狙う、百万年来生き続けた、古代の目が光っているのかと思うと、大きなロマンを駆り立たせてくれます。

古老の話によると、その昔、この西表島は山国のため、収入が少なく、税金を滞納。

島ごと、税金のカタに取り上げられ、国有化し、開発されなかったと言っていましたが、真意の程は、定かではありません。

1100 画像

 


川平湾(かびらわん)

1099 魔法の箱物語

 

普段は、15、6頭の牛を庭先の牧場で放牧し、牛には家族の名前をつけ、子や孫と話すように、牛と対話しながらの生活。

いち早く血統書に注目、島根県産の血統書付母牛を導入。

初めの内は、訝かられたそうですが、今では血統書が重宝されるようになりました。

牛は、子を産む事に、角に一輪ずつ節目がついて行きますが、父の牛は、血統書の生年月日と、節目の数がぴったり合う、いわゆる、毎年子供を産む安産型、骨太で肉付のいい優良牛だったのです。

その牛を競売に出したところ、今までにない最高値が付き、大きなトロフィーが贈られ、位牌の横に、誇らしげに据えられました。

父は小さな島で一生を終え、息子と一つ屋根の下で生活する事が、叶わなかったにも関わらず、幸せだったと思います。

きっと、ひかるがテレビを運んで来る、と信じ、自慢していた父。

親にとって、息子が信頼出来、自慢出来る事は、最高の幸せではないだろうか。

そして貧しいながらも、住み慣れた土地で、生涯が送れたのです。

家で映画が見られる、魔法の箱物語。父は最初から賛成していましたが、晩年の父の姿に、その訳が分かりました。

映画が好きで、特に洋画の世界は、我をも忘れる大好き人間。

過疎の村で、朝1番に、お茶ではなく、コーヒーを点てて飲み、洋画の世界に浸る父は、本格的なロマンチストだったのでしょう。

少年の夢、父の理解が大きな役目を果たし、5コマ漫画のロマンは、親子2代のロマンでした。

我々日本人は、大自然に浴し過ぎ、恩恵を過小評価しているものではないだろうか。

北海道から、南は台北よりも南に位置する、八重山地区までの海岸線の総延長。

暖流や寒流が交差し、北が氷に閉ざされている時期とて、南の島では水泳が出来、四季折々の花や食べ物など、季節感が楽しめる。

これ程、自然に恵まれた国は無いでしょう。

特に最南端の八重山は、商業放送のテレビが最近開通したばかり。

観光事業や他の事業等も経済的な面で、採算がとれず、孤立した地区として、乱開発されず、豊富な自然が残されて来たかと思います。


1098 テルビ

 親に隠れ、おじいちゃんの位牌に線香をあげる、中学1年生の息子を感じた時、一人旅は、無駄ではなかった。

学校では学べない、大事な事を南の小さな島で、学んで来たな、と。

おじいちゃんも、孫と1カ月間、同居出来、天国へのなによりのお土産だった事でしょう。

 ひかるの父は、島で生まれ育ち、島から出た事がありません。

勿論、テレビなんて物は見た事もなく、何度言い聞かせても、テレビの発音が出来なく、テルビ、テルビと、言っていました。

役場や農協の窓口の事務員を捕まえ、息子が東京で、テルビをやっている、といつもの自慢話。

遠い田舎の事です。テレビの組立配線工として働いているのだろうとしか、思わなかった事でしょう。

帰郷の際、早速農協や色々な所へ連れて行かれ、東京でテレビの番組を作り、全国へ放送しているんだ、と話したら、驚かれたのも当然。

更に、自慢話にハクが付きました。

子供達との同居をかたくなに拒み続けた父も、孫から要望され、上京を決意。

島を引き上げる前、夏休みに、家族全員で会う事を約束。

4月に他界した時、通帳に孫二人分、10万円ずつの飛行機代が用意されていました。

島のこの家で、家族そろって過ごす日、指折り数え待っていたのです。

夏休み迄には、まだ間があるのに・・

孫達には、お金に変えられない、おじいちゃんの気持ちが伝わったのは言うまでもありません。

父が必死で守り続けたこの家で、家族全員泊まる日、小さな夢、小さな幸せを、叶えさせてやりたかった。


 1097 恐怖の体験


ひかるの息子、光一が、小学校6年生の夏休み。自然との触れ合いや冒険を体験させる、良いチャンスと、島のおじいちゃんの所へ、一カ月間、一人旅をさせました。

12歳で飛行機や船を乗り継ぎ、2000キロも離れた島への一人旅、不安だった事だろう。

島へ着いた夜9時頃、息子からの電話。

「おじいちゃんが、寄り合に行き、一人でいるけど、オバケが出るよ! 怖いよー、今すぐ帰りたいよー」と、泣きべそ。

無理もありません。周りは家もなく、静寂そのもの。

時期的に、コウモリの大好物な、防風林の福木の実が熟し、暗闇の上空を奇妙な声で行き交っており、遠くに聞こえる、フクロウの泣き声も、都会で育った子供には、恐怖の体験でしょう。

その家は、お父さんの育った家だし、オバケなんか出ない、男の子が、1カ月間の約束を破るな、と諭しました。

息子は畑仕事や牧場を手伝い、漁へも同行。

腰痛で、50メートルごとに立ち止まるおじいちゃんが、海へ入ると、もの凄いスピードで泳ぎ、素潜りで魚を取って来る姿に、驚いたとの事。

おじいちゃんの腰痛を見かね、初めての料理、目玉焼きを作ると、事のほか喜ばれ、失敗しながら何度か作るうち、うまく作れるようになったとの事でした。

無事、1ヶ月が過ぎ、黒々と日焼けして帰って来ると、早速お風呂へ入ろうとの誘い。

ひかるの足を点検、傷跡を見つけると、あったあったとはしゃぎ、ひかるが怪我した時の様子をおじいちゃんに聞かされ、確認したかったとの事。

おじいちゃん、本当の事を教えてくれたんだね・・と。

この際、ほかの傷跡も、一つ一つ教えてやりました。

この傷は、漂流した飛行機の残骸を解体中につけた傷だ。

この傷は、自転車の発電機で、風力発電をしようと、木の上へ取り付ける時、おっこってつけた傷だ。

この爪は、水中鉄砲を作る時、留め金が外れ、潰したんだ。

など、教えると、興味深げに、目を白黒。

小さな手で、傷跡をさすり、「痛かった?」 と見上げる瞳は、輝いておりました。

そして夕食時、お父さんに意見がある、島のおじいちゃん、一人で生活するのは無理だよ、家に引き取ってくれ、と言われた時は、一人旅をさせてよかった、逞しく育ったなあ、と感心させられました。

翌年、同居の段取りを進めている最中、おじいちゃんは亡くなったのです。

孫の見る目は正しかった。

1096 別れ

 

昭和63年4月、父危篤の報に、急ぎ帰郷。

しかし、父と会えたのは、息を引き取ってから既に15時間が過ぎていました。

ひかるがきっとテレビを運んで来ると、ひかるの作ったテレビが見られる日を、生涯の楽しみにしていた父は、突然心筋梗塞に襲われ、79歳で帰らぬ人となりました。

ひとつ屋根の下で住みたかったのに・・

許してくれ!

少年の夢を見守ってくれて、

有難う・・

有難う・・

冷たくなった父を抱きしめ、何度も何度も呟きました。

お互い死に水は取れないと、覚悟の上とは言え、何の反応もしなくなった父の姿に、「親不孝な息子だったのか」、最後に一言答えて欲しかった。

15時間も経過しており、ゆっくり対面している間もありません。

喪主としての段取りや、弔問客との応対、時は目まぐるしく過ぎ、仏事での貸切船や船頭への式たり等、長老の皆さんに教わり、石垣島から黒島の墓へ無事納骨。

島の家で、位牌となった父と二人っ切りになった時、親子でありながら、生涯に交わした会話の、余りにも少なかった事を、しみじみ感じさせられました。

振り返ってみると、中学時代は、一家を襲った試練に、両親が必死で立ち向かい、高校は石垣島での下宿生活、卒業と同時に上京。

親子が一緒に生活する期間が、余りにも少なかったのでした。

父は島を離れられず、息子は、夢を追い続けるしかなく、別々の道を歩むしかなかった。

親子の絆のあり方、人生は、これしかなかった、と自分に言い聞かせるしかありませんでした。

もっと、たくさん話し合いたかったのに・・こんな親子関係で終わりたくなかったのに・・今となっては仕方がありません。

父は周りの人達が島を引き上げる中、目の前に広がる海を味方とし、自分には、太平洋という、大きな畑がある。

海がある限り魚は獲れる、決して飢える事は無い、と言っていました。

この海は、息子や娘のいる、東京まで続いているんだ、といつまでも浜に佇み、語りかけていたとの事。

弔問客も途絶えた真夜中の三時、父の愛した海が懐かしく、浜へ出てみました。南国の夜空に、黙黒の大海原。

千古変わらぬ、さざ波の音。遥か彼方より漂う、潮の香りを体一杯吸い込み、別れの杯を交した、父の事を思い浮かべた時、満天の夜空に、白い歯でニッコリ笑う、日焼けした父の顔が、超特大パノラマ画面で映し出されました。

親父! 親父は世界で一番、素晴らしい親父だった。ひかるは、世界で一番幸せな男になったぞ! と言ってやりました。

必ず、両親の眠る墓に、テレビを届けてやる!親子の約束、必ず果たす迄頑張る、と心に誓い、位牌を胸に、島を後にした。

テレビを待つ、島の子供達や、お年寄達がいる。

・・ロマン旅 いつまで続く また歩く・・。

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親父~・・

 1094 防風林

 

太平洋に浮かぶサンゴ礁の島は、リーフに打ち寄せる白いさざ波と、砂浜で、二重に縁どられ、家々は、四角い石垣と、鮮やかな緑の防風林にかこまれ、サンサンと降り注ぐ光と、鮮やかな原色の中、大地を踏み鳴らし、指笛を吹き、拳を握りしめ、力強く、激しい陽気な歌と踊りの世界に、汗あり、人々は、嬉々として、活気づいております。

そして汗ばんだ体を、夕凪が心地よく洗い流していく頃、待ちかねたように現れる一番星。

静寂の夜も深まり、ひときわ心を揺する、潮騒の音。

見上げると、満天に光り輝く星空。

しかし、この夜景は、昼間と様相を一変させてくれます。

星々の光は反射光で、影や色を再現する程強くなく、明るくない。闇でもない。淡い幻想的な、ふわっと浮く明るさのモノクロトーン。

青白い、冷たく透き通る光が、温暖な気候には、見事に溶け合います。

真っ赤なハイビスカスや、エメラルドの海など、原色の世界から色が消え、影のない、おぼろげな星明かり。

潮風は、体を通り抜け、草花は、夜風になびき、砂浜にたむろする恋人達は、影絵そのもの。

白いうなじにそよぐ黒髪は、一段と強調され、目元や鼻筋の陰影、微妙な濃淡の唇からこぼれる、白い歯。

かすかに現れる、モナリザの微笑など、今まで感じた事のない、エキゾチックな墨の世界が発見出来るかと思います。

この星明かりの世界、不思議と身も心も、和ませてくれ、繊細な部分や微妙な変化を見逃す事なく、再現してくれますが、なぜだろうか。

おそらく、視界に眩しく光る物がなく、猫の瞳孔が全開する如く、人間の目や心が、共に見開かれるのためではないだろうか。

壮大な夜空を南北に割り、宝石をちりばめた、橋のない川、天の川。

年に一度、川を渡る、男女の逢瀬があると言う。

川幅は、何光年にも及ぶ事でしょう。

数え切れない星の数、砂粒一つが地球に値すると言うのですから、昔の人は、とてつもない、夢を描いたものだと感心させられます。

そして、昼間の原色の世界から、星座を眺め、エキゾチックな潮騒の淡い幻想に浸る時、心が穏やかに澄んで行くのが感じられますが、この大きな心の振幅の中から、人間としての情操が芽生え、育まれて行くのではないだろうか。

子供の頃、清らかな心の、まん丸い満月のような、欠ける所のない、立派な人間になりなさい、という意味の子守歌を聞き、満月を眺め育ちました。

星空を眺め、星の数は数えようと思えば、読めるけど、親の愛は、数えられない、という意味の歌など、今でもこの地方では、唄い続けられています。

誰もが思い出す、七夕祭りの彦星、織姫物語。

かぐや姫物語、月の砂漠の歌、幼い頃、歌い踊った、モーツァルト作曲のキラキラ星等、月や星を眺め、幻想的で、おぼろげな世界。

その昔、日本全国、電気や車はなく、空は澄み、おぼろげな星あかりの世界は、各地で感じられ、人々の心に、大きな影響を与え、情感豊かな人間味が育まれたのではないだろうか。

あなたは、愛する人の瞳に映える星を、見た事がありますか?

人生、昼間と夜は半分っこ、太陽の下で、星は輝きません。

また、我々の人生、陽のあたる時ばっかりとは限りません。

悩みや悲しみに光を求め、迷う時、星は一条の光を与えてくれる事でしょう。

人間として生まれ、月や星と無関係に生きるのは、大きな不幸ではないでしょうか。

星空に縁遠い都会の子供達、星の巡り合わせ、赤い糸で結ばれた親子の絆のあり方、子守歌代わりに、教えてやる必要があるのではないか。

人は、豊かな自然に触れる時、豊かな心が培われて行くのではないだろうか。

2025年7月23日水曜日

1093 二十歳の夢


いち早くコンピューターを導入、ステンレスを設計図通り自由に曲げる技術を確立し、列車や飛行機の厨房システム、ホテルの大型厨房システムなどの特別注文品を作れる会社を設立し、二十歳の夢を見事に実現して見せのです。

小さな島から着の身、着のまま上京、金やコネ、頼れる人とてなく、自分の夢を追い続け、寸分の狂いない技術を確立するには、どれだけ知恵を絞り徹夜をしたのだろうか。

「この工場の地には、俺の汗が沁み込んでいるんだ」と言った言葉は、忘れられません。

共に少年時代を南の小島で過ごし、体一つで上京、二十歳の夢を語り貫き通した二人。

「夢は実現出来るものだなあ・・」としみじみ。

「いつまでも、老少年で生きよう、旨い酒を飲もう・・」と年に数回酒を酌み交わし、今だに未来を語り合う、弥次喜多道中の男同士。

いつの日も、友は宝だ、ライバルだ!

現在、人口5万人の八重山地区からは、著名な人達が数多く輩出しています。

中でも、昭和39年から12年間、早稲田大学総長を勤めあげた大浜信泉氏は、この地区の誇るべき師として仰ぐ大先輩の一人。

師が声を大にし「人は生まれた所で、価値が決まるものではない!」と言った言葉は、師ならではの、含蓄のある、奥深さを感じさせてくれます。

おそらく上京当時は、若く、命を賭けた決死の時代だった事でしょう。

そして激苦の人生を歩まれ、この言葉に表現されたのではないだろうか。

早大生はもとより、我々も師の言葉を座右の銘とし、後世まで引き継いで行きたいものです。

また、政財界にも多くの知人を持ち、当時の佐藤栄作総理大臣を動かし、「沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない」と言わしめ、実現。

プロ野球コミッショナーや数々の要職を歴任。

更に沖縄海洋博や、復帰後の復興に情熱を傾け、自ら尽力した事はあまり知られておりません。

他にも、カンムリワシと呼ばれ、全国を沸かせた、元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高君も、この地区の誇るべき出身者。

沖縄は戦前、戦中、戦後と波乱万丈の歴史を歩んで来ました。

また、沖縄出身者も一人として恵まれた人はいなかったはずで、上京して、それぞれの人生模様を体験したかと思います。

やはり人間は、ハングリー精神が大事で、ふるさとへ戻るに戻れない。

前へ行くしかない!

この気持ちが、強い人間に鍛えあげて行くのだろうか。

ふるさとは、辛き人生、慰める。

ふるさとは、いつも優しき母の顔。

 1092 サンゴの花

 

親サンゴは、動く事出来ず、自分の産んだ卵が、生き延びているのか、生死すら確認する事叶わず、2度と会う事も出来ず、ただひたすら、子の無事を祈るだけ。

私たちに、生き延びる厳しさを教えてくれ、まかり間違っても、殺めないで欲しい、と叫ぶ、親サンゴの願いが届くはず。

そしてサンゴの産卵、潮の流れが風となる、命の舞。

一度見ると、サンゴに対する愛着と理解が、一層深まるのではないだろうか。

また、黒島のサンゴに囲まれた海面下、1メートル前後の岩に、ある日忽然と、直径十数センチくらいの、岩の付け根が薄い茶色、花自体は、濃赤色のシャクナゲに似た花が咲きます。

薄くて、ゼラチン状の、ぬるっとした肌触りで、あまりにも薄く、潮流があると破れてしまい、咲く事は出来ません。

台風が綺麗に洗い流した後、潮流が殆んどない、直射日光が届く場所。

毎年咲く訳でもなく、同じ岩に咲くのでもなく、ある海域の何処か、一輪咲くだけの不可解な岩花。

サンゴの1種かと思いきや、4、5日後には跡形もなく消滅。

サンゴとは違う、微生物の集合体ではないかと思われ、今だに訳の分らない、幻の岩花。

観光客の多い今、幻の岩花は、見られるのだろうか。

二十歳の夢***昭和39年、小さな島から出て来た青年には、成人式とて、誰も祝ってくれる人はなく、同郷の親友と二人、着飾る同年代を横目に、お金のかからない新宿御苑へ出かけ、二十歳の夢を語り合いました。

ひかるは、テレビの世界で生きて行く事を表明したのは、当然。

親友は、人に使われるのは嫌いなので、人を使う人間になる。すなわち、社長になる事を表明。

当時、沖縄出身者だと、パスポートや身元保証人問題等ハンディキャップもあり、条件の良い会社へは、なかなか就職出来ず、使われる身で、よほど悔しい思いをした事でしょう。

30年後、親友は、立派な大社長になっていました。

1091 珊瑚の産卵


美しく咲き乱れるサンゴ群、実は厳しい条件で、生き延びているのです。

サンゴの育成には、年間18度以上の海水温度と、ある程度の塩分濃度、透明度が高く、太陽光が届く条件が必要です。

しかし日本の最南端、八重山地区は、地球の母なる大河、黒潮が満たしてくれます。

また、このサンゴは、紛れもなく、口も胃もある、れっきとした動物だとの事ですが、自然界に同じ形は二つとなく、段々花畑のように作られたサンゴ郡の景色を眺めるとき、人間の作り上げた日本庭園や町並み等、比較に値しない事が、歴然と感じられます。

植物の光合成は当然ですが、サンゴは、動物でありながらも光合成をする為、太陽を食べる動物。太陽の子、と呼ばれています。

光合成の結果、カルシウムの結晶で、骨格を形成して行くとの事ですが、実は年に一度、産卵をします。

普段はザラザラとした感触のサンゴが、ある時期になると、ぬるぬる状になり、臨月を迎えます。

8月初旬、満月の夜は、サンゴの産卵日でした。

物音一つしない不気味な海底、陣痛が始まり、見渡す限りのサンゴから、数千億にも及ぶ、朱色の卵が、雪が舞う如く、一斉に放卵。ゆっくり浮上する、命の舞。

動物の誕生に、これ程神秘的な世界があったのだろうか、と感動させられます。

地上の万物は、引力の影響を受けざるを得ません。

生まれたばかりの小さな命、どうやって、引力を振り切り、浮上するのだろうか。

そして、サンゴの群生する、水面2メートル前後の水温は、対流となり、横からの緩やかな潮流と交差し、縞状水温を形成。

優しく体を舐め、放卵された、無数の卵が、潮の流れになびく時、ふっと、水中に吹く風を感じさせてくれます。

暖かい南海で水着のまま感じる吹雪、生涯一度体感するのもいいのでは・・

生まれたばかりの小さな命は、浮上と同時に大空へ産声を上げ、さざ波のゆり籠に揺られての、旅立ち。

漂う卵は、殆んどが、魚の餌食になる中、万分の一個が、別な場所に辿り着き、そこを生涯の棲家とし、立派なサンゴへと成長して行く。


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珊瑚の産卵。

 1089 島ザル

 

ひかるがVTR問題で仮眠の連続、死闘を繰り広げていた頃、家計は火の車であった。

食事は殆んど外食、疲れるので、たまにはビジネスホテルに泊まる事もある。

全てが会社の伝票で落とせる訳ではなく、小遣いが足りなくなると、女房が爪に火を灯して蓄えたお金を、むしり盗るように持って行く。

団地住まいで、奥様族は、週に1、2度しか帰って来ないひかるを見、

「あの男、顔に似合わず、やるわね!」

「間違いなく女がいるのよ!」と井戸端会議だ。

当然、女房の耳にもそれは届いてしまった。

そして、二人の子供を抱え、貯金は底をついていたのである。

疲れ果てて帰って来たひかるの顔を見ると、女房は爆発した。

「母子家庭なら覚悟のしようもある!」

「しかし、もうこの貧乏生活、我慢出来ない!!」とテーブルをひっくり返し、怒鳴り付けたのである。

角が出る、なんてものではない。

針千本、いや、角千本だ!

さんまもびっくり、前歯をとんがらし、今にも噛み付かんばかり、恐ろしい形相だ。

次から次、出てくる言葉は、ひかるの脳に、あらゆる角度からブス、ブスと突き刺さる。

「もう、あんたの顔を見るのも嫌だ!」

「もう、これ以上の貧乏は、嫌だ!」

「出て行け!」

「あんたなんぞ、地球の裏にあるという、貧乏王国へ行けばいい!」

「即、大統領、間違いなし!」と。

がなるだけがなって、まだ足りないのか、周りにあるものすべて叩き割り、子供を連れて実家へ帰って行ってしまった。

ひかるは、なすすべもなく、一人酒を飲むしかなかった。

翌日、どう対応すべきか、ひかるは早めに仕事を切り上げ帰ると、女房と子供達が舞い戻っていた。

どうしたのだ、と聞くと、結婚当時、猛反対した親は、手ぐすね待っていたかの如く、あの沖縄の島ザルは、最初からものにならない、躾けはなっていないし、どうしようもない男だと、ありとあらゆる悪口雑言を並べ、すぐにでも離婚すべし! と急きたてる。

人間として扱われない悪口雑言に、今度は、女房が切れた。

冗談じゃない! 曲がりなりにもコツコツ洗濯機、冷蔵庫を買い、子供達まで出来た。

何んの援助もしなかった親ではないか!

こんな所で、父親の悪口雑言を子供達に教え込まれたら、まともな子に育たない、と舞い戻って来たのである。

ひかるは、土下座をして謝った。

そして、ほんのちょっと、もう少しだけ時間をくれ。

今の放送業界、誰も気がつかない。自分がやるしかない。

などと、大言壮語、まくし立てたのである。

業界がどうのこうの・・・女房にとっては、へったくれもクソもない事だが、聞くだけ聞いてやった。

女房は、どうも貧乏神から逃がれられそうにもない、どうせなら、とことん貧乏を舐め尽くそう、と開き直ったのである。

お酒が飲みたい、と言うので、注いでやると、気持ちがほぐれたのか。

「今後は、あんたの事、貧乏王国大統領閣下と呼ばせてもらいますわ・・」

閣下様、私も、立派な大統領夫人になって見せるは! と笑顔を見せてくれたのである。

めでたし・・・めでたし・・・

勿論、ひかるは深く反省、その後、家庭を大事にしたのである。

それにしても、貧乏王国大統領、クーデターを起こすような人は、なさそうだ。

無期限任期は、辛いよう・・

野党の皆さん、お願いだ!

総理大臣を引き擦り下ろす前に、この大統領、引き擦り下ろしてくれ!!!!

1088 NASA


当時、可搬型VTRとして、あのNASAが軍事偵察機用に開発した、VRー3000なる機種が、国内では4,5台導入されていた。

どういう訳か、その機種が、ひかるの会社にあった。

設立時、TBSとフジテレビが折半出資、別々に確保するよりは、子会社に持たせ、両局で使用出来る、という事で、導入されたらしい。

当時は、カラーテレビが飛ぶように売れ、大企業はフィルムCMから、色再現の良い、VCM作りに軸足を移しており、このVRー3000が威力を発揮していたのである。

オペレーター一人付で、日だて15万円でも、飛ぶように注文があった。

ひかるは売れれば売れる程、早く可搬型国産機開発の必要性、反米感情が日に日に増していった。

当然、ソニーも可搬型、Hー500という機種を開発しておりフィールドテスト中だが、どうにも訳の分からない回転エラーが出る。

チェックをするとOKで、エラーの原因が、全く掴めないのだ。

事故日報をピックアップし、気になる事があったので部下にその日の天候を調べさせた。

やはり雨が降っており、それが原因だが、室内での使用でなぜ?

その事をソニーへ連絡、しばらくして原因解明OKの連絡。

湿気でテープのツルツル裏面の貼り付き現象が出ているとの事。

湿度による微妙な事でエラーが出ていたのだ。

さすがソニーで、世界中の支店へ打電し調べ上げ、湿度の一番高いのはボルネオとの事。

それ以上の湿度でも稼動するよう設計変更。Hー500は全世界へ輸出され制覇していったのである。

VRー3000と並べて使うと、桁違いの性能。これでアメリカ製VTRを抹消出来た、と。

VTRは平坦な所で、そっと置いて使う精密機械、しかしひかるはトラックの荷台に紐で結え付け移動使用、どんな地震でも稼動する事を求めたのである。ひかるが立ち上がり、オメガ方式へ切り替える事が出来た。

出来なかったらと考えると、オートスレーディング、カセット化は難しく、途中から方式変更、と言う事態になれば、莫大な費用が掛り、番組内容にも影響したであろう。

そして、一番大事な事は、日本のVTRが全世界で認められた事だ。

南端の小さな島で、ランプの灯りで育った少年の目、どこかで垣間見たカセット、いずれ放送現場でも使われるだろう、と10年先を夢に描いたのである。


 1087 オメガ方式発進

 

この昼メロが放送されるとソニーから電話、キー局がオメガ方式、大量の発注があったと歓喜の連絡が来た。

以後、あっと言う間にオメガ方式に切り変わっていったのである。

それどころか、ソニーは、海外でもその一インチを売り捲り、世界中でこのオメガ方式が統一方式となったのである。

編集システムを担当させた、ひかるの部下K君は、三越とフジテレビが折半出資、アルタスタジオを設立するとの事で、そこへ移籍させた。

今も元気で頑張っているようである。

また、K君は昼メロのヒロインと結婚。

ひかるは、上司として大勢の前で主賓挨拶。

しどろもどろで汗をかき、恥をかいて大きく成って行ったのである。

今なら書ける。***ソニーと方式問題で画策している時、フジテレビの予算執行、発注出来る立場にある、お偉さんから呼び出しを食った。

「君は、親会社、キー局にタテついて、あらぬ動きをしているようだけど、やめろ!

親会社から、一言いけば、君のクビなんぞ、すぐ飛ぶぞ!」と、脅しというよりは、脅迫だ。

ひかるは、承知しましたと、そこを出ると、すぐさま「開発に拍車をかけるべし!」とソニーへ電話したのである。

夜は一人でいつもと違う焼き鳥へ行き、じっくり考えた。

業界全体を考えるべき立場の人が、自分のメンツばかり考えやがって、なんてケツの穴のちっちゃい奴だろうと、情けなくなった。

「ひかるの首を、袈裟掛け、みじん切りにしたとて、一文の得にもならない、やるんならやって見ろ!」と怒りが込み上げて来た。

ひかるは、今まで以上に、意地でもなんとかしてやろう、と固く誓ったのである。


2025年7月22日火曜日

 1086 ノーベル賞

 

日本の映像技術の原点にはノーベル賞が絡んでいた。

当時CCD搭載カメラとオメガ方式VTR。BVH-500の電源にリチューイオンBP-90バッテリーが使われアメリカでは想像不可能。

デジタル先進国アメリカがどうしても日本に勝てなかった訳である。

更にビデオ編集にはとんでもないアイディアが組み込まれていく。

電車の線路と枕木、スピード串刺しが編集に使われたのだ。

線路を見て分かると思うが等間隔に枕木がある。

ビデオで言うとその枕木がワンフレームという事だ。

一秒間に30フレームだが枕木が30個あると思えば良い。

ねるとん求婚番組ではロケカメラ VTRを常時四チエーン使っていた。

30分テープを装着し同時スタート、ガチンコ映像を4台とも入れ止めない状態でそのまま30分間4台のカメラVTRが動き回って収録。

これでワンロール終了、ツーロール、スリーロールも同様にして収録していく。

編集時に、再生に4台、収録に1台、計5台を用意しVTR映像を列車に見立て、5台共真横から串刺しに固定、回転をロックする。

もちろん枕木、いわゆるタイムコードも横一列にロックさせる。

ガチンコ映像をそろえ、串刺しにした映像列車を同時にスタートさせ、記録されている4台の映像を5代目の編集テープに平行移動していくのだ。

再度ガチンコの映像に戻しスタートさせ、編集テープに黒味があれば埋めていけばいい。

モニターは大きめのモニターを4分割し再生映像4台の画を5台目の編集VTRへ嵌め込んで行く。

上に編集用のモニターを乗っけておけば、編集が今迄の編集では考えられない、とんでもないスピードで簡単に出来る。

勿論、今では線路を5本6本なんて言わずに30本50本なんて発想も出来る。

ひかるは世界初のVTR編集センターを稼働させたがその原点は上記の電車と枕木、串刺しの発想が40年前に有ったのだ。

日本の映像王国には編集面で革新的な知恵が使われました。

映像クリエイターやユーチューバー等の分野を目指す人は参考にして下さい。

技術的な事はソニーとリンクし、VTRと編集システムを同時に発売すると飛ぶように売れ、必然的に日本の放送VTR方式、ひいては世界のVTRが日本のオメガ方式VTRで独占された。

ひかるは当時、150人の部下を抱え、ドラマや音楽番組、スポーツやバラエティー、海外ロケから水中撮影、カメラや音響、照明などのスタッフ手配、番組内容把握、目の回る忙しさだが、それと並行して、編集システムの開発だ。

連日連夜、仮眠状態である。

そして編集システムが完成した頃、東宝から連絡があり、昼のメロドラマを日本製一インチVTRで制作し、放送しようとの話が持ち込まれた。

東宝、フジテレビ、ひかるによるプロジェクトが始動したのである。

もちろん、バックには、ソニーとひかるの連係プレーがしっかり出来ている。

世界初、一インチ編集システム、一インチVTR帯ドラマの放送が実現したのである。

その間、ひかるの行動は、死闘の二乗と言えるだろう。

昭和54年、1月から放送された昼メロVTR帯ドラマ{津軽海冬景色}は、世界初一インチ収録編集、業界に衝撃を与えた。


1085 デジタル編集

  

このデジタル編集方式はソニーのオメガ方式とセットで発売されあっという間に世界制覇、

VTR産業で世界を席巻していたアメリカアンペックス社は完敗したのである。

このサイトは10年も前に立ち上げられましたが、当時から個人放送局という名称を使ってます。

現在ユーチューバーやビデオクリエイターなどという言葉をよく耳にします。

10年前このサイトを見ていち早く個人放送をやっていれば今頃はかなりヒットしていたのではないだろうか。

テレビの世界では40年以上も前から、ブルーバックにし、ブルーを抜き取りビデオ信号を合成するクロマキーという技術が使われて来ました。

もしも貴方が歌手だったとしましょう。

音楽のスタート10秒前に爆竹の音を入れて録音しておきます。

ブルーバックの前でそのオーディオで演技をします。激しい動きであったりダンスであったり。

それをカメラ二台で録画し、音楽が終わるとまた前の爆竹のところにスタートを合わせ再度動作を録画します。

カメラのアングルやズームを変化させ十回ほど同じ事を繰り返し録画。

結果ブルーバック合成で20種類のビデオが出来上がります。

それを21のレールに見立て、上記の通り枕木をロック、列車を横から串刺しにし、21種類のフレーム画を平行移動させて編集。

完成ビデオを5,6種類作ります。これで貴方は素晴らしいユーチューバースターになれるでしょう。

多重録画と多重編集、簡単に出来ます。参考にしてみてください。

当時、ひかるは部下を毎年アメリカ偵察へ出張させ、アメリカの映像情報は逐一把握していた。

そして、開発の途に付いたばかりのオメガ方式をソニーへ乗り込み、数年の間にオメガ方式に決定。

命を懸けたその間の裏話などは、数冊の本になるくらいであるが、ここでは割愛する。

方式が確定すると、映画界、VTR産業、CM産業、放送業界は一気になだれ込んで来たのである。

東洋現像所は現IMAGIKAを設立、ボウリング場を借り切り電子編集を主にフイルムから変換して行った。

納入されたオメガ方式機種はBVH-1100だが、ひかるはその前のBVH-1000で電子編集を試みていた。

しかしひかるにはもう一つテーマがあった。

ロケ技術の遅れでクイズやワイドショーなどスタジオ中心の番組内容に、何とか外の映像を茶の間に届けたい、という夢だ。

これもタケシの元気が出るTVやねるとん紅鯨団などで実績を作り一段落した頃、ひかるはやおらアメリカ偵察へ出かけた。

ロスの知人と数十年ぶりに会う事にしたが、アメリカ人を同伴して来た。

一段落すると、その米人がひかるの隣へ来。

貴方を日本へ帰す訳にはいかない、としゃべり出した。

何が何んだか訳が分からない。

よく聞くと、これからメディアを買収する。

だから貴方にはその放送局をやって貰いたい、と言い出したのである。

日本では無名のひかる、あのNASA開発の超精密機械をあっと言う間にこの世から抹殺。

世界初の電子編集システムを稼働させた男としてマークされていたようだ。

このアメリカ拉致事件以後、ひかるの渡米は抹消。

 1084 枕木

 

新しいテープ50本なり100本を録画モードで先にタイムコードを手作業で記録する。とてつもないアナログ作業である。

そのテープを現場へ持ち込み記録されたタイムコードと同期をさせながら録画して行く。

編集時も編集用記録テープにも先にタイムコードが入っているので、再生VTR 4台なら4台と記録VTR計5台を完全にタイムコードをロック、同期させればよい。

そのような事を考え実行した人は誰もいない。ひかるは平気で実行、世界初の電子編集が実現したのである。

更にアイディアが重なる。

手作業のタイムコード入力作業、時間ロスを無くす方法を考えだした。

VTRストップ時、ストップボタンを押すと画像はその時点で無くなり黒味、しかしタイムコードをそのまま30フレーム記録し、そこで止める。

止めたところから30フレーム戻し、最後の画像のところでスタンバイを掛けておく。

次の録画時はタイムコードは既に記録されており、前の画像が無くなった所から画像を嵌め込み、30フレームの間に完全にロックさせればよい。

この作業、操作する人が全く気が付かない。機械的にそう成っているのでおそらく皆さんも全く知らなかった事でしょう。

この技術がホームビデオにも採用されアメリカが日本の真似をしようとしても出来なかったのである。

編集時には更にとんでもない多重編集アイディアが出た。

映像信号は1秒間に30枚、 10分間で1万8,000枚、この中から1枚単位で取り出しコピーする、これが電子編集である。

アメリカ方式だと定規を当てカミソリでカットして行く。

デジタル先進国のアメリカですら出来ない電子編集をどうやって日本で出来たのだろうか。

基本は前記した通りデジタルとアナログのチャンプル方式、更に枕木と列車の関係アイディヤが出て来る。

多重編集と呼んでいるが、実際に「ねるとん紅鯨団」でこの技術が使われた。

ロケの時にカメラとVTR4台を対にしてスタート後ガチンコを入れそのままテープが無くなる迄録画。

編集時に4台、ガチンコの所で同時スタートをさせ、5台目の編集用VTRに4台の映像を平行移動させれば編集が出来上がる。

これが多重編集という事になるが、問題なのが同期の問題だ。

電車のレールを思い出してください。再生用VTR 4台と編集用VTR 1台、合計5台の線路、5線路を想定。

枕木を横に1秒間に30個単位で横に連結同期させる。

レール上の電車を5台とも横から串刺しにする。

通常再生状態で再生4台から編集VTRに列車上で画像を平行移動して行く。

要はその状態で5台目の編集テープに隙間が無く移動できれば編集終了。

この電車、いわゆるVTRテープと枕木を同期させ、更に電車を横から串刺しにする、この状態で画像を平行移動させれば大成功です。

世界初の電子編集、デジタル編集はこの発想で完成したのです。

35年前日本ではデジタルという言葉すら馴染まない時代でした。

アメリカから見れば、デジタルが何かも解らない日本に超ハイテク電子編集が出来るはずがない、が常識だったでしょう。

手作業のアナログで何ん百万ものデジタル信号を綺麗に寸分の狂いない台座を作りデジタル作業を行う、更に枕木が登場、日本国内でも有り得ない事が起きたのです。


2025年7月21日月曜日

 1083 カミソリ編集

 

当時TV局で給料も良く一級技術者ともてはやされたのは剃刀の使い方で決まった。

美容師、床屋マン同様何種類ものカミソリを研ぎ顕微鏡で確認、磁気鉄粉の合間を見事に削除し細かくセロテープ状のもので張り合わせる。

下手な奴がやると高速で巻き戻しストップすると瞬時に破断NG、放送事故になる。

特に野球やスポーツ中継番組などベテランが必要だ。

ひかるも挑戦したが子供のころから畑仕事で指はゴツゴツ磁気面を顕微鏡で捌くのは無理だった。

NASAとアンペックス開発のVTR記録は2インチ幅が使われていた。幅5センチ以上のテープ。ワンフレーム事縦に一本線記録だ。

上記の通り剃刀が必要だ。

日本方式は1インチテープで密度を上げるため縦1本ワンフレームではなく、記録を斜めに記録しアメリカ方式に挑戦。

当然カミソリ編集は不可能。

さて電子編集誰もやった事がない。コンピュータもラックに基盤を嵌め、自作するしかなくバグとの闘い。

記録方式もフロッピーディスクも無い時代、紙テープにパンチ穴でのデータ記録方式。

ひかるはとんでもない知恵を出した。

それはデジタルとアナログをごちゃまぜにするというデジアナチャンプル方式で、更に多重編集を路線と枕木同期方式を実践するのである。

VTRには映像トラックと音声トラック更にタイムコードトラックを設け一秒間に30枚、ワンフレーム単位でタイムコード、所番地を記録していく。

その所番地でストップスタート等の制御を行い、更にワンフレーム単位で映像を抜いたり嵌め込んだりする事である。

当時の日本のデジタル技術では一秒間に30枚単位のタイムコード記録、呼び出しが無理であった。

ひかるは何をやったかというと、録画時に新テープに先にタイムコードのパルスを手作業で全編記録してしまう方法である。

収録時には既に最後までタイムコードが手作業で記録済みのテープに画像一枚一枚を嵌め込んで記録、という事である。

ホームビデオで子供の運動会を映像記録すると、ストップスタートを繰り返す。

再生すると必ずストップスタートした所で画面がビローンと一枚流れてしまう(昔の話)。

前と後の画像が同期していない為、当然で解決不可能だ。

ところがテープに最初から最後まで同期信号を先に記録しておき、画像を嵌め込んでいく編集スタイルなら同期が取れて流れる事は無い。

その原理が電子編集という事になる。タイムコードをアナログで記録、このアイディアで世界初のデジタル編集完成。

1082 方式論

 

α方式とω方式の図で解るようにグリーンのヘッド部分を一回りしているのがα方式でω方式は交差していない。

テープ幅は2、5センチあるのでα方式の場合ヘッド部分のテープ交差を考えると、かなり長くする必要がある。

図緑のヘット部分、缶ビールのロング缶を想像して頂きたい。

なおかつ送り側と巻き取り側のリールにかなり奥行き、いわゆる前後の段差をつける必要がある。

送り側と巻き取り側のリールにも角度をつける必要がある。

ソニーが提唱するオメガ方式は平面でヘッド部分はロング缶状にする必要は無い。

将来的にテープスレーディングを自動化、又はカセット化する方法もオメガ方式なら考えられる。

ひかるは将来的な事を考えオメガ方式採用に行動を起こすのである。

流れでα方式に決定すると、いずれアメリカがα方式の欠点をカバーしたオメガ方式に近い方式で日本に迫って来る事を恐れたのである。

当時の放送局はフイルム素材が溢れ保管場所に倉庫を次々と契約するが間に合わない。

著名人が亡くなりライブラリーを探すがフイルムでは見つけるのが困難。

高速回転出来ないのがフイルムの最大の欠陥である。

ライブラリーに行き詰った局はアルファでもオメガでも、どれでも良い。

ω方式の20分テープより2時間テープのα方式が当然。α方式導入を疑問視する人は一人もいなかった。

しかし録画時、台本を5、6ロールに分割録画。出演者の都合でロール別にリールを何度も中途で架け換える。

将来のカセット化や使い勝手を考えると、交差のアルファは大きな欠点、オメガ方式になる。

ひかるはオメガ方式開発拠点であるソニーの厚木工場へ乗り込む。

駅前はだだっ広い田んぼと畑だらけ。倉庫のような建物があり、その中で20代後半の若者が5、6人オメガ方式を開発していた。

ひかるはまだ沖縄なまりが取れず、着ている服はオンボロ、名字は見た事もない沖縄名字。

訳の分からない、打倒アメリカが迫って来るだの、チンプンカンプンである。

うさん臭い奴 しーしーと追い払いたいところだろうが、年配の人が黙って聞いている。

話が終わると、訛りが気になったのか、ご出身は、と聞かれたので、沖縄であると言うと、握手を求め分かりました一緒にやりましょう、と言ってくれたM部長である。

開発は想像を絶するスピードで進み、あれよあれよという間にソニーのオメガ方式は世界制覇、ニ年後畑に倉庫の如き拠点は見事な巨大な総二階建ての近代的なコンベヤ工場、後にM部長は副社長になったのである。

当時、最初にどうしてもクリアしなければならない問題はテープにカミソリを使って繋ぎ編集するアメリカ方式ではなく、ワンフレーム単位で抜き取り貼り付けていくいわゆる電子編集が出来るか出来ないかが成否を分けるポイントだと見ていた。


1081 図

   


 オメガ方式(ω)

1080 図

 


 アルファ方式(α)

2025年7月20日日曜日

 1079 ソニーのベータ方式

 

カラー放送から十年、プランビコンカメラと2インチVTRの耐用年数が限界となり更新する時期になります。

ひかるは入社10年目、もともと沖縄で育ちアメリカ嫌いが染み付いております。

更新時期を持ってカメラとVTRをアメリカから国産品に切り替えようと、とんでもない事を考え行動に出ます。

カメラは撮像管方式から国産のCCD方式に切り替え、更にVTRは国産の1インチVTR方式に切り替える。

誰がどう考えても無理な事、しかしひかるはとんでもないアイディアを次々と連発、ニ年後にはものの見事に完璧に国産に切り替えます。

時の流れも加味しました。誰一人として気付いていませんが、ひかるは40年後にノーベル賞に輝く開発されたばかりのリチウムイオン電池に目を付けます。

これがいわゆる日本の映像産業を世界ナンバーワンにした原動力です。

デジタル分野ではアメリカと日本では親子の差があると言われた時代。

NASAが国家権力を持っても出来なかった電子編集を日本は簡単にやってのけます。

当時の開発状況を簡単に残していきたいと思います。

当時VTRは2分の1インチホームビデオとしてソニーがベータ方式を提唱していたのですが結果的にVHS方式に統一されソニーは完敗。

孤立無縁苦しい立場に立たされます。

放送VTR方式としてアメリカの2インチ方式から日本の1インチ方式への移行が模索されていました。

ここでもVHS陣営が推すアルファ方式とソニーのオメガ方式が対立。

当然の成り行き、VHS陣営が進めるアルファ方式採用が時間の問題とまで言われていました。

ソニーはホームビデオ、ベータ方式に全力を投入していた為放送方式ではかなり遅れをとっていました。

アルファ方式が2時間テープ使用に対しソニーのオメガ方式は20分テープしか使用出来ません。

素人的にはたいした問題でないように見えますがVTRは鉄粉が塗布され重い為、20分テープと2時間テープでは差があります。

高速で巻き戻し早送りし1秒間に30枚の精度でピタリと止める、あるいはスタートさせる制御は開発時間を必要とします。

ソニーのオメガ方式とVHS陣営が進めるアルファ方式ではどう考えても、ひかるの見た目ではソニー方式に軍配が上がります。


1078 放送用VTRとカメラ


テレビのカラー放送が始まった昭和40年代東京の放送局キー局のVTRやカメラ等、全てがアメリカから輸入された機材でした。

日本のテレビ放送がアメリカのNTSC方式に準じて開始された為です。

世界には他にヨーロッパ方式と共産圏方式、この3つの方式でテレビの放送は行われておりました。

当時のテレビ自体がブラウン管と呼ばれる巨大な真空管であった事は往年の方なら分かるかと思います。

テレビ局側のカメラも真空管でプランビコンと呼ばれる撮像管が使われておりました。

レンズで取り込んだ映像信号をRGBの半透過ミラーで反射させRGBの映像信号を取り出していたのです。

プランビコンの形状は懐中電灯を想像してください。

画面の部分に高圧をかけ電池の部分から電子銃を発射、走査し信号を取り出していたのです。当然三本必要。

その映像を変調して東京タワーから各家庭へ送り込む、テレビ側では巨大なブラウン管後方のRGB電子銃から信号が発射され高圧をかけた画面に叩きこみ発光させます。

TVカメラもかなり重量があり形状もデカい物でした。

それよりまだデカイのはVTRでした。

テープ幅が2インチ、 一インチが2.54センチですから5センチ以上のテープ幅。

テープには鉄粉が塗布され、一時間テープだとズッシリ重くこれを高速巻き戻しで制御、磁気面の粉塵も吸い取りするので巨大なシステムです。

アンペックス社製で宇宙の偵察機にも旅行トランク大のVR三千が搭載され、開発にNASAが関与したといわれております。

これまた値段が目玉が飛び出る値段。キー局といえども4台くらいしか持てません。

予備機も必要でニ式という事、昔の俳優なら局で収録時、VTR待ち時間は度々あり、キー局ですらVTRの数の確保が出来なかった。

2インチVTRは電子編集が出来ませんでした。

記録信号は5センチ幅のテープにワンフレーム単位で上から下に記録されます。

1秒間に30本、いわゆる30フレーム磁気が綺麗に並びます。

それを顕微鏡で見、カミソリで上から下に切断、いらない部分を切り捨て裏面を強烈なテープで張り合わせる繋ぎ編集で、熟練した編集人でないと高速で巻き戻し中あるいはストップ時にバサバサ切れ、切れる事を想定し送出には必ず予備機も回します。


2025年7月19日土曜日

1077 真っ白い砂浜

 

南の島には眩しいくらいの真っ白い砂浜があります。

どうしてこれ程までに白いのだろうか?

本土の砂は、岩が砕けた破片や内陸部より川に流された土や泥が、海水で洗われ砂浜を形づくっていますが、サンゴ礁で出来た小さな島は川もなく、周りと中心部が小高いコマのような地形になっており、大量の雨が降ったとしても、雨は地下水となり、土や泥が内陸部から海岸へ流れ出る事はありません。

島の砂浜は、海側から珊瑚の死骸や貝類がうち寄せられ、砕かれた石灰砂で出来ており、波の激しい浜では、角がとれ、普通の丸みのある砂になり、波の穏やかな湾や入り江では、星状のままになっています。

本土の砂とは、素材そのものが違う。幸せを呼ぶ星砂としてお土産品にもなっています。

子供の頃、巻貝の殻が高い値で売れており、白い殻がワイシャツのボタンに使われていたのです。

その貝殻や珊瑚の死骸等が、砂になるのですから、島の砂浜が精製された白糖のように、真っ白いのは当たり前。

また沖縄名物のハイビスカスと、赤い瓦に白い漆喰模様は、周りと調和し景観を楽しませてくれますが、島々のかわら屋根を台風や厳しい太陽熱から守るのにも、珊瑚が重要な役割を果たして来ました。

昔から赤い瓦屋根の継ぎ目を補強するのに、珊瑚を焼いて灰にして出来た石灰をこねて作った、漆喰が使われてきたのです。

ひかるが生まれ育った黒島は、世界に類を見ない素晴らしい島だ。

島の形自体は見事なハート型、ハートの両肩から下半球を取り巻くように、ものの見事なリーフがあります。

総延長7、8キロくらいは、あるのではないだろうか。

その島を取り巻くリーフと島の間には、これまた見事な大自然の陸橋の如き渡しがいくつもあり、その渡しと渡しの間は、東京ドームを遥かに凌ぐ、大きな天然の巨大プールが出来上ります。

リーフ上には、直径10メートル前後の大小プールが、いたる所に出現。

勿論、色とりどりの熱帯魚が、いっぱいいます。

リーフの内海は、潮流が殆んどなく、子供や女性でも自由に泳げ、しかも潮の干満で、常に綺麗な透き通った状態が保たれ、手入れや維持費も不要です。

数え切れない熱帯魚達と、色々な形をした珊瑚郡の稀に見る自然環境。

その昔、リーフ内には魚貝類等、膨大な量が捕れたとの事。勿論、今でも捕れます。

そして島には住人が溢れ、一大文化圏を形成していたとの事です。

歴史には出てきませんが、本当の意味での日本のインカ帝国と言ってもいいのではないだろうか。

ひかるは定年後、この島の生まれ育った家で、世界一大富豪の生活が約束されているようなものです。

なぜなら、父が自分の畑だと言っていた、大自然の大小数え切れないプールが目前。

プライベートビーチの如く自由に使え、リーフの内側に生息する、おびただしい珊瑚群。

熱帯魚達は、子共の時からの友人であり、仲間であると同時に大きな財産。

これだけのものを作り上げるとしたら、お金がどれくらいかかるか想像さえ出来ません。

この巨大な財産が自由に使えるのです。

自分の物、と言っても過言ではないでしょう。

そうだ、幸せは独り占めしてはいけない。

全国の皆さんにも楽しんでもらおう。

東京ドームより大きな自然の巨大プール、珊瑚や熱帯魚達が一緒に遊んでくれるぞ!

ここは日本最後の楽園だ。

そして、この大自然が、この世で一番恐れるものは人間。

脅かす事なく、壊す事なく、優しく見守ってやろう。

子共達へ残そう。

魚達よ!

珊瑚群よ!

体に気をつけ、元気で頑張れ。

会える日を、楽しみにしているぞ!

 1075 我輩は猫ではない!!

 

当時の沖縄は米国の統治下、東京から遥か二千キロも離れ、生まれ育った島は、日本の地図のどこを探しても載っていなかったのです。

そんな島があるはずがない!

地図にない、一週間以上もかかる、地の果てへ、娘を嫁に出す訳にはいかない!

代々江戸っ子の親には、とても理解してもらえず、あたかも出所不明の住所不定男か、結婚詐欺師の扱い。

訪ねる度に塩を撒かれ、しまいには座布団を投げられる始末。

結婚話は暗礁に乗り上げ、破談になるかと思われましたが、男としてここで引き下がる訳にはいかない。

意地を見せようと、芯から怒ったが、親戚、頼る人とてない二十五歳の若さ。

一人で立ち向かうしかありません。

結婚は当人同士の問題、親や家族が結婚する訳ではない。

文句を言われる筋合いは無いはずだ!

決して、路頭に迷わせるような事はしない。

信じて欲しいと説得。

最後の手段に訴えるしかありませんでした。

これ以上話をしても無理だ!

とにかくこの家を出ろ!

俗に言う駆け落ち・・

彼女が必要な着替えだけはと取りに行き、風呂敷包にし出る直前、

「こちとら江戸っ子だ、犬や猫がくっ付く訳ではあるまい、隣近所の付き合いもある事だし、式くらいは挙げたらどうだ!」

何! よくぞ犬、猫扱いしてくれたな!

我輩は猫ではない!! と怒鳴り返したかったが、ひかるは決断が早い。

何も喧嘩したくて喧嘩している訳ではない。

要は結婚がしたいのである。結婚が出来ればいいのである。

瞬時に頭を切り替え難問解決。

包みを解かせ、「式の日取りは、追って参上つかまつります」と。

彼女は心配顔。

今後この結婚話に反対する様な言動があったら、いつでも私のアパートへ来い、朝でも、夜中でも問題ないよう、管理人には話をつけておく、と・・

目出度く式を挙げ、娘と息子の二人の子供にも恵まれ、あれだけ反対した親も孫達の顔を見、誤解が溶けて行きました。

江戸っ子気質は一度信頼すると、後は何も残しません。

何事もひかるを頼りにし、女房より先に相談してくれるようになりました。

何んで実の娘に、先に話をしてくれないのかと、女房が焼餅を焼く。

平和な、ひかる一家であった。

1074 恋

 

毎日が、ひもじい思いをし、泥棒走りをしていた二十歳。

この世にこれ以上いないかと思われる、美しい女性に、バイト先で出会いました。

声をかけるにも気が小さく、沖縄生まれだと言う、多少の劣等感もあり、ひたすら胸をときめかすのみ。

ある日、まさかと思われる、一大事発生。

その女性が、食欲がないので、自分のお弁当を食べて欲しい、と持って来たのです。

鮭と卵焼きだけのお弁当でしたが、まさかと思われる、好きな女性。

手作りの弁当かと思うと、美味しいの、どうのと言っている場合ではありません。

そして、彼女が目の前で見ているのです。

全身パニック!

世の中バラ色、生まれて最高に甘い食べ物に出会いました。

このままずーっといつまでも一緒にいたい・・・

弁当の味が忘れられず、恋が芽生え、一気に炎と燃え出し、この女性なしに人生はあり得ないと思うようになったのです。

男の恋、一度燃え出したら、止めようがありません。

体を張っての獲得作戦へと展開。

しかし相手は、生まれも育ちも東京両国で、垢ぬけた生粋の江戸っ子。

田舎っぺの取れない三度笠の似合う男には、とても無理かと思われましたが、「命に賭けても、幸せにしてみせる、この気持ちは世界中を探しても、私以上の男はいないはずだ!」 

結婚してくれと、猛うアタック!

一途な気持ちが伝わり、結婚に同意してくれたのです。

やったー!!、

男の情熱、何事か成らざらん!!

天の神、山の神、地の神、海の神、地上の全ての神々を招待し、どんちゃん騒ぎをしたくなったのも当然。

あまりの嬉しさに、気が狂ってしまうのではないか、と自分自身がわからなくなりました。

しかし、暗転、これからが一大事件。

1073 食糧戦争

 

人類は間違いなく、100億に達しており、カラスとの食糧戦争は回避しがたい事でしょう。

都市部では、身近に感じられない事ですが、農村部や温暖な国では、すでにカラスとの食糧戦争が始まっています。

果たして、人類は勝てるのだろうか?

カラスは、人家に近い所に棲んでおり、核や化学兵器は使えず、戦車を出動させたとしても、一羽打ち落とされれば危険を察知し、戦車よりも早く、自由に空を飛び、山や川、海を越え、国境を破り、逃亡。

人類の一点攻撃型兵器は、通用しません。

例え、二、三万羽打ち落とされたとしても、毎年増える数からして、彼らにとっては平気な数。

もしひかるが、カラスの大統領に就任したならば、人類との食糧戦争は、大勝利を収める事でしょう。

一万羽単位で、カラスの編隊を組み、地球上の各ゴルフ場へ基地として集結させ、上空300メートルから、ホールを狙って、小石を落下させる訓練をします。

ゴルフボールは、訓練用に使う為、必然的にゴルフ場は、カラスの軍事基地と化し、手始めに、一万羽のカラスに、其々300グラムの小石を持たせ、猛スピードで走る、新幹線の線路へ一万個の小石を落下させ、波状攻撃。

新幹線は、小石の山に脱線し、多数の死傷者が出、世界的なニュースになる事でしょう。

滑走路や高速道路、至る所で、小石の攻撃を行う為、人間は恐怖のあまり、新幹線、飛行機、車を利用しなくなるでしょう。

線路の小石は拾って何回でも使用。

軍事開発費はいらず、即座に実行出来、路上の人や民家にも一万個単位で、小石の雨を降らせます。

屋根やガラスは割れ、ライフル銃で撃ち落とすにも、300メートル上空までは届かず、特に黒いカラスの夜襲は、効果覿面。

手が付けられません。

農家へは大事な食糧確保の為攻撃せず、人間をカラスの奴隷にするのです。

カラスを「烏合の衆」、と馬鹿にしていた人間共が、逆に、烏合の衆、と呼ばれる羽目になります。

カラスの大統領は、作戦本部を移動し、世界各地の戦況を悠々と視察旅行。

各国首脳は、連日の応戦会議で、精根尽き果てる事でしょう。

強力な軍事力で、地球の保安官を自認するアメリカ大統領が、茹で上がりのタコ顔で、目ん玉飛び出させ、「カラスの野郎!、ブッ殺してやる!」、と喚き散らす、じだんだ姿が目に浮かびます。

カラスの大統領は、カッカラカ、カッカラカ、と高笑い、見下げる事でしょう。

飛べない人間、国境、人種問題を抱える人間が、カラスに勝つ事は、容易ではありません。

カラスは、すでに貝類を上空より落下させて割り、中身を食べる戦術を習得済。

人間を共通の敵と認知した場合、高速道路を走る車に、小石を落下し、一台でも事故を起こさせ、殺せる事が分かると、全カラスに伝達され行動を開始。

カラスには国境がない為、国際的な問題解決策が必要。

国際会議の開催を提案します。

ヒッチコックの映画が、現実のものにならない事を切望しよう・・・

 今すぐに、開発しよう、カラスピル!


1072 カラスの大統領

 

カラスの行動を観察すると、見事な連携プレー、編隊行動をとっている事が、分かります。

ニワトリのヒナを狙う時、一羽は見張り役。

もう一羽は、ケンカを仕掛ける役。

残りの一羽は、ヒナを奪う役目で、三羽での連携プレー。

親鳥が、ケンカを仕掛けられ、一羽のカラスに向かって行き、ヒナ鳥は、親の泣き声、様子に、危険が迫った事を感じ、オロオロ逃げ回るだけ。

奪う役目のカラスは、空から急降下し、逃げ回るヒナ鳥を事もなげに持ち去ります。

この行動を三度繰り返す事により、平等にヒナを確保。

雑食性で、食欲旺盛なカラスに、殆んどの鳥類は、木の実や虫、卵やヒナ等をことごとく持って行かれ、その悪知恵には、とても追いて行けません。

小学生の頃、ひかるはカラスに弁当を取り上げられ、仕返しに卵を取ってやろうと、カラスの巣へ近付くと、何時どうやって呼び寄せたのか、数百羽のカラスが、上空に飛来し、編隊行動。

カラスは、巣を高い所に作る為、木の上で、本気に襲れたのでは、ひとたまりもありません。

事実、数十羽のカラスは、二メートル圏内に接近し、羽を広げて、黒い口ばしを目いっぱい開け、赤口での威嚇合唱。卵を取れば、即座に攻撃出来る臨戦態勢、恐怖を感じ逃げ帰りました。

何んで自分の卵でもないのに、他のカラスが集団攻撃行動に出るのか?

攻撃態勢のカラスは、血族なのか、それとも種族を守る為、安全保障条約を結んでいるのだろうか?

昨今、自然界の生態バランスが崩れ、人間が原因のように見られていますが、問題はカラスに有るのではないだろうか。

他の動物が減少する中、カラスには殆んど天敵がいない為、繁殖の一途です。東京の空も既に制覇され、神宮の森は、絶好の棲家として、他の鳥は、黒い軍団の恐怖に近付けません。

現在、地球上に、十億のカラスがいるとし、10年間で倍増すると、想定した場合、50年先には、320億の数に大繁殖。


1071 画 カラス

 


カラスの大統領。

2025年7月18日金曜日

 1070 夫婦喧嘩

 

また、沖縄のおみやげ店で目に付くのか、100歳にもなるかと思われる、シワシワだらけの、歯っ欠け老夫婦のお面でしょう。

この老夫婦面、実は、夫婦和合の、不思議な力が秘められている面だという事は、あまり知られておりません。

夫婦喧嘩は、どこでもあるかと思いますが、口もきかず、冷戦状態が続いた後でも、このシワシワだらけの、歯っ欠け老夫婦のお面を見ると、思わず吹き出してしまい、些細な事での夫婦喧嘩が馬鹿馬鹿しくなり、仲直りするとの事。

また、このお面をかぶっての、老夫婦の面踊りは最高です。

おじいちゃんは若い時、人一倍スケベーだったとの事。

腰も立たなくなった今、おばあちゃんが、「私のこと、好いとるか・・」と色っぽく迫り、もじもじし・・「おばあちゃんは、世界で一番美しい・・昔も今も一番好いとるぞー」と答えると、「よくも、焼きもちを妬かせてくれたもんだ・・」、とつねり、100歳もの老夫婦が、這いずり、顔を赤らめ、新婚初夜を思わせる仕草は、腰が抜ける程笑わせてくれます。

お祭りや結婚式などに舞れ、舞台上では決してお面を取らず、どの夫婦が舞ったのか、演者当ても場を盛り上げます。

夫婦の機微、和合を楽しませる踊り、一度は世の夫婦に見せたい踊りです。

また、この面踊り、忘年会や結婚式に踊ると、大受けする事間違いなし。

お面を新婚祝いに送ると喜ばれる事、受けあいです。

このお面は「ヤマシキのアブジヤーマー」、と呼ばれ、山崎村のおじいちゃんおばあちゃん、と言う意味で、この山崎村、今は廃村ですが、昔黒島にあった村で、歯っ欠けお面の発祥地です。

知念家では代々、高砂のお面、として大事に祭られております。

ひかると言う男の脳内プログラム、生い立ちの影響なのか、引く事、後退するという事が、考えられないのである。

前記した通り、12ミリ、いや、12カ月、80センチのスケール上で人生を考えるので、後退という事はあり得ないのである。

勿論、後悔するという事も殆んどない。

そして後輩達には、「俺は、背中に断崖絶壁、崖を背負っている、振り向けば、目まいでまっ逆さま、木っ端微塵。だから、振り向く事もしない。常に進む以外はない。嵐が来れば、四つん這いになり、更に激しくなれば、腹這う、そしてミミズとなって、這いずってでも、前へ進む」

人生とは、そういうものだ、と説くのである。

「生半可でない、常に極限の生き方を求めろ!」と。

1069 画 面踊り

 


ジジババ面踊り。

1068 パーイ

 

日本人のルーツは、南方説、北方説、中国説と、色々議論されていますが、南端の黒島では、南方説を裏付ける、珍しい方言が残っています。

例えば、農耕に使うクワの呼び方ですが、島では、「パーイ」と呼びます。

言語学者によると、ペルーの山奥の原住民が、同じ「パーイ」と、呼ぶとの事。

どうしてこのような事が起きるのか、学者自身も不思議がっていました。

一説によると、ペルーやミクロネシア諸島等、赤道付近の島から、黒潮により言葉や生活様式が、運ばれたのではないか、と言われています。

更に不思議な事に、島では、足の事を食べるパンと同じ、パンと発音します。

もしかすると、南の島で、足の事を、パンと呼ぶ所が、あるのではないだろうか。

個人的な推測ですが、食べるパンの語源が、どこから来たのかは分かりませんが、その昔、小麦粉を足で踏みこね、発酵させたか、麦踏の足に関係しているのではないだろうか。

そして、足の事を、パンと呼ぶので、この食べ物をパンと、名付けたのではないかと、大胆な推測をしていました。

この地区は、島により多少方言の違いはありますが、黒島では殆んど「パ、ピ、プ、ペ、ポ」「ガ、ギ、グ、ゲ、ゴ」等の発音だらけで、日本の五十音の発音だけで構成される言葉は、あまり見当りません。

私を方言で言うと「バー」、太陽が「ティダ」、鎌が「ガッキ」、笛が「ピーラキ」、太るが「パンタル」、逃げるが「ピンギル」、てんぷらが「パンビン」等、載げれば限がなく、日本にそのような言葉があるのだろうか、と疑いたくなりますが、紛れもない事実。

何んの因果か、ハブの事も「パン」と呼び、足、ハブ、パンを方言で言うと、パン、パン、パンになり、てんぷら、太る、逃げるが、「パンビン、パンタル、ピンギル」。

最近、南の国から輸入される果物等の呼び方を聞くと、アボガド、パパイヤ、マンゴウ、パイン等、島の方言にゴロ合いが、ぴったり合う発音に驚かされ、少なくとも日本の南端地区では、南方説を裏付ける現象がみられます。

また、「ようこそいらっしゃいませ」という、歓迎の言葉を「オーリ、トーリ」 と表現。

石垣島の商店街のアーケードに、この言葉が大きく、「おーり とーり」と掲げられています。

しかし、ほとんどの観光客は、「おーり 通り」と通り名を連想。

通りとは全く別な場所で、歓迎の「ようこそ、いらっしゃいませ」、「おーり とーり」の立て看板に出会うと、初めて疑問を感じ、正しい解釈をするようになります。

おかしな事に、石垣島の人通りの一番多い交差点に、カニウマの二人乗りは、やめましょうと、大きな立て看板。

本土の人は、蟹のように、横歩きをする、珍馬がいるのかと、興味をそそられますが、実は、カニウマの二人乗りとは、自転車の二人乗りの事で、

自転車の事を、カニウマ と言うのです。

金馬(カネウマ)が訛ってカニウマ??

本土のチャリンコ、いかにも可愛らしい呼び方だと感心させられられましたが、石垣島のカニウマは、ユニークな情緒のある呼び方ではないだろうか。

他にも面白い方言があります。

例えば、昔を方言で言うと、「パ~ンティ」と言います。

高校時代、物語を方言で発表しようという事で、昔々、というくだりを、いきなり「パ~ンティー、パンティ・・・」 と切り出すと、女生徒がキャーと大笑い。

パンティーと解釈され、爆笑の内に物語は終わりました。


1163 ヤギ様

  南の島々には、ヤギを飼育しており、ヤギ汁は生活に欠かせない。 そして必ずと言っていいくらい、そこにはヨモギが入っている。 ヤギ汁は血圧を上げる、ヨモギは血圧を下げる効果があるとの事。 だからこの組み合わせは、どこの家庭でも行われている。 古老に聞くと、ヨモギは、サギグスイ、下...